BACK

 どうしたの、というリームの問いにグレイスは答える事無く、じっとこちらを見つめている。
 人間とは明らかに異質な深紅の眼球。それは充血などというものではなく、燃え盛る炎、もしくは体内を流れる血液のような深紅だ。グレイスの人間ではないヴァンパイアの真っ赤な瞳が、俺にかつて感じた事のない恐怖をかきたてた。俺は呼吸する事も忘れ、視線一つ動かせないまま凝固する。
 まずい、逃げないと!
 俺の本能がその場に凍り付いている俺にそう警告した。
 ドアを離れ、自分でも驚くほどの身軽さでその場から飛び出す。しかも、バタバタと足音を立てない抜き足で。
 俺は何も考えられなくなっていた。ただ、一時でも早くこの場を離れる事だけに体を動かす。セシアのいる俺達の部屋までのほんの僅かな距離が、やけに長く俺には感じた。ようやく部屋に戻ってこれた時は、安堵のあまりその場に座り込みそうになったぐらいだ。
「あら? もう戻ってきたの?」
 セシアはベッドにうつ伏せになりながら、何かの本を読んでいた。セシアの寝る前の習慣だ。
「ん? ああ……」
 適当な返事を返す俺。
 そういえば、俺は薬を飲みに部屋を出たんだったっけ。けど、吐き気や胸焼けはすっかり消え去ってしまっている。あの驚きのため、全身からアルコールが抜けてしまったようだ。
「どうかした? 息、切れてるけど」
「い、いや、別に……」
 俺は咄嗟にグレイスの事を隠した。何故かそうしなければならないような気がしたからだ。
「そ、その……」
「なに?」
「ふくらはぎにかぶりつきたい」
「馬鹿言ってないの」
 俺は全身にどっと疲労感が溢れてくるのを感じながら、自分のベッドの上に寝転んだ。
 隣からは、セシアが本のページをめくる音が聞こえてくる。そのセシアの存在感に、俺はようやく緊張をとくことが出来た。
 途端に頭に浮かんできたのは、先ほど俺が鍵穴を通して見たものは一体何だったのか、という疑問だ。
 夢、幻、錯覚。
 それは、事実ではない他の何かであって欲しい、という俺自身の逃避的希望からくるものだ。
 だけど、あれが夢でも幻でも錯覚でもなく、紛れもない現実である事は、何より自分自身が知っている。
 グレイスはヴァンパイアだったのだ。
 ヴァンパイアは魔物でも比較的人間に近い姿をしている。だからこそ人間の世界に溶け込んでいても不自然さはない。
 しかし、納得のいかない事がある。
 ヴァンパイアは身体能力、魔術、知能、とどれをとっても人間より遥かに優れている。そのためヴァンパイアは、人間を自分達のエサとしか思っていない。魔物の中で三本の指に入る強さを持っているのと同時に、人間と最も敵対している魔物でもある。そのためヴァンパイアは人々にとっては絶対的な忌避の対象なのである。
 そのプライドの高いヴァンパイアが、何故人間社会に溶け込んでいるのだろうか? しかも、まるで人間のように振舞ってまで。とてもヴァンパイアのする事とは思えない。
 先ほど、確かにグレイスはリームの血を吸っていた。同じ人間型の魔物で吸血を行うのはヴァンパイアだけだ。そして何より、あの真っ赤な目が紛れもない証拠である。
 もう一つ。リームの事だ。
 リームのあの様子からすると、グレイスがヴァンパイアと知っていて血を与えているようだ。それも、一度や二度ではなく、定期的にしているような口振りだった。
 普通、ヴァンパイアは獲物に牙を立てた時は、獲物を自分の傀儡にするかもしくは吸い殺すかのどちらかだ。
 リームを殺さないという事は、傀儡にしてしまった事になる。だが、傀儡からは吸血はしないものだ。ならば、グレイスは死なない程度に吸血している事になる。
 訳が分からない。
 冷静になって考えてみると、次から次へと疑問が浮かんでくる。
 これは、このまま俺一人で抱えてはいけない事ではないのだろうか?
