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 朝食後。
 外は相変わらずの土砂降りの雨だ。小さな、しかし無数の雨粒が激しく建物を打ちつける。足元は泥濘を通り越して、一面が水溜りのようだった。もう少し雨が降ると、水かさは膝ぐらいにまではなるかもしれない。
 こんな日に外出なんてとても正気とは思えない。それでも俺は、そうせざるを得なかった。右手に小さな小さな包みを抱え、俺はひたすら宿を目指して走った。
「くっそぉ……ふざけやがって」
 そんな恨みがましい俺の叫びも、激しい雨音の中にあっさりと飲み込まれてしまう。
 俺が抱えている包みの中身は、なんてことはない、ただの情報誌だ。それを、ヒマをもてあましている御主人様の元へ届けるのが俺の役目だ。別に急を要する訳でもない。本当に、ただの暇潰しのためだ。
 朝食の前の腕相撲に負けた俺は、今日一日ヴァルマの奴隷になってしまったのだ。こんなくだらない物のためにでも、俺は身を賭す事を断るのは許されない。
 そういえば、アカデミー時代にもこんな事があったっけ。
 確かあの時は、カードゲームで最下位のヤツがトップの言う事を一つ何でも聞く、というものだった。トップはいつもヴァルマ、ロイアは必ず中堅で傍観者だったし、最下位は、動揺が丸見えのグレイスか単純思考のリーム、たまに俺だ。
 当時のヴァルマは容赦がなかった。最下位の者への罰ゲームを厳守させるためにゲッシュをかけるのだから。
 ゲッシュとは、いわゆる呪いの一種だ。ある条件と罰を術者は定め、もし被術者が条件を守らなければ定められた罰が発動する、というものである。俺達は一応、そういった呪術の類に関しては一定の耐性はあるのだが、ヴァルマの力にはかなわなかった。その力は、気性の激しいリームに、フリルが目いっぱいあしらわれたふりふりの可愛いドレスを着させるほど強力だったのである。
 もし命令に背けば、リームは一生酒が飲めない、という罰まで用意されていた。まるで、一昔前のアイドルのような可愛らしい衣装に身を包み、頭には不自然なリボンまでつけさせられた。基本的に動きやすい服しか着ないリームにとって、これがどれだけの屈辱だったのかは容易に想像出来る。なんせ、あの時のリームはあまりに殺気立っていて、はっきり言って笑うどころではなかったのだから。
 セシアは公衆の面前でラブソングを歌わされ、グレイスは初恋から始まる恥ずかしい過去を洗いざらい喋らされ、俺は隣町まで酒樽を徒歩で買いに行かされた。
 ロイアはうまい事やってビリになった事はなかったし、エルフィとシルフィも当然の事ながらビリになった事はない。なんせゲーム自体をヴァルマが支配しているようなものだったから、特定の人間をビリにするのは不可能でも、特定の人間をビリ以外にするぐらいなら難なくやってのけるのだ。ヴァルマはそれだけ天才的な頭脳を持っていながら、人に喜ばれる使い方をしたのは、本当に数える程度、片手の指で数えられるぐらいしかない。つまり、出来る駄目人間なのだ。
 ようやく宿に着いた。俺は足を止める事無く、乱暴にドアを開けて中に入った。
 食堂では、ヴァルマが温かいコーヒーを飲みながらぬくぬくとしていた。反対に俺は雨に濡れ、体をガタガタ震わせながら実に惨めな格好だ。
「おら、買ってきたぞ」
 ずいっ、と抱えてきた包みをヴァルマに突き出す。
「随分かかったねえ。私は五分で、と言ったはずだが?」
「片道で十分はかかるんだよ!」
 初めから無理を承知で言っているのだ。そうやって俺をこき使い、わざとらしく時間超過を咎めているのだ。はっきり言って性格が悪い以外に言いようがない。
「御主人様に何て口の利き方をするのかな?」
「御主人様に何て口の利き方をするのかな?」
 と、俺の背後に立つ二重奏。
 ヴァルマ一人を相手にするだけでも手に余るのに、この双子まで加わられては勝ち目などまったくない。
「ところでガイア。震えているようだが、どうしたのかね? 顔色も良くないが」
「嫌味かそれは! 白々しい事言いやがって!」
「ははあ。雨の中を傘も差さずに行ったんだね。傘ぐらい、ここの宿のを借りれば良かったのに」
「傘差して、五分で帰って来れるか!」
 こいつと居るとストレスで胃に穴が空きそうだ。
 俺はくるっときびすを返し、階段の方へ向かった。早く着替えないと風邪を引きそうだ。二日も続けてこんな姿になるなんて、まったくとんだ災難だ。
「おや? どこに行くのかね?」
「着替えて来るんだよ。それとも、風邪引いて死ねって言うのか?」
「ガイアはひがみっぽくなったわね」
「ガイアはひがみっぽくなったわね」
「うるさい! とにかくそういう事だからな!」
