BACK

 どうして頬を腫らせているのかね?
 それが今朝、眠ったように失神していた俺が目を覚ました時、ヴァルマにかけられた最初の言葉だった。
「お前……昨夜のこと何にも憶えてないのか?」
「何の事かな?」
 完全に憶えてないな、こいつ……。半分寝惚けながら人をぶん殴りやがって……。
 頬の痛みはなかったものの、腫れぼったい感は否めない。カーッと熱を持っている。口を動かすにも頬に違和感がある。
 本人にあまりにも悪びれた様子がなく、いやむしろ記憶にすら留めていないようなので怒る気にもなれなかった。ただ、自然と頭ががっくりと垂れ下がりはしたが。
「兄様ー、獲れました!」
「兄様ー、獲れました!」
 ふと、双子の嬌声が飛び込んでくる。見るとエルフィとシルフィが木の枝に何やらシカらしき動物をくくりつけて運んでいた。ヴァルマはニコニコと二人に手を振っている。
「……なんだ、あれ?」
「一つ目鹿のようだね。この大陸にしか生息していない、一つしか目のない珍しい鹿だ」
「いや、そうじゃなくて。あれをどうするんだ?」
「食すに決まっているだろう」
「誰が?」
「六割方、私が」
 さも当然のように応えるヴァルマ。
 そういえば、ヴァルマは神器の副作用やらで異常な食欲の持ち主に変わっていたんだったけ。改めて思うのだが、アカデミー時代の病弱で貧相な姿は見る影もない。終始青白かった顔色も健康的な色艶を放っているし、枯れ枝のようだった四肢も今では引き締まった筋肉質のものになっている。神器の力を借りているとはいえ、人は変わろうと思えば随分と変われるものである。
 俺は朝の食欲のない時間帯に、動物肉を焼いて食べるなんて暴挙は考えもしない。一応、生理学的には朝に高カロリー食品を食べるのは体にいいらしいが、油っぽいものはとても喉を通りそうもない。半年前のあの時も、ヴァルマは朝からステーキを食べていた。幾らエネルギーを取り込むためとはいっても、あれはさすがに好きでなければ食べれるものではない。
「んじゃ、一割ほど御相伴に預かりますよ……」
 それだけ食べられるかどうかも不安ではあるが、とにかく食べない事には体が動かない。今日は奇しくも苦渋を舐めさせられた鮮血の騎士へのリベンジの日だ。腹が減ったままでは戦う事など出来ない。まあ、頑張ればそれなりに食べられるだろう。ヴァルマも食べても平気なんだし。
 川の水で顔を洗い、昨晩は結局ほとんど使う事のなかった寝床を片付ける。上着を着ていたとはいえ、野外であのまま倒れていたにもかかわらず風邪を引かないとは。俺もなかなか体力がついたものである。
「ん? まだ寝てるのか、コイツは」
 その隣で、セシアは未だに相変わらずの寝相で眠りこけている。朝起きるのは誰よりも遅い。大体毎朝、俺が先に起きてセシアを起こしている。セシアの寝起きは非常に悪い。冒険者になって一年ちょい、幾らかはその傾向の改善は見られるが、まだまだ朝はのんびりと遅くまで眠っている。幸運にもこれまでそういう経験は一度もないのだが、もし寝ている時に何者かに奇襲を受けたらどうするのだろうか、と不安にさえなってくる。
「セシアー、朝だぞー」
 そう言って頬を突付いてみる。するとセシアは僅かに唸り、鬱陶しそうに手を払う。まるでたかってきた蚊を追い払うようだ。
「早く起きろー。それとも、王子様のキスが必要かな?」
 冗談半分に顔を近づけていく。このまま鼻をつまんで唇を塞ぎ、呼吸が出来なくなって慌てる様を見るのも一興である。
 が、
「何?」
 突然セシアは目を開け、心底冷たい視線で俺の顔を見た。
 氷のように、というたとえがぴったりなほどの冷たさだった。裸で吹雪の中に放り出されたような心境である。あっという間に胸の中にあった悪戯心が消え失せてしまった。
「……なんでもありません」
「別にいいけどさ、もうちょっと時と場合を考えてくれない?」
 遅くまで寝ているセシアが悪いのだけど。とてもそんな反論の余地を許さぬほど、セシアの迫力の前に俺は頭が上がらなかった。
 やがて全ての準備が整い、朝食が始まった。パチパチと皮を剥がれたシカがいい色に焼き上がっている。その隣では、エルフィとシルフィがシカ鍋を作っている。こういう朝食は割と日常茶飯事のようで、シカの捌き方がやけに手馴れて素早かった。
「ねえ、なんかガイアの顔、変形してない?」
「ねえ、なんかガイアの顔、変形してない?」
 俺の分のシカ鍋を伸べながら二人はそう訊ねた。
「お前達の崇高なお兄ちゃんにやられたのさ」
 それを受け取り、まずはスープからすする。思ったよりも油っぽくなく、さっぱりとして飲みやすい味だ。
「本当に私がやったのかね? 記憶にはないのだが」
 既に一杯目を食べ終えているヴァルマは、そう不思議そうに首をかしげる。憶えがないばかりか、俺の言っている事を訝しがっている。被害者の俺にしてみれば、極めて心外な態度だ。
