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 深夜。
 意識の外側から虫の鳴き声が聞こえてくる。ぴいぴいと夜中だというのに、一向に休む様子もなく盛んに鳴き続けている。むしろ虫にとっては夜の時間帯が活動時間か。
 眠りが浅い。
 そう考えると、ますます意識が冴えて来た。
 明日は再びあの古城に乗り込んで、まんまとしてやられた鮮血の騎士にリベンジを果たす予定なのに。寝不足の状態ではみんなの足を引っ張りかねない。早く眠ってしまわなければ。だが、そう考えれば考えるほど、俺の意識は水底から浮かび上がるように鮮明化していき、より虫の鳴き声がはっきりと聞こえてくる。眠ろう眠ろうと焦れば焦るほど、目が冴えてきてしまうのだ。
「あー、もう」
 遂に溜まりかねた俺は、自ら希薄になっている眠気にピリオドを打ち起き上がった。
 周囲を見渡すと、やはり未だ夜の帳が下りたままで夜明けには程遠い時刻だ。焚き火の明かりが目に眩しい。焚き火の向こう側では、ヴァルマを真ん中にエルフィとシルフィとが川の字になって眠っている。良く見れば、エルフィとシルフィは共に腕枕をしてもらっている。腕枕なんて寝心地の良いものには思えないのだが。相変わらず仲の良い事だ。
 一方俺の隣では、セシアが静かな寝息を立てて眠っている。だが、毛布からは手足が行儀悪く飛び出している。寝相の悪さは相変わらずだ。こういうのはきっと一生治らないのだろう。俺はそっと起こさないように毛布をかけ直してやる。
 さて、と。どうするかなあ……。
 見た所、みんなぐっすりと良く眠っているようだ。目が冴えて寝そびれてしまったのは俺だけのようである。眠れないから話にでも付き合え、ってのは幾らなんでも悪いし。しかし、かと言ってこのままボーっと日の出を待つ訳にもいくまい。退屈過ぎて死んでしまう。
 こうしていても仕方がないか……。とりあえず、ブラッとその辺りを一周してこよう。
 俺はそっと立ち上がって上着を着こんだ。
 この大陸はニブルヘイムのような寒い気候ではなかったが、さすがに夜ともなると多少は気温が下がる。上着を着込んでいても少し肌寒い。
 夜ともなると、昼間の喧騒が嘘のように消える。この付近に人家はないが、日中でも鳥や動物やらの鳴き声がよく聞こえてくるのだ。今、俺に聞こえてくるのは、虫の鳴き声と風が揺らして擦れ合う草木の音、そして自分の足音だけだ。
 それだけの静寂の中に放り込まれると、否が応にも聴覚が研ぎ澄まされてくる。耳鳴りにも似た静寂独特の喧騒は俺の思考を鮮明化し、ふと気がつけば一昨日、昨日の事を回想していた。
 それにしても、昨日はとんでもない目に遭った。久しぶりに本気で死ぬかと思った。ここんところ随分とぬるい獲物ばかり相手にしていたようで、自らの気の緩みを痛感させられる。
 これは俺だけに限らず言える事ではあるけど、鮮血の騎士の実力を過小評価し過ぎて侮っていたようだ。魔物相手ならばともかく、人間が相手では大した手間ではないと考えていた。なんせ、自分達はアカデミーで正規のカリキュラムに乗っ取って修学した戦闘のプロだ。少し強いぐらいの人間なんて物の数には入らない。それがおそらく全員の考えだっただろう。
 しかし、結果はどうだ。予想外の鮮血の騎士の強さに驚愕し、結局方々の体で逃げ出すハメになった。鼻を折られる、とはまさにこの事だ。
 今回のこれを良い教訓とするべきだろう。敵の技量を初めから決めてかかっては痛い目を見る。俺はアカデミー時代は大した成績ではなかったのだ。まだまだ自分の力に慢心するには到底早過ぎる。もっと直向な姿勢で何事にも臨まねば。そうでなければ、予想だにしない所で命を落としかねない。
 今度こそ不覚は取らない。必ず鮮血の騎士を仕留めてみせる。こっちは随分な目に遭わされたが、おかげで手の内もかなり把握できた。最も注意しなければいけないのは、鮮血の騎士の持つ剣だ。あの剣に攻撃を仕掛けられると、どんなタイミングでも防ぐ事が出来ないのだ。だからその剣による攻撃に注意しながら、なんとかしてあの頑強極まりない甲冑を打ち破れば勝機が見えてくる。数で考えれば、こちらは圧倒的に有利なのだ。それに、俺以外の四人は皆神器を授与されてるし。純粋な戦力なら十分過ぎるほど充実しているのだ。
 神器と言えば。エルフィとシルフィは、この世に斬れない物はない邪剣ザンテツとかいう物騒極まりない神器を持っていたっけ。あの時はザンテツは抜かなかったけど、これならあの甲冑も破壊できるだろう。一つ、あいつらに使わせてみるかな。
 そんな考え事をしながら、数十分。やがて俺はみんなの居る橋に戻ってきた。
 そろそろ眠れるだろうか? まあ、眠れなかったら眠れなかったでもう一周してみればいい。
 こういう時、酒の飲める人が羨ましく思える。酒を飲むとかなり気持ちよく眠れるそうだ。俺は吐き気以外には感じるものがない。むしろ飲まない方がぐっすりと眠れるのだ。
「ん?」
 と、その時。橋の上にちらりと人影が見えた。
 あれ? 誰か起きたのかな?