「じゃあ、その後でいいからお洗濯お願い」
「じゃあ、その後でいいからお洗濯お願い」
「んだと!? ふざけんな! 俺はお前らの奴隷じゃないぞ!」
「兄様、ガイアが〜」
「兄様、ガイアが〜」
 途端にわざとらしい猫撫声でヴァルマに甘える二人。
 よしよし、とそんな二人の頭を撫で、ヴァルマはちらっと俺に視線を向ける。
 やりたまえ。これは御主人様の命令だ。
 口には出さなかったが、そんな言葉がどこからか聞こえてきたようがした。
「ああ、やるよ! やればいいんだろ! どうせ俺は犬だもんな!」
 なかばヤケになって俺は叫び、ずかずかと階段を上っていった。
 最悪だ……。
 俺はもうちょっとで泣いてしまうかもしれない。
「あら、帰ってきたんだ。うわ、これまたひどい格好」
 と、階段の上からセシアが降りて来た。
「セシア〜ヴァルマ達がイジメるんだ〜」
 先ほどのエルフィとシルフィの真似をして、甘えた猫撫声を出す。
「あきらめなさい」
 しかし、セシアはよしよしとしてくれるどころか、そうきっぱりと自分には無理だと言い放った。
「運が悪かった、って思う事ね。あ、そうだ。洗濯よろしく」
 そう言い残し、スタスタと食堂へ降りて行った。
 そりゃないよ、セシアさん……。
 がっくりうなだれ、とぼとぼと部屋に向かう。濡れていた分、余計に自分が惨めに思えた。
 濡れた服を着替え終え、すっかり自暴自棄なってヴァルマ達の泥だらけの服を洗濯する。二つもコブがついている分、作業量も三倍だ。
 それがようやく終わっても、今度は自分達の分が残っている。ようやく終わる頃には、すっかり俺の指はふやけてしまっていた。
 あれ? ちょっと待て。どうして俺がセシアの分までやらなくちゃいけないんだ? 前回は俺がやったから、今回はセシアの当番じゃないのか?
 まんまとやられた、とまたもうなだれながら、俺が食堂に戻ってきたのは丁度昼食の時間だった。
「さて、昼食は何にしようかね」
 ヴァルマはメニューにあれこれと目を走らせる。
 俺も働き詰で腹が減った。ヴァルマ並とまではいかなくとも、それなりの量を注文しよう。
「そういえばさ、ヴァルマって随分食べるようになったよね? だから体も丈夫になったの?」
 そう訊ねたのはグレイス。まるで、自分もあのようにたくましくなりたい、とでも言いたげだ。
「そういう訳ではないな。単に体が欲しているから与えているだけの事。まあ、食事の量は増やす事をお勧めするよ。君とリームのやりとりを見ていると、いい加減こちらもハラハラしてたまらないからね」
「増やすって言ったってねえ。朝から五百グラムも肉食って? 夜は一キロ食うって?」
 リームは冗談っぽくそう言う。とは言っても、こいつだって大した変わりはないのだけれど。
「よく分かったね」
「ホント、ヴァルマって見違えるほど変わったね」
「ええ。薬も飲まなくなりましたし。安心して見ていられますわ」
「昔から自由になる体が欲しかったからね。それなりに努力はしたさ」
 昼食を終えると、再び退屈な空気が俺達の間に漂った。
 いや、俺だけはそうでもない。
 この空気だと、おそらく―――。
「ガイア、少々退屈なのだが?」
 ほら来た。
「今度は何をしろって?」
 溜息混じりに俺は答える。
「どうも君の口調は攻撃的だね。私は退屈しのぎに、卒業後はどんな事があったのかを話してもらおうかと思っただけなのだが?」
 俺を攻撃的にしているのは誰だってんだ。
「分かったよ。そうだなあ、何から話そうか」
「セシア、何か面白い事はあった?」
「セシア、何か面白い事はあった?」
「面白い事? そうねえ、今の状況も割と面白いんだけど。そうそう、前にワライダケ食べて死にかけた事があったわね」
 直後、ガタンと音を立てて俺はイスと一緒に後へ倒れた。
「やあねえ、気持ち悪い」
「やあねえ、気持ち悪い」
「セシア! 何言ってんだよ!」
「あら? 言っちゃ駄目だった?」
「当然だ!」
 くそっ……消し去りたい過去ベストテンの一つを、こうもあっさり暴露されてしまうとは……。セシアの口には要注意が必要だ。
「あ、そうそう。この間、凄いの見つけたじゃない」
 と、セシアが俺の肩を叩く。
「凄いのって?」
「ほら、あれよ。ドラゴンの死体」
「ほう。ドラゴンの死体?」
 興味深げにヴァルマの表情が変わった。
 それもそうだろう。なんせドラゴンは地上最強の生物なのだ。不死身に近い生命力、人間のそれよりも高度な竜語魔術、金剛石よりも硬い牙と鱗。これを打ち破るのは、当然人間技では不可能なのだ。
「ああ、そういやあったな。ドラゴンの死体。それもまだ小さいヤツだ」
 俺の脳裏に、数ヶ月前に見たドラゴンの白骨化死体がゆっくりと浮かんできた。



TO BE CONTINUED...