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「あら、エリカ。今頃お帰り?」
 マスターと私が会場を後にし、正面門から大通りに出ようとしたその時。突然マスターを呼び止める声が背後から聞こえてきた。振り返るとそこには、一台の高級車が側面を向けて止まっている。その最後部座席の窓は開かれ、一人の女性の顔がこちらを覗いている。
 チッ。
 マスターはその声に小さく舌打ちをする。一瞬だが目元がピクッと痙攣した。
 そのまま最後部のドアがオートで開かれ、中から優雅な足取りで一人の女性と一体のロボットが姿を現す。彼女は場違いなほど豪華なドレスを身にまとい、年齢はマスターとほぼ同じ。そしてその傍らに立つ青年型のロボットは彼女より二回りも大きい体躯を持ち、胸部にあてがわれた人間としてのフォルムを崩さない自然なデザインの装甲を闇夜に輝かせている。
 マスターはふと足を止めるものの、
「ラムダ、無視よ」
 と私に言い、振り向いて声の主も確認しないままスタスタと歩き始めた。
「お待ちなさい。そういう嫌がらせはやめていただけます?」
 彼女―――ミレンダ=テレジアは、猫の風貌を連想させるやや釣り上がり気味の目を更に険しく釣り上げ、マスターと私に向かってさも不機嫌そうに声を張る。けれどマスターは一向に相手にする様子がなく、まるでテレジア女史の存在を否定するかのような態度で歩き続ける。
 テレジア女史は、その傍らに立つ青年型のロボット、今年のメタルオリンピアを既に四種目制覇した『シヴァ』の所有者である。マスターとテレジア女史の関係は意外にも古く、ハイスクールからのライバル関係だったらしい。もっとも、テレジア女史が一方的に自分をライバル視しているだけだ、とマスターは時折愚痴をこぼしてはいるが。
 大学を卒業し、共にロボット技術者として研究を始めてからもテレジア女史は執拗にマスターをライバル視し続け、事あるごとにマスターを挑発、中傷するような言動を繰り返している。今もおそらく、またも私がリタイアしてしまった事でマスターを嘲りに来たのだろう。
 テレジア女史のマスターに対する執拗さは少々常軌を逸している感にも見て取れる。前にデータとして蓄えた人間心理学の分析見解に照らし合わせてみると、おそらくテレジア女史は、これまでは自らの優れた実力に絶対の自信を持っていたのだが、ある日マスターの才能が自分の地位を脅かす存在になりうると判断したため、このように日常的に精神的圧力をかけて自滅させる事を計っているのだろう、と私は考えている。これはあくまでデータから抽出した一般論の中で最も可能性として高いものを引用にしたに過ぎないので、その真実は定かではないが。
「あー、どっかの酔っ払いが叫んでるわね。物騒だからさっさと帰るわよ」
 マスターは私の手を引き、やや足取りを早めていち早くこの場から退散しようとする。
 そこへ、
「エリカ。第五競技のギャラクシカは棄権した方がよろしくてよ」
 と。その言葉にマスターはぴたっと足を止めた。
 予想通り食らいついた、とテレジア女史はニヤリと微笑む。
「それ、どういう意味?」
 テレジア女史に背を向けたまま、そうマスターは静かな声で問う。けれど声のトーンが普段よりも幾分か張り詰めている。
「貴女のそれでは、ルール無用のギャラクシカでは優勝どころかスクラップにされるのがオチですわよ。わざわざ言うまでもありませんでしょう? ねえ? シヴァ」
「はい、その通りです。マイ・マスター」
 黒い装甲の間から、シヴァがマシンボイスで淡々と返事を返す。
 シヴァはヒューマノイドタイプではあるが、組み込まれているソフトウェアの大半は戦闘に関するものだけである。それ以外の事で思考錯誤する回路はほとんどなく、テレジア女史の言葉にただ忠実に従うだけだ。
「今日のレースでも分かったでしょう? 貴女のそれと私のシヴァとの性能差。決勝レースまで勝ち上がった事は称賛に値しますが、それだけでは結果は出せませんわよ」
