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 これは……? もしやベアトリーチェ王女の……。
「遺品……なのか?」
 昨夜俺は、橋の上でベアトリーチェ王女と出逢った。そしてその時俺は、彼女から白い手袋を手渡された。イブリーズを、という言葉と共に。
 その時はまだ、一体それが何なのかまるで意味が分からなかった。みんなにも言われたが、それは単なるリアルな夢でしかないと思っていた。その証拠に、確かに受け取ったはずの白い手袋だってみんなの前には出す事が出来なかったのだから。
 それなのに。
 突然、今になってその手袋が俺の前に現れた。そして、その手袋の中に入っていたのは、二人の姿が収められた古ぼけた写真だ。
 昨晩逢ったベアトリーチェ王女も、橋から落とされて意識を失っている間に見たあの映像も、全て現実の出来事だったのだ。俺の持つ狭苦しい常識という定義では見当もつかない事ではあるが、確かに俺はベアトリーチェ王女からこの手袋を受け取ったのだ。あの映像だって、過去にこの城で起こった現実の出来事なのである。
 ベアトリーチェ王女は俺に何を望んだのだろう?
 あの映像を見てからずっとそればかりを考えていた。
 そして辿り着いた結論。それは、イブリーズを止める事だった。
 妄執に取り憑かれ、鮮血の騎士と化して現世に留まり続けるイブリーズ。もはやかつての誇り高い騎士の姿はそこになかった。廃墟となった城を徘徊する、ただの亡霊である。ベアトリーチェ王女は、きっとそんな姿に変わり果てたイブリーズが見るに耐えなかったのだろう。だから俺に止めて欲しかったのだ。そして死者をあるべき姿に。
 鮮血の騎士と化したイブリーズを、何がそこまで突き動かすのかは分からない。それを俺が絶ってやれるものなのかも分からない。だけど、俺はこんなに変わり果てたイブリーズをどうにかしてやりたかった。何の縁も所縁もない赤の他人ではあるけど、とても見過ごす事は出来なかったのだ。それが、自分でも度が過ぎているとしか思えないほど熱くなっている理由だ。
 さて……。
 俺は改めて鮮血の騎士に向かって身構えた。
 目的ははっきりしている。意思も揺らいでいない。だけど、俺には圧倒的に力が欠けていた。妄執の走狗と化したイブリーズを救ってやれるだけの力が。
 セシアの到着を待つ以外に他なかった。自分の力の至らなさを歯がゆく思いはしつつも。
 自分でこうと決めたはずの事なのに。自分の力だけではどうしようもなく、人の力を借りなければならないなんて。その事実が酷く苦かった。
 右腕は使い物にならない。肘打ちっていう手もあるが、少々リーチに欠ける。それに、肘打ちというものはなかなか技術のいる攻撃なのだ。
 左腕中心で戦うのは少々自信がない。そもそも俺の利き腕は右な訳だし。単純な威力、機敏さ、正確さは利き腕よりも遥かに劣る。しかし、それでも俺はやるしかない。このまま黙っていても斬り殺されるだけだ。
 独特の呼吸法で空気中に浮遊する魔素を吸い込む。その魔素にイメージを与えて変質させ、体内を循環、そして普段とは逆に左手に集中させる。
 イメージは思っていたよりもスムーズに作る事が出来た。魔力も問題なく流れる。大丈夫だ。まだ俺は戦える。
 と―――。
『……ベ……』
 その時。
「ん?」
『ベ……アトリー……チェ』
 まるで錆びついた金属が擦れ合うような不調和音にも似た音が、鮮血の騎士の鉄仮面の間から漏れ出てくる。苦しげな、どこからか搾り出すような声だ。
 あ! お、おい。今……。
 鮮血の騎士が喋った。
 俺は思わず息を飲んだ。決して聞き間違いではない。これまで断固として頑なに沈黙を守っていた鮮血の騎士が、今、微かにだが人間の言葉を発した。
 これのせい……なのか?
 俺は左手の中にある手袋とロケットを握り締めた。
 考えてみれば、鮮血の騎士とベアトリーチェ王女の接点はこれが初めてのもののはずだ。まさか、それに刺激されて鮮血の騎士がかつての自分を取り戻したというのだろうか?
 そして。
『……イブリーズ』
 すると、まるでその声に呼応するかのように、不意に俺のすぐ隣から女性の声が聞こえる。
 ハッと振り向くと、そこには昨夜も見たベアトリーチェ王女の姿が現れていた。
『ベアトリーチェ様……』
 鮮血の騎士はゆっくりと剣を鞘に収めた。
 俺は一歩引いた所から、二人の行方を見守っていた。
 ベアトリーチェ王女は、イブリーズの声に応えて現れたのだろうか? 霊界に逝きそびれたイブリーズを共に連れて行くために。霊体や思念などについては、俺にとっては専門外の事だ。どういった理論や法則があるかなんては分からない。ただ、そんな理屈は抜きで、なんとなく俺はそう思った。
 ベアトリーチェ王女は静かに鮮血の騎士の元へ。鮮血の騎士はそれを抱き締めようと腕を伸ばす。まるで生前の二人の姿を思わせる微笑ましい光景を垣間見えさせた。
 だが。
 鮮血の騎士がベアトリーチェ王女の姿を抱き締めようとしたその瞬間。ベアトリーチェ王女の姿はそこで唐突にかき消えた。何もない空を虚しく抱き締める鮮血の騎士。その姿がやけに悲しげに俺の目には映った。自分が失ったものをもう一度振り返っているようにも見えた。彼が失ったのは、自らの命だけではない。国も、家族も、恋人も、そして何より騎士としての誇りまでも失ったのだ。ここにいるのは、亡国の若き千人団長を務める騎士ではない。ただの彷徨う亡霊だ。
 やがて。
 鮮血の騎士はゆっくりと抱き締めた腕を戻した。それからまるで何かを決意したかのように、迷いのない足取りで俺に向かって近づいてきた。剣は抜かず鞘に収めたままだ。
 咄嗟に俺は身構えたが、すぐにその必要はない事が分かった。鮮血の騎士からは、あれほど強く放っていた殺気が消え去っていたのだ。まるで別人のように落ち着いている。
「イ、イブリーズ?」
 俺の目の前までやってきた鮮血の騎士はそっと手を伸ばしてきた。
 その手のひらは、指先まで隙間なく幾つもの細かい金属の部品が織り合わさった甲冑で覆われている。
 ベアトリーチェ王女の遺品を求めているのだろうか? 俺はそっとその手にロケットを置いた。
『感謝する』
 すると鮮血の騎士は、小さな声でそう俺に告げた。
「え……?」
 思わず問い返すも、鮮血の騎士は無言のまま俺の横をすれ違っていく。
 鮮血の騎士の言葉ははっきりと俺に向けられていた。
 驚いた。
 これまで俺の感情は一人で空転し続けていた。鮮血の騎士に俺の言葉はずっと届く事がなかった。だがそれが今、ようやく届いたのだ。
「イブリーズ!」
 思わず俺は振り返って叫んだ。しかし彼はそのまま真っ直ぐ歩いていく。ここは後宮の最上階に位置する屋上だ。その先にあるのは―――。
 そして。
 鮮血の騎士はゆっくりと柵から倒れ込むように下へ落ちた。