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 夜。
 俺はベッドでうつ伏せになりながらボーっとしていた。視線は枕元に置かれている小さな安物の飾り時計に向けられている。ちくたくと音を立てながら触れる針を、ただ意味もなく目で追う。
「どうかしたの? 急にボーっとしちゃって」
 すぐ隣のセシアが、ごそごそと自分も体をうつ伏せにしながら問いかけてきた。肩肘を張り、両肘を枕の上に立てながら俺の方を向く。
「いや、ちょっとさ……。イブリーズのことを思い出してた」
「イブリーズの?」
「ああ」
 俺はセシアに視線は向けず、ただ時計の針だけをじっと見つめていた。全く同じ角度ずつ定期的に動く時計の針は、俺達みたいな生者が生きている時間の軸。けど、イブリーズは違う。彼の時計の針は、五十年前のあの瞬間に刻む事をやめてしまったのだ。死者には時間は流れず、ただ朽ちていくだけ。イブリーズはその摂理を、意思の力だけで捻じ曲げてしまったのだ。意図的かどうかはともかくとして。
「俺さ、橋から落とされて気絶した時に、なんか見えちゃったんだよな」
「見えたって、何が?」
「馬鹿にしない?」
「何よ、今更。しないわよ」
 微苦笑を浮かべるセシア。俺が、まるでいつもセシアに馬鹿にされているような言い方をしたせいだろう。事実そうではあるんだが、ほとんどはそうされることを見越した確信犯的な行動である。自分が鬱になって邪眼の力をうっかり使わないように被った、もう一人のガイア=サラクェルの仮面だ。
「多分なんだけど。イブリーズと、ベアトリーチェ王女の過去。それが見えた」
「ベアトリーチェ王女? ああ、確かカールさんのお姉さんの事だったわね」
 時計の針を見つめたまま、俺はこくっとうなづく。
 あの時の映像に映っていたカールは、まだ幼い無邪気な子供だった。姉がイブリーズを慕っているからなのか、カールもまたイブリーズによく懐いていた。イブリーズをこの世で一番強い騎士だと信じて疑わなかったし、自分もまたイブリーズのような強い大人になる事を切望していた。
「二人さ、凄い仲が良かったんだよ。将来は結婚しようとか話すぐらい。なのに、死んじまったんだよな……二人とも」
 二人が人目を忍び、夜中に逢引していた光景が頭を過ぎる。
 おそらく、それが二人の人生の中で最も幸せだった時間なのかもしれない。まだ見ぬ明日に思いを馳せ、いつかみんなの前で結婚式を挙げて契りを交わそうと、夜の闇に紛れて静かに熱く語り合っていた。希望に満ちた未来が、あんな残酷な形で引き裂かれる事も知らずに。
「後宮が攻め込まれた時の映像も見えたんだ。イブリーズは必死でベアトリーチェ王女を守ろうとしててさ。でも、結局は守りきれなくて―――。その時のイブリーズの叫び声が、今になって耳から離れなくなったんだ」
 イブリーズは、我が身に代えてもベアトリーチェ王女を守り抜こうとしていた。けど、ベアトリーチェ王女は逆にイブリーズを生かすため、自分が足手まといにならぬよう自ら進んでベランダから身を投げたのである。
 互いが互いを想う気持ちに偽りはなかったのだが。最後の最後に、その想いは最も残酷な形ですれ違ってしまったのだ。あの時の、イブリーズの絶望に満ちた叫び声は生涯忘れられないだろう。最愛の人物を守れない絶望。それがどれだけ深く暗澹としているのかは、あの魂を引き裂いたかのような叫びだけでも十分に想像がつく。冷たい言い方ではあるが、自分だけは絶対に味わいたくないと心の底から思う。
「これってさ、本当に他人事じゃないんだよな……。今は他人事でも、もしかしたら明日の俺の姿なのかもしれないし……」
「私のこと、守りきれないかも、って事?」
「俺、そんなに優秀な魔術師でもないからさ。そりゃ、セシアのことは大事さ。何が何でも守ろうって思ってる。けど、気持ちだけじゃどうしようもない、絶対的な力不足ってあるだろ? どんなに意気込んだところで、自分よりも強い相手にはかなわないんだよ。それを考えるとさ、なんかこう、気持ちが鬱ってくる……」
 ベランダで絶望の叫びを上げたのはイブリーズだった。けど、次にその叫びを上げるのは俺かもしれないのだ。
