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「ん? なんだか騒がしいな……」
 いつもの朝。なんら変わりない風景を予想していたのだが、どうも今朝は周囲の様子に落ち着きがない。朝も早くから不穏なざわめきが絶えない。
 何かあったのだろうか?
 二回生の時、上級生の派閥抗争があった頃を思い出す。丁度雰囲気があれに似ている。普段の会話で当たり前のように、タカ派の誰々が闇討ちに遭った、という穏やかではない会話が交わされていたのだ。道行くアカデミーの生徒達は皆、何やらしきりに、ああでもないこうでもない、と歩きながら談議している。また何かその手の厄介事が起きたのだろうか。
 まったく、このアカデミーは相変わらず事件には事欠かないな。
「ガイア!」
 と、その時。
 向こうからリームがこちらに走り寄って来た。強引に人波を掻き分けながら、血相を変えて走ってくる。天性の楽天家であるリームにしては珍しい表情だ。
「なんだ、お前。こんな時間にアカデミーにいるなんて―――うわっ!?」
 急にリームは強引に俺の襟元を掴んだ。カツアゲなどをする時の態勢だ。
「ガイア! とにかく大変なの!」
「はあ? なんだよ」
 こいつは基本的に話の起承転結の組み立てがなっていない。いつも話す時は、事が起こった順番ではなく頭に思い浮かんだ順に勢いだけで話すのだ。だから聞く側には多少のスキルが必要になる。
「大変なの! 今すぐなんとかしなきゃ!」
「何とかって。お前、またなんかやらかしたのか?」
 いつものからかうような口調で俺は苦笑する。
 リームは俺達と同期生の中では、指折りのトラブルメーカーだ。ついこの間も、模擬戦中に覚えたばかりの死殺技を試そうとして大騒ぎになったばかりだ。
 またその手のトラブルだろう。そう安易に思っていたのだが。
「ん?」
 必死の顔でこちらを見上げるリームの目には、今にも溢れ出しそうなほどの涙が浮かんでいた。
 ……え?
「もう、私、どうしたらいいのか……」
 声は涙声になって掠れていく。リームは俺の襟を掴んだまま、顔を隠すようにその場にうつむいた。
「お、お、お、落ち着けって。何があったんだよ」
 思わぬリームの様子に、俺は酷く戸惑った。殴られたら三倍にして殴り返すような気性の荒いリームが、よもやこんな表情を見せるなんて。それだけとてつもない何かが起こったというのか?
 リームは俺の襟から手を放し、うつむいたままごしごしと目元を拭う。俺はあえて気づかない振りをしてやった。リームとは長い付き合いで、そういう姿を見られるのを極端に嫌う事を知っているからだ。
「冷静にな。物事の筋道を順序立てて」
「う、うん……」
 静かに呼吸を繰り返し、リームは自分を落ち着ける。さすがに格闘師だけあって精神修養も行っており、すぐにパニックを起こしていた頭をいつもの冷静な状態に戻した。しかし、表情には普段の明るさはなく、まるで雨雲のようにどんよりと沈んでいる。
「今朝、私の部屋に同じ学科の後輩が知らせに来てさ……。それでグレイスが、査問会に召喚されたって聞いて……」
「グレイスが査問会に!? どうして!?」
 査問会とは、このアカデミーにおける裁判所のようなものだ。アカデミー内、もしくはアカデミーが関与する範囲内で何か事件が起こった際、その処分を決定し、直接本人に勧告するのである。だが基本的に、ちょっと殴り合いの揉め事を起こしたぐらいでは査問会に召喚されるような事はない。よほどの危険な手段を使い、相手を死に至らしめる、もしくはその一歩手前までやらない限り、大抵は教師の説教、もしくは自治会による軽い処分で済む。
 そして、今回の場合。査問会を仕切るのは理事長と長老陣。つまりアカデミーのトップ達だ。そんな彼らが出てくる査問会にかけられるという事は、それほどの大きな問題を起こしたという事になる。具体的に言えば、人の生死問題やアカデミーの名誉に関わるような事件だ。
 一体グレイスに何があったのだろう?