 もし、グレイスがリーム以外に牙をむいたら。みんなはグレイスとは顔見知りな訳だから、無警戒なところを襲われてしまえばあっけなくやられてしまう。
 被害を広めないためにも、この事は……。前にアカデミーで起きた、吸血鬼事件のようになってしまう。
 もしや、あの時の事件の犯人はグレイスなのでは? だったら、いち早くみんなにこの事を伝えなければ。
 しかし、それではグレイスを疑ってしまうような事になってしまう。
 大切な仲間の一人を疑うなんて、人として最低の行為だ。
 あれは何かの間違いだ。俺の見間違いか錯覚に違いない。
 自分でも無理な解釈である事は分かっている。だが、そうでも思わなければグレイスを疑ってしまいそうなのだ。
 そんな自分は許せない。
 けど、もしそうだったら……。
 と―――。
 来訪者を知らせるノックの音。
「あら? 誰かしら。ガイア、ちょっと出て。今いいとこだから」
 しょうがないな、と俺はベッドから降りる。
 こんな時間に誰だろう?
 そう思ったその時、不意に俺の脳裏に予感が走った。
 もしかして、グレイスでは?
 こういう時だけ、俺の勘は良く当たる。自分にとって都合の悪い事だけにはやけに鋭いのだ。
 急に高鳴り出した心臓を押さえ、俺はドアに手をかけてゆっくりと引く。
 ドアの向こう側にいた人物。
 それは案の定、
「あ……ガイア」
 片手に燭台を持ったグレイスの姿だった。
 やはり先ほどの事もあってか、気まずそうな表情を浮かべている。だが、やや伏せがちの目は燃えるような赤ではなく、普段の色に戻っていた。
「ちょっといいかな? 話があるんで……」
 普段にも増して、ひどく遠慮がちなグレイス。そんな様子を見せられ、とても俺は断る気にはなれなかった。
「ああ……」
 何の話かは、その表情を見ればすぐに分かる。いや、それ以前に、グレイスが俺を訪ねてきた理由を考えれば自ずと知れる。
 どうせ、避けられない事だ。明日以降に持ち越すよりは気持ちが楽だろう。
「セシア、ちょっと下に行って来るよ」
「なあに? ここじゃ出来ない用事って事?」
「そんなトコだ」
「変な店に行く相談じゃないでしょうね」
「違うって。じゃ」
 俺は部屋を出、グレイスと連れ立って下へ向かった。
 燭台を持って俺の先を照らしながら歩くグレイスは、一言も話すどころか俺とは視線すら合わせようとしない。
 相変わらず感情が顔に出やすいヤツだ。
 だが、これが俺の知っているグレイスだと、かえって俺を安心させた。
 互いに無言のまま、食堂まで降りて来た。辺りは静まり返っており、自分達以外に人の気配はない。
 どちらからともなく、俺達が食事の時に座っていた席に相対して座った。
 テーブルの上に置かれた燭台の柔らかな炎が、辛うじてお互いの顔が見える程度に照らし出す。あまり表情を見られたくなかった俺にとっては好都合だ。
「あのさ……もしかして、その……」
 意外にも切り出してきたのはグレイスの方からだった。だが、すぐに声が小さくなっていき、消え入ってしまった。
「ああ、俺だよ」
 グレイスの言いたかった事を俺は察し、助け舟を出すような気持ちで答えてやった。
「そっか……」
 消え入りそうなほど小さな声で、グレイスはそう寂しげに答えた。
「バレちゃったね……ホントは知られたくなかったんだけど」
 もしかしたら俺の見間違いだったのかもしれない。そんな僅かな願いを打ち砕く、グレイスの一言。
「単刀直入に聞いてもいいか?」
「うん。その方が誤解もないと思うから」
 薄明かりに浮かぶグレイスの寂しそうな笑みが、やけに胸に痛かった。自虐じみていて、無理に作っているのが嫌でも分かる。
 そもそも俺があんな好奇心を出さなければ良かったのだ。その結果、グレイスを苦しめる事になってしまった。
 原因は、俺にあるのだ……。
「お前、ヴァンパイアなのか?」
 苦い思いをしながら、俺はそう訊ねた。
 グレイスが傷つくのに気づいていながら、好奇心を押さえ切れなかったのだ。そんな自分がさもしく思える。
「……うん。でも、正確には違うんだ」