 シヴァと私の性能差は、確かに歴然としている。単純な出力の違いからボディバランス、装甲の耐圧性、センサーの明細度など、全てにおいてシヴァの方が優れている。しかもその上、シヴァの思考は軍事用に匹敵するほど戦闘に特化され、命令の遂行のためだけに自らを効率よく起動させる事が可能となっている。ロボットの実力というものは、ハードとソフト、両面が優れている事とバランスが取れている事に帰依するが、シヴァはそのどちらも単純に私より優れているのだ。
「大体、ちゃんと整備をしているのかしら? 貴女の御父様は大変優れた技術者でしたのに」
 先ほどから黙りこくってしまったマスターの様子に満足しているのか、テレジア女史は悠然と笑みを浮かべながら私の元へ近づく。そしてもてあそぶかのように、私の顎に指を伸ばし上を向かせる。
「マスターの整備は完璧です。レースでの結果は、全て私の判断ミスによるもの。これ以上のマスターに対する暴言はおやめください」
 するとテレジア女史は見る間に表情を不機嫌そうに曇らせた。
「判断ミスではなくて、リソース不足のエラーでしょう? エリカ、貴女はまだエモーションシステムをつけているのですね。そんなものを搭載した所で、ただリソースを浪費するだけですのに」
 エモーションシステムとは、私のようなロボットが擬似的に人間と同じ感情と思考能力を持つ特殊な回路の事だ。
 テレジア女史の言う通り、エモーションシステムを搭載したメタルオリンピアの出場機体はおそらく私ぐらいだろう。元々エモーションシステムとは、介護ロボットや料理ロボットがより繊細な作業を行えるようにするため開発されたものだ。メタルオリンピアに出場している機体は、皆シヴァのように軍事用に極めて近い戦闘特化を意識して仕上げられている。戦闘用に感情など必要なく、テレジア女史の指摘通りエモーションシステムはリソースを浪費し、処理速度の低下に繋がる。そのため私のような機体は非常に特異なのである。
「エリカ。もしもギャラクシカに出場するおつもりでしたら、エモーションシステムは外しておきなさい。これは同期のよしみからの忠告ですわ。今のラムダははっきり言って何の役にも立たない、ただの喋るロボットでしかありません。エモーションシステムを外して戦闘用にマイナーチェンジすれば、ようやくマシな程度の性能にはなるでしょう。運がよろしければ、シヴァと相対する機会が訪れるかもしれなくてよ」
 悠然と高笑いをするテレジア女史。けれどマスターはそれでも黙ったまま何も答えようとしない。
「それでは、そろそろお暇させていただきますわ。シヴァはこれから取材に応じなくてはいけませんもの。三大会連続の完全制覇を期待されている優秀機ですものね」
 テレジア女史は無言のままのマスターを一瞥し、再び車に乗り込んでこの場から去っていった。
「マスター……あの」
 マスターは落ち込んでいるのだろうか。あの活発で明るいマスターが黙りこくってしまうと、私は不安で仕方なくなり、思考回路に多大な負荷が生じてしまう。これが人間で言うストレスというものなのだろうか。
 先ほどから黙ったままのマスターに恐る恐る声をかける。  すると、
「さ、うるさいのも消えたから、帰ろう」
 マスターはニッコリと微笑みながら私の手を引いて歩き始めた。
「さってと。途中で買い物してかなくちゃね。冷蔵庫に何残ってたっけ?」
「記録にはビーフジャーキが25グラム、牛乳が250ミリリットルとあります。ただし牛乳の品質評価は極めて低く、何らかの化学変化を来たしている可能性が高いです」
「ぐえ。あんま想像したくないわね。処分、ヨロシク。っとそうだ。悪いけど、夜食作っといてくれない?」
「また徹夜なさるのですか? 少しは休みませんと体に毒ですよ」
 マスターは昨夜もレースのための作業に追われほとんど眠っていない。人間はロボットとは違い、睡眠を怠ればたやすく体調を崩してしまう。私にはある程度の医療データもある。それとマスターの最近の生活を照らし合わせると、決してあまり思わしいものではない数値がはじき出される。これは黙認しても良い動向ではないのだが。マスターは言い出したら納得するまでとことん突き詰める性格だから、私には止める事は不可能だろう。
