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「エル!」
 悲痛な叫び声を上げながら、ヴァルマは床に倒れ伏すエルフィの元へ駆け寄る。
「待て!」
 が、しかし。俺は咄嗟にヴァルマが飛び出そうとするのを腕を掴んで制止した。
「何をする! 離せ!」
 半狂乱になってヴァルマは俺を振り払おうとする。凄まじい力で、俺は危うく振り払われそうになるのを何とかすんでの所で耐えた。
「いいから落ち着け! セシア!」
「ええ!」
 セシアが素早くエルフィの元へ駆け寄り、しゃがみ込んで容態を見る。
 法術師は一般に、ただ法術により漠然と治療しているように思われるが、実際は違う。法力を漠然と患部に注ぎこんだとしても正常に回復はしない。患者を正常な状態に戻すには、人体構造を明確に把握し、どこをどのように治療するのかを判断して法術を行わなければならない。つまり、法術師になるには医者並の知識と技術が必要なのである。詳細は、俺は医術なんかさっぱりなのでよく分からないが、セシアの大まかな説明では、医者が手術を行う時に使う器具類の代わりに法術を用いるのが法術師の治療なのだそうだ。
「どうだ?」
「あんまり良くないわ。かなり深く刺されてる……」
 重苦しい口調でセシアはそう自分の診察結果を答える。
 見ると、丁度エルフィの脇腹に果物を切るのに使うぐらいの短刀が突き立てられていた。服や床に広がる赤い染みは、その周囲から広がっている。
「何だと! エル!」
「だから、やめろって!」
 そんな診断結果を聞かされ、ヴァルマはなおも強引にエルフィの元へ駆け寄ろうとする。俺は飛び出そうとするヴァルマを羽交い絞めにし、無理やりこの場に押さえつける。
「邪魔をするな! 何のつもりだガイア!」
「いいから落ち着け! 見て分かるだろう、エルフィが危ないってのは! だったらセシアに任せておけよ! 俺達がしゃしゃり出たって、かえって助からない確率を高めるだけだ!」
「……くっ」
 俺の言葉に諭され、ヴァルマは自分が余計な手出しをしようとしていた事に気づき、ようやく渋々ながらもおとなしくなった。ヴァルマが感情に任せて走らない事を確認し、俺はヴァルマを羽交い絞めから開放する。
 ヴァルマはいつになく冷静さを失っていた。普段のヴァルマなら、怪我人を迂闊に動かすのは危険な事ぐらいすぐに考えつくはずなのに。それだけ、ヴァルマはエルフィを大切に想っているのだろう。
「ガイア、悪いけどヴァルマを連れて下で待ってて。後、ロイアを呼んできて」
 そういえば、ロイアは槍術の他に薬学も専攻していた。セシアの助力になるはずだ。
「分かった。ほら、行くぞヴァルマ」
 がっくりとうなだれているヴァルマを、少々気は引けたが強引にドアの方へ連れて行く。今、俺達は、セシアにとっては集中力の妨げになる存在でしかないのだ。たとえヴァルマがどんなにエルフィの事を心配していようとも、具体的かつ現実的な手段も技術も持たない以上、邪魔な存在でしかない。
「セシア……頼む、エルは大切な妹なんだ。助けてやってくれ……お願いだから」
 と、ヴァルマは涙声でそう訴えかけた。
 俺は思わず驚きで胸がどきっと高鳴った。あのヴァルマが泣いているのだ。いつも自身に満ち溢れ、人を食ったような態度のヴァルマ。そんなヴァルマのこんなに悲嘆にくれた姿を、俺は初めて見た。悪魔のような知性を持ったヴァルマだって人の子なのだ。大切な存在がこういう事態に瀕し、その上自分が何も出来なければ、悔しさと悲しさで涙が出ても至極当然の事だ。
「任せておいて。伊達に天才って呼ばれてた訳じゃないんだから」
 こちらを向かず、セシアは上着を脱ぎ捨ててエルフィに向かった。
 口調は強くも、自信に満ち溢れている訳ではない。己の力を過信し慢心しない姿勢、そして自分に可能な限界まで全力で尽くす心意気の現れだ。
 セシアの法術師としての力は、史上に類を見ないほど優れたものだ。当時アカデミーには、セシアに対して国内だけでなく他国からもオファーが殺到したほどだ。少なくとも、ニブルヘイムでは一、ニの実力者と言っても過言ではなかったらしい。半端な医者が数人集まるぐらいなら、セシア一人の方がよっぽど信用できる。だから今は、エルフィに対して最善の治療が出来るのだ。
 セシアは大きく深呼吸をして自らの気持ちを集中させ、右の手のひらをゆっくり短刀の付近に当てる。
「『我は願う。生命を司る慈悲の神よ、今ここ瀕する子羊に温かき脈動の祝福を―――』」
 セシアが詠唱を始めた。すると、途端に当てた手のひらがぼうっと淡い光を放ち始めた。