 だが、やがて近づいてくるに連れてよく見えてきたその人影は、明らかに他のみんなとは違っていた。その身形がどうみても冒険者といった感じではないのだ。
「あら……」
 そう人影は、近づいてきたこちらの気配に気づいて振り向いた。
 その姿に、俺は思わずハッとその場に立ち尽くした。
 白い豪奢なドレスに身を包み、胸元には綺麗な宝石を散りばめたネックレスをつけている。肌は突き抜けたように白いし、唇は綺麗な赤だし。どう見ても、一国の王女様といった感じの高級な身なりだ。
 しかし、そんな高貴な人間が、こんな時間にお供も連れず一人でこんな所にやってくるだろうか? それも王女が外出するなんて滅多にはありえない事だ。あまりにも無用心過ぎる。
「君は……」
 本来なら、君は、なんて一国の王女にする言葉使いではない。通常なら不敬罪で捕まってもおかしくはないくらいだ。だが、そのあまりに唐突な登場に、すっかり俺は舞い上がってしまっていた。王族なんて、庶民の俺らからしてみれば、それこそ雲の上の存在なのだから。場を同じにする事自体が名誉と言われるくらいなのだ。
 一体、どうしてこんな所にいるのだ?
 お忍びとか言うアレか? だが、近くに馬車とかそういうのは見当たらないし……。一人で抜け出してきたにしては、服に全く汚れが見当たらない。そもそも、この辺りに城とかそういうのあったっけ?
 唐突な王族の登場に困惑する俺だったが、突然、彼女は俺の傍に小走りで駆け寄ってきた。
「お願いがあります!」
「え?」
 すぐさま彼女は必死の表情で俺に哀願してくる。下から見上げてくるその愛らしさに、思わず胸がドキッと高鳴った。
「イブリーズを……」
「え? 誰?」
 消え入りそうなほど小さな声。聞き取るのがやっとだったが、確かに彼女はイブリーズと言った。無論、聞き覚えがあるはずはない。
「これを……」
 彼女は問い返すこちらを他所に、左手の手袋を脱ぎ俺の手に握らせる。
 彼女の手は不思議な感触だった。温かいとか冷たいといった感触がなく、存在そのものが奇妙なほど希薄なのである。
「これは?」
「お願いします……」
 そう言って彼女はスーッと消えていった。
 すぐさま手で空中をバタバタと探ってみたが、何も手に引っかかったものはない。空気のように完全に消え失せてしまったのだ。
 はて? これはなんだろう?
 一人取り残された俺は、手の中の白い手袋を握り締めたまま茫然としていた。
 突然現れた女性が、俺にこの手袋を渡してスーッと消えて……。
 そして、ある結論にたどり着いた時、俺はすぐに次のアクションに移っていた。
「大変だー! 出た出た出たぁっ!」
 俺はバタバタと橋の下に走って行く。
「おい、みんな起きろ! 出たんだって!」
 しかし、みんなはぐっすりと眠ったままぴくりとも動かない。いや、俺の声は聞こえてるはずだ。単に起きたくないだけなのだ。
「セシア! 起きろ! お前の出番だって!」
「……はあ? うるさいわねえ……」
 そう言ったきり、パタンと臥せってまた眠ってしまった。セシアは寝起きが非常に悪い。だからいきなり起こしても、頭がはっきりするまでには軽く三十分はかかる。
「おい! ヴァルマ! 起きろ!」
 俺はヴァルマの肩をがくがくと上下に揺さ振る。
「うむ……」
 ヴァルマは、起こさないようにそっとエルフィとシルフィの頭の下から腕枕にしていた両腕を抜くと、ゆらりと気だるげに上体を起こした。
「……なんだ?」
「出たんだって! 今! そこ! 橋の上! 女! 美人!」
 いきなり俺の理解を飛び越えた出来事が起こったせいで、頭の中が酷く混乱していた。まとまった文章立ても出来ていない。それでも俺は、なんとか状況を理解してもらおうと必死で頭の中に浮かんだ言葉を伝えようと試みる。
 が、次の瞬間。顔に衝撃が走ったかと思うと体が激しく後ろへ吹っ飛んだ。
 ヴァルマが手加減なしに俺をブン殴ったと理解するまでに数秒かかった。
「……兄様ぁ?」
「……兄様ぁ?」
 寝惚けた様子でエルフィとシルフィが体を起こす。
「馬鹿が血迷っただけだ。今、静かにさせたから問題はない。だから寝なさい」
「はーい」
「はーい」
 そう優しげに語ると、そのまま三人は再び眠ってしまった。
 だ、誰が血迷ったって……!
 しかし、不意打ちに加えて打ち所が悪かったらしく、次第に意識が薄らいでいった。
 眠れなかったのだから丁度いいか。
 初めはそう思ったのが。
 待てよ……。睡眠と失神は違うんじゃないのか?
 気がついた時には、既に目の前が真っ暗になっていた。