 少なくともあいつは、自分から決してトラブルの種を蒔いたりするような人間じゃない。巻き込まれる事こそありはしても、査問会に召喚されるような重大的事件を起こすとはとても思えない。
 しかし。
「昨夜、宝物庫の警備してたんだけど、襲撃を受けて……。それで神器が持ち出されたらしいの。それで……」
「……マジで?」
 俺は思わず背筋が冷えるのを感じた。
 神器は、いわばアカデミーのプライドの象徴だ。神器の能力の高さが、アカデミーの格付けの一端を握っているのだ。それをみすみす何者かに持ち去られたとなっては、アカデミーの名誉に大きな傷がつく事は避けられない。
 まさかグレイスがそんな事に巻き込まれたなんて……。俺の胸に、急に重苦しい不安が圧し掛かってきた。
 正直言って、これは俺のような凡人の手には余る事態だ。俺如きにはどうしようもない。だとすれば。とるべき手段は一つだ。
「で、グレイスのヤツは今、どうなってるんだ?」
「機密事項がどうこうで傍聴は出来ないって言われて……それで、私はどうしたらいいのか分かんなくて……。誰か呼ぼうって思ったらあんたを見つけて……」
 リームはいつになく酷く落胆していた。こんな表情を見るのは、あの時以来だ。
 助けてやりたいのに、自分にはどうしようもない。そんな感情の葛藤がリームを錯乱させていたのだろう。それがグレイスなのだから、その気持ちは殊更強いものに違いない。
「そ、そうか……。とにかく、俺にもどうしたらいいのかよく分からないから、セシアかヴァルマを探そう。あいつらなら、何とか出来るかもしれない」




「はあ……」
 もう何度目になるか分からない溜息をつき、僕はアカデミーの正面門を後にした。時刻は丁度最初の講義が始まる頃だ。意識を取り戻してからすぐに査問会にかけられ、今までずっと不眠不休だった。にも拘わらず、眠気はちっとも感じない。
 足は自分の部屋へと向かっている。引き摺るような足取りで、決して軽快とは呼べない。でも、これが今の僕が出来る精一杯だ。
 絶望、という言葉をこれほど自分の身にひしひしと感じた事は生まれて初めてだろう。それは絶え間なく続く疲労感にも似ている。
 胸に渦巻く重苦しい憂鬱を吐き出そうと、再び溜息をつく。けど、まるで火に油を注ぎ込むかのように、更に憂鬱さを加速させるだけだった。それでも僕は溜息をつかずにはいられなかった。少なくとも息を吐く瞬間だけは、いくらかは気が紛れるのだから。
 グレイス=ハプスブルグを現時刻を持って除籍処分とする。
 張り詰めた空気の中、立たされていた査問会。周囲をアカデミーの長老陣が取り囲むように座り、僕をただじっと冷たい目で見ている。
 その視線を一身に受けながら最後の宣告を受けた時の衝撃は、今も色濃く僕の中で反響し続けている。初めから希望など持ってはいなかったけど、気持ちのどこかでは微かに希望を持っていたのも事実だ。そしてそれは、あの瞬間に見事に砕け散ってしまった。そして残ったのは、どうしようもない疲労感のみ。
 仕方ない。僕は何の文句も言える立場じゃない。神器とは、アカデミーにとっては重要なもの。たとえ黙認されていた代行警備だったとしても、その責任は僕自身にある。
 どうして僕はこうなんだろう……?
 昔からそうだった。
 いつも自分でこれと決めた事は、たとえどんなに頑張っても必ず途中で挫折してしまう。何一つ、やり遂げられた事なんてない。
 広い世界をこの目で見て回るため、僕は両親の反対を押し切ってこのアカデミーに入学した。そして今日まで何事もなく順調に実力をつけ、後は今年度を最後に卒業だったのに。
 夏期休暇にリームと旅行に行くため、警備代行のアルバイトで費用を稼ごうとしたが、もはやそんな悠長な事をどうこう言っている場合ではなくなってしまった。
 どちらも、考えうる最も最悪の形で同時に挫折する事になってしまった。それも、僕自身の不注意によるもので。
 やっぱり、僕は何をやっても駄目なのだ。所詮、言われた事しか出来ない人間、いや、存在なのだ……。
 足取りが重い。これほどまで憂鬱な気分は久しぶりだ。そう、確かヴァンパイアの血が目覚め、血を欲し始めた時以来だろう。
 僕という存在は、どうしてこうも周囲に迷惑ばかりかけてしまうのだろう。これまで僕は、人には迷惑ばかりかけたけど、自分からは何もしてやれなかった。
 父さんと母さんは、僕の事を何と思うだろう? 自分の反対を押し切ってアカデミーに入学したにも拘わらず、最後までやり遂げぬまま、こういう形に終わってしまった僕を。きっと、不出来な息子だと幻滅するに違いない……。
 何もかもがどうでも良くなる瞬間というものを、今、僕は全身にひしひしと感じていた。
 どうせ自分は、何をやっても駄目だ。何一つやり遂げられない。魔術師になって世界を旅して回るなんて、所詮、僕には初めから無理な事だったんだ。いくら努力したって、挫折するのが早いか遅いかの違いしかないのだ。
 これからどうしよう?
 乾いた気持ちで、僕は誰となくつぶやいた。
 周囲の音は間近で聞こえるにも拘わらず、酷く遠くのものに感じる。
 僕は初めから高望みなどせず、人間として暮らすなんて妄想も抱かず、分相応の一生を送るべきだったんだ……。



TO BE CONTINUED...