 これが治癒の法術である。だが術中は、術者は患者と同調状態になるため、患者が感じているのと同等の痛みを感じるというリスクを背負う事になる。素人目にも、エルフィの傷は相当なものに見える。あれだけの傷の痛みに耐えながら、セシアはこれから治療に専念しなくてはならない。それは、ちょっとやそっとの精神力では務まらない非常に大変な作業だ。
「ほら、行くぞ……セシアの邪魔になるから」
 俺は未練がましく立つヴァルマを無理やり部屋の外へ促した。
 ヴァルマはすっかり落ち込んで小さくなってしまっていた。そんなヴァルマの姿は見ているだけでも胸が痛むほどだ。
「ね、ねえ、どうだった……?」
 食堂に降りて来た俺達を迎えたのは、グレイスのそんな不安げな表情だった。
 俺達の様子から、もう穏やかならぬ事態が起きている事を察知している口調である。
「刺されていた……。今、セシアが治療している」
「刺さ―――」
 絶句するグレイス。同時に、一同の間に戦慄が走る。
「ロイア、急いでセシアの所へ行ってくれないか?」
「は、はい。分かりました」
 その言葉だけで俺の意図を察してくれたようで、ロイアはすぐに自分のカバンを背負って二階へ駆けて行った。
「兄様………」
 もう痛みは落ち着いたらしく、シルフィは自分の足で立っていた。だが、その表情は普段とは違い深い悲しみに歪んでいる。
 ヴァルマは無言のままゆっくり傍の席に座り、テーブルの上に肘を置き頭を抱える。シルフィはその隣に座り、不安げにヴァルマに寄り添う。
「ガ、ガイア……大丈夫だよね?」
「当たり前だろ。あのセシアが治療してるんだぞ。絶対に治る。あ、そうだ。それよりも、ロイアがドラゴンの心臓の一部を与えたら―――」
 ロイアの自ら貫いた手のひらの傷が見る見るうちに塞がっていった、昨夜の光景を思い出す。
 ドラゴンの心臓には生命力が詰まっている。それを摂取する事により、ドラゴンの生命力の一部を我が物に出来るような事をロイアは言っていた。だったら、そんな生命力の塊をエルフィに与えれば。ロイアの傷が急速に塞がっていったように、エルフィのケガも一瞬で治るはすだ。
「無理だ」
 と、急に背後から異論が飛んできた。
「ドラゴンの心臓は、効果が強過ぎるいわば劇薬のようなものだ。体質的に合う人間と合わない人間がある。もし合わなければ、ケガを治すどころか逆に寿命を縮める事になる。適性のある人間は極少数だ。ドラゴンの心臓を与える事はリスクの大き過ぎるギャンブル。その事は、ロイアも百も承知だ」
 ヴァルマはうつむいたまま、そう棒読みのような口調で話す。
 じゃあ、ドラゴンの心臓は使えないって事か……。いや、何も絶望する事はない。たとえそれが駄目でも、セシアという天才法術師がいるじゃないか。不安要素など何一つない。
 そういえば、やけにヴァルマはドラゴンの心臓について詳しいと俺は思った。
 ロイアならともかく、ヴァルマは別に関係ないのに。って、俺は何を言ってるんだ? あのヴァルマだぞ? 何も特別ドラゴンについて詳しいのではなく、あいつは元々色んな事についての知識が豊富だったっけ。このぐらい、知っていてもおかしくないか。
「ねえ、ガイア。エルフィって刺されてたんだよね……? 一体どうして?」
「分からない……駆けつけた時はもう、あれだったし……。部屋の中には他に誰もいなかった」
 言われてみれば、おかしな事だらけだ。
 まず一つ。俺達がエルフィの元へ駆けつける間に、人の気配どころか不審な物音一つ聞こえてこなかった。単にこの豪雨と暴風の音にかき消されただけかもしれないが、おかしな気配があればすぐに気づくはずだ。俺だって、成績はパッとしなかったが、プロの魔術師なのだから。犯人はどこから現れ、どこから逃げていったのだろう?
 そして二つ目。何故、ああもエルフィが簡単にやられてしまったか、という事。
 エルフィは正面から左脇腹を一撃で刺されていた。周囲には争った形跡はなく、小さなポーチとエルフィの神器である剣が鞘に収まったまま床に転がっているだけだった。エルフィほどの使い手ならば、たとえ剣がなくとも大抵の相手ならばああもあっさりやられる事はありえない。エルフィは神器を授与されたほどの実力者だ。そんな達人が、完全に不意を突かれて、しかも抜刀する暇もなく正面から刺されるなんて事はあり得るだろうか?
 そして三つ目。犯人の意図だ。
 神器の強奪、ならば納得がいく。しかし、エルフィの剣には手をつけていない。それに、どうやってこの宿に神器を持つ人間が泊まっているかを知り得たか、という問題が浮上してくる。
 ならば、エルフィを殺すため?
 いや、それにしてはやり口がお粗末過ぎる。果物ナイフで、しかも腹を刺しただけでその場を後にしている。普通、相手を殺すならば、喉や心臓などの急所を狙うはずだ。しかも、エルフィがちゃんと死んだのかどうかも確認していない。まるで、エルフィを傷つけるだけが目的だったかのようだ。一体、それのどこにメリットがあるのだろうか?