「ちょい遅くなるだけだって。さっきさ、ちょっといい考案が閃いちゃったのよ。思わずそれで考え込んじゃってさ。出来るだけ早い内にまとめておきたいの」
 先ほどテレジア女史に散々言われたにも関わらず一つも反論しなかったのはそのためだったのか。マスターは集中すると周囲の音が聞こえなくなる。この集中力がマスターの優れた才能を引き出す重要な要素であると言えるだろう。
「でも、あまり無理はなさらないでください」
「分かってるって。この若さでお肌を駄目にしたくないもんね。ラムダみたいに荒れたからって張り替える訳にもいかないし」
 そう微笑むマスターの表情は普段の朗らかなものだ。良かった。テレジア女史の言葉は本当にほとんど聞いていなかったようだ。人間はロボットのように聴覚素子を自分の意志でオンオフする事は出来ないため、聞きたくない音情報も脳に伝達されてしまうのだ。それがマスターにとってマイナス要素になる情報であったなら、なおさら聞こえてなくて良かった。
「夕食のメニューはどのようにしましょう? 三日前にレシピデータが更新され、新たにメニューが十三品追加されています」
「ん〜、そうねえ。ま、全部任せるわ。とりあえずスタミナつきそうなのを作って。あ、カロリーは控えめで。そろそろとある身体データが具体化出来ないほどヤバイ数字だから」
「はい、分かりました」
 そんなマスターの冗談に、私はおかしさと安堵の入り混じった笑みを浮かべる。
 私が自然に行うこんな仕草も、つい半世紀前までは考えられなかった事だ。全く人間と代わらない人工皮膚とフェイスコントロールインターフェース、そしてエモーションシステムが開発された事により、ロボットは人間と同じように喜びや楽しさを感じ、そしてそれを表情として表現する事が出来る。
 元来、人間はロボットを理想の存在の具現化として作り出した。しかし、科学の発達するにつれて人間は、ロボットを理想の存在から合理的な道具として見る傾向が強まっていった。これまで人間がやらなければいけなかった繊細な作業も、人間と何ら変わらぬ器用さを手に入れたロボットが代行する事が出来る。わざわざ自分達が必要以上に汗水を流す必要はなくなったのだ。人間にとってロボットは自らの手足となっているのだ。考える道具。人間にとってこれ以上理想的な道具はない。
 しかし。
 何故、エモーションシステムは生まれたのだろうか? 繊細な作業も、精密なマニピュレータとアルゴリズムによって十分にこなす事は可能だ。第一、合理化を求められるはずのロボットに、感情などという非合理的なもの自体が必要ないのだ。様々な体面が取り繕われているが、おそらく実際は単なる技術力の誇示のためにエモーションシステムは作り出されたのだろう。
 このシステムのおかげで私は、マスターと笑い、マスターを心配する事が出来る。けれど、それだけで生み出されたロボットのための人工の魂は、あまりに罪深い発明ではないのだろうか? 私は人工物でありながら、そんなタナトスや自己否定にも似た事を考えずにはいられない。
 と―――。
「ラムダ、私はあなたを今のままで優勝させるわよ」
 マスターは突然、私には背を向けたままそう話し掛けた。
 まるで私の思考を読み取られたかのようなマスターの言葉。私は驚かずにはいられなかった。人間には何のインターフェースもなしに他人の思考を読み取る能力はないはずなのに。
「このまま、ですか?」
 リソースを浪費するエモーションシステムを搭載したままで?
 もしかすると……いえ、ほぼギャラクシカでの優勝は絶望的だとしても?
 私は、自分は今のままでいたいと強く願う。けど、それ以上にマスターのため優勝を手にしたいのだ。そのためならば感情をなくしてしまっても構わない。そのぐらいの覚悟はある。私はマスターの決断には絶対服従だ。
 けれど、
「そう、このまま。あんにゃろう、完全にラムダを馬鹿にしてるわ。だったら、このままで優勝をかっさらうのも面白いじゃない? そんでミランダのアホに吠え面かかせてやるんだから」
 ケラケラと笑うマスター。
 そんな愉快な表情を浮かべるマスターに、私はまだこうして一緒に笑っていたいと心から思った。
 ロボットが、心から、という表現を使うのはおかしな事なのだけど。