「違う?」
 正確には違う、とはどういう事だろう? そんな疑問と、僅かな期待感が胸に芽生える。
「僕は純血のヴァンパイアじゃなくてクォーターなんだ」
「クォーター? ちょっと待て。それはヴァンパイアと人間の、という意味か?」
「うん。本来、異種族交配では子供は出来づらいらしいんだけどね。運が良かったのか悪かったのか」
 僕は生まれてきた。
 その言葉を、あえてグレイスは飲み込んだ。
「僕の祖父は純血のヴァンパイアなんだけど、ある日、何故か人間の女性を愛してしまったんだ。その人が僕の祖母に当たる人。二人の間にはやがて僕の父親に当たる人が生まれ、そして父は、人間の女性、僕の母に当たる人と一緒になって僕が生まれたんだ」
「それでクォーターって訳か……」
「クォーターだから、ヴァンパイアの持つ特性は血が薄まってほとんど無くなってるんだ。日に当たっても平気だし、魔術も人並みにしか出来ないし。ヴァンパイア特有の不死性もない。でも、一つだけ強く残ってるものがあって」
「吸血、か?」
 リームの首筋に獣のように噛み付いていたグレイスの姿を思い出す。
 俺はその記憶を悪い夢のように振り払った。
「うん……。僕の体自体は純血種のように血液は必要としないんだけど、吸血の本能だけが何ら変わらず残ってるんだ。子供の頃はなかったんだけど、年と共にだんだん衝動が強くなってきて。今はもう、体が必要としなくても精神が血を欲しがるんだ。だから、定期的に血液を摂取しないとおかしくなってしまうんだ」
「おかしくって、具体的に言うとどうなるんだ?」
「自分でもよく分からない。強く血が欲しくなったのは丁度アカデミー時代の頃なんだけど、初めの内は動物の血とかでなんとか誤魔化せたんだ。だけど日に日に衝動が強くなっていって、喉が渇いて渇いて気が狂いそうになって、その内意識も途切れがちになって、最後には……」
「には?」
「気がつくと、血まみれで部屋に帰ってきてたんだ。もちろん、人の血で。それからだったんだ、アカデミーで吸血鬼騒動が起きるようになったのは。記憶はないけど、朝起きた時に血まみれだったら必ず昨夜に誰かが襲われたって聞くから、犯人は僕なんだと思う……」
 アカデミーの優秀生徒が何人も駆り出された、有名な未解決事件だ。犯人はおろか目撃者すらままならず、その内に騒ぎ自体が自然に消えてしまったのである。
「リームはお前の事、知ってるんだよな?」
「うん……。実は、僕が最後に襲ってしまったのはリームなんだ。いつもは翌日まで正気にならないみたいなんだけど、その時は何故かリームに吸血した時点で気がついて。それで、慌てて僕の部屋に連れて帰って手当てして……。それからなんだ。リームが僕に血をくれるようになったのは」
「それでか……」
 リームは何嫌がることなく、自分からグレイスに血を吸わせていたのは。
「本当はこれ以上はやりたくないんだ。リームの体だって無限に血がある訳じゃないし、いつも僕が満足するまで血を吸われてたら体が持つ訳ないんだ。けれど、リームは増血剤とか飲んで無理してまで僕に血をくれる。そこまでして欲しくないんだけど、吸わないと僕はまたおかしくなってしまうから……」
 グレイスは悲しげに目を伏せた。
 これ以上、迷惑をかけたくない。
 グレイスらしい考え方だが、かと言って他にそれらしい解決方法もないのがあまりにも救われない。
「ねえ、ガイア。出来ればこの事はみんなには内緒にしておいて欲しいんだ。誰にも知られたくないから……」
「ああ、約束する。俺の方こそ、覗いたりして悪かった」
「いいよ。別に怒ってないから」
 薄闇の中、グレイスは僅かに微笑んだ。
 グレイスも生まれ持った体質のせいで苦労してるんだな……。
 俺も邪眼なんてものを持って生まれたせいか、グレイスにはこれまで以上に親近感が持てた。
 グレイスの秘密を知ったのだから、俺も自分の秘密を話すべきではないのだろうか?
 そう思ったが、結局口にする事は出来なかった。
 告白する勇気なんて、とても出なかったのだ。



TO BE CONTINUED...