「簡単な事だ」
 いつの間にか顔を上げていたヴァルマがそう答えた。
 ふと俺は、急に肌寒さを感じた。辺りの気温が急激にニ、三度ほど下がったように思える。
「お前達の誰かだろう? さすがに顔見知りの犯行ならば、エルも油断するだろうからな」
 異様な雰囲気を放ちながら、ヴァルマはゆっくりと立ち上がる。
 その眼光はギラギラと光り、異様に殺気立っている。
 俺はその視線に、再び背中に冷たいものを感じた。
「早く名乗り出ろ。誰がエルをあんな目に遭わせた?」
 沈黙。
 というより、この場にいた誰もがヴァルマの空気に飲み込まれて声が出せなかったのだ。ヴァルマからは、一片の冗談や演技の様子は見られない。エルフィがあんな目に遭ったため、本気で怒っているのだ。
「名乗り出ぬか。ならば、一人一人訊いて行くぞ?」
 そうつぶやき、ヴァルマは深く息を吸い込む。直後、ヴァルマの右手に白い霧のようなものが集まってきた。
 魔術だ―――。
 ヴァルマの得意とする魔術は、主に大気中の水分を操る高等な魔術だ。水、と聞くと一見なんの攻撃力もないように思えるが、実は違う。水ほど戦闘に適したものはない。水は水圧を上げれば金剛石すら切り裂く事が出来、その上如何なる衝撃をも飲み込む防御力も併せ持つ。それだけに習得は難しいのだが、それを自在に操るだけの技術がヴァルマにはある。
「おい、やめろよヴァルマ! お前、仲間が信用できないのかよ! 俺達がそんな事をするはずがないだろう!」
「……お前なのか、ガイア! 貴様か!?」
 俺を見るヴァルマの瞳は、既に正気を失っている。魔素を取り込みすぎて理性を失っている訳ではないが、ただならぬ事態である事には変わりない。
「跡形もなく消し去ってやる」
 ヴァルマの右手に螺旋状の水流が出来上がる。水は凄まじい勢いで循環し、切れ味の鋭い一種の刃物のような状態になっている。
「ちょ、ちょっと待て! 落ち着けよ!」
 しかしヴァルマは俺の言葉などに耳も貸さず、凶器と化した水流を腕に纏わせながら猛然と俺に殴りかかってきた。
 おいおい、マジかよ!
 ヴァルマの魔術の破壊力は知っている。ただし、それはアカデミー時代の話だ。あの時は防ぐぐらいならば出来たが、今はあの頃から一年以上経っている。お互いがどれだけ成長しているのか分からないため、俺の得意とする炎の魔術とは相性も悪く、正直ヴァルマの攻撃を防ぐ自信はない。
 両手に魔力を込め、結界を張る準備を行う。
 とにかくやるしかない。黙っていては間違いなくあの水流に切り刻まれてしまうのだから。
 ヴァルマの腕が俺に向かってくる。俺は結界を張るタイミングを計りながら身構える。
 が、
「やめな、ヴァルマ」
 瞬間、横から割って入ったリームの手が、猛然と襲い掛かるヴァルマの腕を受け止める。
 パシッ、と行き場を失った魔力が弾ける音。
「お前も邪魔をするつもりか?」
 ギラッとリームを睨みつけるヴァルマ。しかし、リームはそれを真っ向から睨み返す。
「ガタガタ騒いだって仕方がないだろ? 犯人どうこう言って、これ以上ケガ人増やしてどうする気? もっと冷静になりなよ」
 火花が散りそうなほど激しく衝突する二人の視線。
 空気が凍りつきそうなほど張り詰めている。二人の間に険悪なムードが漂う。
「フン……」
 やがてヴァルマはぎりっと奥歯を噛み、また席に戻った。
 しかし、ヴァルマは納得していたようではない。いったんこの場は退いたが、依然として俺たちに対する不信の念は抱き続けたままだ。
「助かったよリーム」
「そう……」
 やれやれと冷や汗を拭いながら俺はリームに礼を述べる。
 だが、何故かリームは、俺に冷ややかな視線を向けた。
 あれ? 一体どうしたってんだ?
「ガイア、昔っからあんたの周りじゃあ、こんなおかしな事ばかり起きてたわね」
 冷ややかな視線を向けたまま、穏やかだがまるで毒を吐くかのような口調でリームはそう言った。
 え……? 突然、何を……。
 まるで何かを知っているようなセリフ。そう、まるで俺の邪眼の事を知っているような。
 リームにそれ以上の言葉はなく、くるっと踵を返し向こう側の席へ座った。
 昔からって……まさか、リームは俺の目を、邪眼の事を知っているのか?
 いや、俺の思い過ごしだ。俺の邪眼を知っているのは、自分以外ではこの世にただ一人、セシアだけだ。しかもそれは、俺が自ら打ち明けたからなのだ。
 一体リームは、俺に何を言わんとしているのだ?
 何も分からず、俺はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。



TO BE CONTINUED...