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「うわっ。カビ臭っ」
 城内に足を踏み入れた俺達を出迎えたのは、鼻を刺すようなカビの臭気だった。
 床は埃に塗れて変色し、カーペットの間からは雑草が生えている。当然の事ながら照明の類があるはずもなく、所々窓から差し込んでくる日差し以外には足元を照らすものがないので、薄暗い辺りを歩くのはいまいち足元がおぼつかない。
 俺は右手に魔術の炎を灯すろ、先頭に立ってみんなの足元を照らす。
「とりあえず、どこを目指す?」
「君に任せよう。どうせここに居るという事以外の情報はないのだ。直感で向かってくれていい」
 そういう事ならば気楽に行くとするか。
 まずは正面の大階段を上り始める。理由は無論、勘だ。
「ねえ。さっきの人さ、何か言ってた?」
 セシアが先ほどの事について訊ねてくる。その時セシアは、かなりの重傷を負ったあの男の弟の治療をしていたため、あの場にはいなかったのだ。
「ああ。やっぱあの二人は鮮血の騎士にやられたようだ」
「そう。あれ、明らかに剣のケガだったものね。それも、思いっ切り斬られた」
 肩口からばっさりやられたあの男の、なんとも痛々しい姿を思い出す。
 彼はセシアの法術により、なんとか兄に肩を貸してもらって歩けるぐらいに回復した。意識不明の昏睡状態だったのだから、セシアの法術の力は驚愕すべきものである。
 セシアはアカデミー時代は稀代の天才と謳われた法術師だ。当時から法術師としての技能は並外れていたが、卒業から今までの間も更にその実力は上がっている。少なくとも半年前のセシアでは、さっきのような重傷の治療をすれば、もっと顔色が悪くなって息が上がっていたはずだ。それだけ法力のキャパシティが増え治療効率も上がったという事なのである。
「ん……? これは」
 ふと俺は、床の上に何かを見つけたのでしゃがみ込んでよく見てみる。
 大体の建物構造の輪郭ぐらいしか掴めない薄暗さなので、右手の炎を近づけて照らす。
「どうかした?」
「うん。ほら、これ」
 問うてきたセシアに、俺は床を指差した。そこには赤茶けた染みが点々と続いていた。
「さっきの人のだと思う。もしかすると、これを辿っていくと鮮血の騎士に逢えるかもしれない」
「確かに行き当たりばったりよりは可能性は高いわね。でも、ちょっと大丈夫かしら? さっきの男の人だって、決して弱い訳じゃないのに。それをあんな重傷負わせるなんて、相当のものよ」
 どこかのアカデミーで正統な流派の剣術を学んだのにも拘わらず、成す術なく一刀の元に斬り捨てられたのだ。どんなにどん底の成績だったとしても、全てのカリキュラムを終えたのであれば、よほど特殊な攻撃でもない限り身を守るぐらいの事は出来るはずだ。それすらも許さないとあれば、鮮血の騎士とはアカデミー卒の俺達よりも実力が上である可能性は十分にある。こちらも相当の覚悟が必要である。
「まあ、問題はないだろう。こちらには優秀な剣士が二人もいるのだからね」
「鮮血の騎士なる凡夫如き!」
「私達の刀の錆にしてくれます!」
 そう二人は、兄譲りの根拠の所在が窺い知れない自信に満ちた表情で胸を張る。
 二人は、アカデミー時代は学園で一、二を争う剣の達人だったのだ。現在はそれぞれ神器の剣を二振りずつ持っているし、その自信に違わぬ実力を持っている事は言うまでもない。双子ならではの連携の良さも、個々の実力を十二分に発揮させる。
 俺達はそのまま血の染みを辿りながら三階まで上ってくる。染みは三階まで来ると、西側の廊下に向かっていた。そこから先は途切れ途切れになり、遂には見えなくなってしまった。どうやらあの二人が鮮血の騎士と立ち会ったのはこの辺りのようだ。
 時刻はまだ昼過ぎ。西日になるには少し早い時間帯のため、窓から光が差し込むことはない。