 セシアは、アカデミー時代からずっと俺が邪眼で苦しんでいるのを支え、そして立ち向かわせてくれていた。俺がどれだけその期待に応えられていたのかは分からないけど、セシアの存在は俺の中では自分と同等以上に大きい。支え理解してくれる存在がなければ、きっと俺は自責の念に耐えかねて目を潰してしまっていただろう。
 それほどの大切な存在が、自分の力で守る事が出来ず、目の前で死んでしまったら。俺はどれだけ絶望するだろうか。生きる事自体が嫌になって自暴自棄になるか、自分を許す事が出来ず自ら命を断つか、後は現実を受け入れられず気が触れてしまうかだ。
 今まで、決して一度も考えなかった事ではない。けど、今回のあの事件を通し二人の過去を知る事で、それがはっきりと頭の中に避けようのない命題として刻まれてしまったのだ。単に今までがその現実を考える事から逃げていただけにすぎないのだ。
「なんだ、またいつもの病気じゃない。ホント、ガイアって自分の事を虐めるのが好きね」
 けど。
 俺がこれほど重い胸中を語っているというのに、セシアはさして重要でもないかのようにくすくすと笑い飛ばした。
 俺は、セシアが俺の話を真面目に聞いていないように思えてならなかった。幾らなんでも考え過ぎだ。たとえどんなピンチに陥っても、力を合わせて頑張れば何とかなる。きっと、そう安易に考えているはずだ。
 それは違う。今までは何とかなってきたのではなく、まだ何とかなる程度の危機にしか直面していないだけなのだ。セシアはそれが分かっていない。世の中には絶対的な力の差というものが現実に存在するのだ。何もかもが精神論で何とかなるなんて、それはただの理想の姿を述べているにしか過ぎない。
 気持ちがすれ違っている。
 そう直感した俺は、つい苛立った溜息を吐き捨てた。
「そういうんじゃないって。俺はただ、ありのままの現実を言ってるんだ。客観的に自分を見て、たとえどういう敵がやってきたとしても必ずお前の事を守ってやれる力があるなんて、到底思えないんだ。そりゃ、頑張ってなんとかなるなら頑張るさ。でも、無理な時はどうあがいたって無理なんだよ」
 と―――。
 不意にセシアがそっと身を寄せて唇を重ねてきた。
「だったら、少しでも理想に近づけるように努力したら? あれも駄目これも駄目ってただ言ってるだけなら誰にでも出来るわよ」
「でも、それで駄目だったら……?」
「やる前から駄目だった時の事なんか考えない。いちいちそういう考え方してたら何も出来ないでしょ? そんな暇があるなら、一歩でも前に進む努力をしなさい。私は今までずっとそうしてきたわよ。神器だって、何にも苦労せずに手に入れた訳じゃないんだから。ガイアはいちいち結果にこだわり過ぎ」
 そう言って、ピンッと俺の額を指で弾く。
「頑張りなさいな。ガイアは今までも頑張ってきたじゃない。誰もそんなの気づいてないかもしれないけど、私はずっと見てきたわよ?」
 くすっと微笑むセシア。
「……これからもぼちぼち頑張るよ」
 普段は割とクールなクセに、急に優しい言葉をかけられるとなんだか気恥ずかしかった。
「まず、当面の課題はレーヴァンテインを使いこなせるようになる事だな」
「そうね。いざっていう時に足に大怪我してちゃたまらないもの」
 神器はそれ単体に一騎当千の力が込められている。それだけに使いこなす事が難しく、肉体的だけではなく精神的な課題も数多く積み上げられる。だが、神器の力を完全に自分のものにしてしまえば、それだけで絶大な力を手に入れられるのだ。今、俺が最も望むのは、どんな時でもセシアを守りきる事が出来る力だ。俺自身の精進もさる事ながら、レーヴァンテインを使いこなせるようになれば理想に随分と近づけるはずだ。
 考えてみれば。
 ヴァルマのヤツも、自分の理想とする姿に向かって努力をしたからこそ、今のように巨大な力を手にする事が出来たのだ。ヴァルマにとって守りたい存在とは、二人の妹のエルフィとシルフィ。その二人を守るために魔術の勉強を熱心に続け、神器を使いこなすための努力を散々繰り返したのだろう。更にエルフィとシルフィも、兄を守るという思いがあったからこそ日々の訓練を怠らず、今のような優れた剣客に成り得たのだ。