「ったく。俺の話を聞く前にぶっ飛ばすんだもんなあ。そりゃ記憶になんか残ってないだろうさ」
「まあ、そんな事もあったのだろう。それで、話とはなんだね? 昨夜、何かあったのかい?」
 二杯目を受け取りながら、完全に事実を否定せんばかりに疑いきった態度で言い放つ。
「そういえば、なんか昨夜、ガイアが騒いでたような気がするわね」
 ぽつり、とセシアが漏らす。どうやら幾らか憶えていてくれたようだ。
「そうそう。あのな、昨日、出たんだよ」
「何が?」
「幽霊」
 途端、セシアの表情が険しくなり、再びあの冷たい視線を俺に向ける。
「私がそういうの嫌いなこと知ってるでしょう……?」
「いや、冗談じゃないんだって! ホント、マジなんだってば!」
「左の頬もやったげる? 左右のバランスを整えないと」
 普段から色々と冗談を言うのだが、さすがにこの手の冗談だけは笑って受け応えてくれはしない。それだけ超常現象やら心霊体験やらの類が嫌い、というより存在自体を心底憎んでいるのだ。
「まあまあ、セシア。ガイアがこれほどくだらない冗談を言うとも思えない。もう少し聞いてあげよう」
 そう真面目な口調で諭すヴァルマだが、目が笑っている。この状況を明らかに楽しんでいる様子だ。
「昨日あった事を、順を追って説明したまえ」
「昨日あった事を、順を追って説明したまえ」
 エルフィとシルフィがヴァルマの口調を真似てそう言う。こちらも同じく、俺が困る様を見て楽しんでいる。ヴァルマとは違い、目だけでなく表情全部が笑っている。小憎らしい、とは正しくこの事である。
「ああ……」
 なんだか思いっきり馬鹿にされている気がしてならなかったが、とにかくこちらの言い分を聞いて分かってもらえれば、その態度も一変するはずだ。俺は一度気持ちを落ち着け、昨夜起こった事をよく整理して話し始める。
「なんか寝そびれたんでさ、そこいらをうろうろ散歩してたんだ。大体、ニ十分かそこらぐらいかな。で、そろそろ寝ようかなって思ってここに戻ってきたんだ。そしてそこの橋の辺りまで戻ってきたんだけどさ」
 俺が指差した頭上の橋を、皆が一斉に注目する。
 これといって変わった所はない、極普通の橋だ。材質は主に木を用いて作られている。詳しくは知らないが、建設方法も割と一般的なやり方のようである。
「橋の真ん中辺りにさ、王女様が立ってたんだ」
「王女様?」
「王女様?」
 予想通り、エルフィとシルフィが首をかしげて問い返してくる。無理はない。いきなりこんな唐突な展開、疑問に思わない方がおかしい。
「んで、イブリーズがどうこうって言ってさ、俺に手袋を渡したんだ。白いやつ。それで、スーッて消えちゃったんだ」
「本当、それ?」
 訝しげな目で俺を見るセシア。
 同じ冗談なら、今時子供でももう少しマシな冗談を言うわよ。
 そんな心の声が聞こえてきそうなほど、見る間にセシアが殺気立ってきた。セシアは少しでも度を超して怒ると、すぐにガンバンテインで俺を殴ってくる。アカデミーから授与された、この世に二つとない神器だというのに。俺の折檻に使われる事の方が多いと知ったら、きっと開発に携わっていた理事長を初めとする開発部の人達は嘆き悲しむことだろう。
「本当だって。夢でも幻でもない。絶対に本当に見たんだって」
「じゃあ、その手袋見せてよ。夢でも幻でもないんならあるんでしょ?」
「ああ、ちょっと待て」
 そうだ、俺には昨夜の事が夢でも幻でもない事を証明する確かな証拠があるんだった。それさえ見せ付けてやれば、この四人の疑いきった態度も変わるはずだ。
 俺は自分の体をあちこち探る。
「あ……あれ? おかしいな……」
 だが、確かにもらったはずの手袋がどこにも見つからない。ズボンのポケットや上着の内ポケットも探ってみるが、あの白い手袋はどこにもないのだ。
 あれ? あの後、どこにやったんだったっけ……? 確かに貰ったはずなんだけど……。
 そんな俺にあきれ果てたのか、次第に一同が沈黙する。
 俺は一気に居心地が悪くなった。集中する四つの視線が痛い。
「あ、あのさ……」
「兄様、おかわりはいかがですか?」
「兄様、おかわりはいかがですか?」
「大盛りで頼む」
 三人は遠回しに俺を黙殺する。これはこれで、嫌味を言われるよりも辛い。
「さて。他に何か言っておきたい事はない?」
 セシアが殺気立った様子で俺に訊ねる。既に右手がガンバンテインに伸びている。
「セシア、出発前に怪我人を出さないでくれ」
「大丈夫よ。動ける程度に加減はするから」
 絶対嘘だ。本当は動ける程度ではなく、死なない程度なのだから。そういう意味では、人体の構造を知り尽くしている法術師ほど折檻や拷問に適した人材はいない。
「女性の夢を見るという事は、君は欲求不満のようだね?」
「別にそんな事はないよな?」
「私に訊かないで!」
 ゴン、と頭から鈍い音が響いた。