 薄気味悪い雰囲気である。セシアのように霊に敏感ではなくとも、喉の詰まるような居心地の悪さは感じずにいられない。空気がねっとりと湿って重く、吸っている空気が実に体に悪そうだ。
「う……ちょっと」
 と、その時。唐突にセシアが後ろから俺の袖を引っ張った。
「どうかしたか?」
「ここ、ちょっと本当に嫌な感じなの……」
 なんだ、また例のオバケ嫌いの発作が出たか。
 そう苦笑しながら振り返る。だがセシアの顔は、これまでになく真っ青になって震えていた。どこかしら体調が悪いのは火を見るよりも明らかだ。今にも倒れてもおかしくない様子だ。
「おい、顔色かなりヤバイぞ。大丈夫か?」
「……ごめん。ちょっと無理みたい」
 法術師とは皆、頑固な性格であるそうだ。
 それが真実かどうかはともかくとして、セシアは俺とは正反対にいたって真面目で、お堅く頑固一徹な性格だ。石頭も石頭で、一度自分がそうと決めたら、それを成し遂げるまでは意地でもやり通そうとする。そういう頑固な所も可愛いとは思うのだが、それは時と場合による。多少具合が悪くとも、自分ためにみんなに支障を来たすような状況ならば絶対に大丈夫だと虚勢を張るのだ。かえって正直に具合が悪い事を言ってくれた方が対処もしやすいのだが、どうも意固地になって我慢してしまうクセがあるのである。
 そんな頑固なセシアが耐えかねたのだ。これはおそらく、この廃墟には霊の類が無数に徘徊しているせいで悪寒などを感じているのだろうが、こんなになってしまうという事は、相当ヤバイものがいる可能性がある。
「なあ。悪いけどさ、いったん出ないか? セシアがちょっとヤバイみたいだ」
 何やら足取りも危なげになってきたセシアの肩を抱き、俺はヴァルマ達にそう提案する。
「うむ。一度戻って、霊体系対策を練り直して出直した方が良さそうだな」
 霊体系の対策には、意外とかなりの種類がある。とは言ってもピンからキリまであり、当然ながら全く効果のない迷信もある。
 代表的なものでは塩を用いたものもあるが、少し高等になると、退魔効果を発揮するファランクスやシンボルを法術で描く法術処理もある。
「セシア、大丈夫?」
「セシア、大丈夫?」
 気分悪げなセシアの顔を、不安そうにしげしげと見つめるエルフィとシルフィ。そんな二人に、セシアはやっとの事で大丈夫だと微笑んで見せる。
「よし、戻るぞ」
 俺達は踵を返して元来た道を戻り始める。
 と―――。
 がちゃん。
 突然、前の方から金属の音が聞こえてくる。辺りが物静かだけに、やけにその甲高い音が反響する。
「これは……まさか」
 嫌な予感がする。
 何もこんな時に遭遇してしまうなんて事はないだろうな?
 そういう希望的観測はプロとしてやってはいけない事なのだが、そう嘆かずにはいられなかった。
「……どうやら御出でなすったようだ」
 ヴァルマの周囲にふつふつと小さな水球が幾つも浮かび上がる。ヴァルマは水の魔術を得意とする魔術師だ。
 エルフィとシルフィは一番前に立ち、それぞれ腰に携えていた剣を抜く。二人とも二本ずつ剣を持っているのだが、抜いたのは一本だけだ。エルフィの剣は、神器羅刹の伐剣。シルフィの剣は、神器閻魔の伏剣だ。
 二人は抜き放った剣を構え、前方に意識を集中する。
「下がってろ」
 俺はセシアを後ろに下がらせて背中にかばい、右手に魔力を集中させる。
 来れるものなら来てみろ……。
 がちゃん、がちゃん、がちゃん。
 音が段々と近づいてくる。反響する音も大きくなってくる。
 物影に隠れて見えなかった音の主の姿が、窓から僅かに差した日の光に照らされてあらわになる。
 白日の下にさらされる、全身を重厚な鎧に包んだ一人の騎士の姿。
 黒塗りの甲冑が日の光を受けて鈍い光を放つその姿に、俺は戦慄を覚えた。