 本気で努力していないのは俺だけだ。今までずっと、どうせ現実はああだこうだ、と初めから諦め、精進する事を怠り続けてきた。そんな俺がいつまで経っても強くなれないのは当然だ。
 これからは気持ちを入れ替え、現実に恐れず立ち向かっていこう。その内、魔術師としての実力も上がるだろうし、レーヴァンテインも使いこなせるようになる。そして、何よりも邪眼を克服出来るはずだ。根拠も確証もない。だけど、自分を信じよう。
「これからも苦労をかけますな」
「今に始まった事じゃないでしょ? 第一、それはお互い様よ」
 そして再び微笑むセシア。今度は俺の方からそっと唇を重ねる。
 そう。俺の安らぎはここにあった。邪眼を持ちながら生きるのは、第三者には思いもよらぬほどの気が遠くなるような苦痛だ。無感情さに傾きかけ、別な自分を演じるのにすっかり疲れきった頃。俺にそっと救いの手を差し伸べてくれたのはセシアだった。彼女の優しさと厳しさが、邪眼によって渇いていく俺の心に潤いを与えてくれる。
 同じベッドで並んでうつ伏せの姿勢のまま、俺はセシアという存在と巡り合えた自分の運命に密かに感謝した。
「なあ、そういやさ。どうしてイブリーズは今頃になってああやって出てきたのかな? 戦争ってさ、もう五十年も昔の事だろ?」
「彼、後宮の塀の中に生き埋めにされたのは知ってるでしょ? 多分、最近になってようやく塀から出られたからじゃないかな」
「あいつの中では、まだ五十年前のまま時間が止まっていたんだろうな……」
 時代の流れに取り残され、ただ一人、怨念に取り付かれたまま剣を揮い続けていたなんて。悲しい事実だ。まるで暗闇の中で一人、両親をしきりに呼ぶ幼子にも似ている。
 彼は俺達と対峙していた時、一体何を考えていたのだろうか? 今となっては知る術もないが。
「それにね、もう一つ。ヴァルマが言ってたんだけどさ、おかしな事があるの」
「おかしな?」
「その塀なんだけど、よく見てみたら、どうも風化して崩れたって感じじゃないんだってさ」
「じゃあ、なんで崩れたんだよ?」
「どうもね、内側から崩されたようだって。ヴァルマがね」
「内側? だってイブリーズは―――」
 死んでいたんじゃないのか?
 そんな事は有り得るはずがないのだ。だって人間は普通、壁に塗り込められたりなんかしたら生きていられるはずがないのだから。
「まあ、人の感情って時にはこういう不可解な事も起こすって事ね。ううっ、自分で言って怖くなってきちゃった」
 幽霊とか超常現象の類が苦手なセシアはぶるっと身を震わせる。
 確かに、城の、それも後宮のような重要な場所を守る塀が数十年そこそこで自然に崩れてしまうような脆弱な作りである訳がない。たとえ埋められていたのは別の塗り具によってだったとしても、そんなに簡単に風化して崩れるようなものなんて、塗り具として使えないはずなのだ。
 だったら、そのヴァルマが言ったという『イブリーズは五十年かけて自力で壁から脱出した』って事が本当に起こった出来事という事になる。無論、それは俺達の常識で考えればありえない事だ。壁の中に塗りこまれてしまったら、五十年どころか一日と持たない。
 やはり、全ては良くも悪くも意志の力がもたらした産物なのだろうか? 俺達にははっきりと全ての真実を知る手段はないが、人の意思の力はこれほどの事態すらも引き起こせるほど強いものだと俺は心に深く刻み込んだ。
「俺、強くはなれないかも知れないけどさ。絶対に守り抜いてみせるよ」
 きょとんとしたセシアの表情。
 だが、
「おー、男の子。セイシュンしちゃって」
 すぐにニヤニヤと笑いながら俺をはやし立てる。
「あのな……今のは軽く流されると困る所なんだけど……」
「だって、似合わないんだもん。そういうセリフ。気持ちは伝わってくるんだけどさ」
 珍しく真剣に言ったのに、なんて言い草だ……。
 そっちがそうならば。
 俺は体を起こすと、隣のセシアを転がして仰向けにし、その上にのしかかった。
「ほう。だったら体で分からせてやろうかい。夜はまだまだたっぷりある」
「だーめ。今夜はもうおしまい。私、眠くなってきたから」
「そんなことは知ったこっちゃない」
 そして。
 俺は一人、ベッドから蹴り出された。