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 サブシステム、オン。
 メインルーチンは休止のまま、サブシステムのみ稼動させる省電力モードで起動。
 現在時刻取得。午前1:34。
 唐突にサブシステムが起動した私は、ゆっくりと視覚素子を開放した。
 極めて明度に乏しい薄暗い世界が広がっている。物体は光を受けてそれを反射し、反射した光を視覚素子が捉えることで物体を認識する事が出来る。しかし私が横たわるこの部屋は光源に乏しく、通常のアイモードで物体をうまく認識する事が出来ない。だが周囲の状況を察知するのは何も視覚素子だけではない。コウモリの生態をそのまま模倣して作られた空間認識システムも私の装備リストにはある。これは超音波を発し、その反射の具合でどこに何があるのかを認識するのである。だがこれはあまりにエネルギーのコストパフォーマンスに乏しく、常時装備している訳にはいかない。私は基本的に普段は必要最小限のシステムしか装備しないのだ。
 アイモードシフト。赤外線素子作動。
 視覚素子を光の反射を捉える形式から赤外線形式にシフトする。色こそ認識する事は出来ないが、普通に歩き回る分には問題はない。
 私は視界が確保された事を確認すると、すぐに周囲の状況を観察しながらデータを採取し、履歴と比較しながら現状の把握作業を行う。ロボットは一度電源が落ちると、作業領域にあるデータは全て消えてしまう。元の状態に戻るには再びデータをメモリ内に読み込まなくてはいけないため、若干稼動し始めるまでタイムラグが生じる。マスターはそれを、人間が起きたばかりの時に頭が寝惚けているのと同じだ、と言っていた。
 しばらくデータの整理作業を行っていた私は、数分ほど経過してようやくこの部屋がマスターと私が兼用する寝室と認識する。マスターは何故かロボットの私にも人間と同じようにベッドを与え、休止する場合はそれを使うように命令した。そのため私はマスターのベッドの隣に置かれた私用のベッドで休止を行っている。私のボディ構造は極めて人間に近いバランスに設計されているため、人間用のベッドに横たわり休止する事には何の違和感や不都合もない。しかし一般的にロボットが休止状態に入る場合は専用の保護カプセル等のロボット用の設備を用いる。つまりマスターの命令は非常に特異なのだ。
 スキャンシステム開始……終了。
 システムオールグリーン。
 これより省電力モードから通常モードにシフトします。
 CPUのコントロール下に入った私のボディは、すぐさまCPUの下す命令通りに機能し始める。自由になった体をゆっくりと起こしてベッドから立ち上がる。
 確か私は、PM10:30頃にベッドに入り機能休止した。起動予定時刻は早朝AM6:00にセッティングしていたはず。まだ起動する時刻ではない。けれど、こういったサブシステムの誤起動はよくある事だ。たとえ休止中でも、ロボットは完全に機能は停止しない。メモリ内のデータを保存し、メインシステムはほぼ完全に停止する。しかし、休止中にもサブシステムは最小限の動作を続けてボディを制御する。人間が眠っている間も呼吸し心臓を動かし続けるのと同じで、ロボットもまた稼動熱の放出やファイルメンバの整理を行いハードやシステムの保持を行うのである。だがその過程で、時折プログラムの実行ミスが起こってシステムが立ち上がる事がある。それは特に深刻なものではなく、元々仕様という範囲で開発段階で既に起こる事が前提になっているエラーの一つだ。無理にエラー対策のために機能を休止させる構文を入力すると、かえって深刻なエラーを二次的三次的に起こしやすいのである。
 まず目視対象を私のベッドの隣にあるマスターのベッドへ向けた。しかし、そこにマスターの姿はない。通常ならばもう就寝しているはずの時間なのだが。
 まだ終わっていないんですね。
 けれど、こんな事は過去に幾度となく例がある。そしてマスターの居場所もまた毎回同じ所だ。
 私は深夜という時刻を考慮し、歩行の際の足音が喧しくならぬように注意しながら寝室を後にする。工業用ロボットとは違い、極めて人間に近いフォルムを持つヒューマノイドはハードの駆動音がほぼゼロに近く、むしろ稼動の際に起こる足音等の日常音の方が耳に目立つ。
 廊下は照明が落とされたままで、寝室同様極めて明度が低い。だが私の視覚素子には赤外線素子も組み込まれているため、優先権をそちらに移せば何の問題もなく歩行が可能だ。
 平均的な建築物よりもやや急角度の階段を静かに下りながら地下へ向かう。地下にはマスターの仕事部屋があるのだ。この時間になってもベッドにいないという事は、未だに仕事部屋にこもり続けている可能性が高い。
 マスターの職業はロボット技術者という、世界で最も多くの憧れを受ける反面、実際は数少ない稀有のものだ。ロボット技術者とは、カテゴリ的には科学者や工学者の部類に入る。しかし、ロボット技術者はロボット工学全般に精通し、個人レベルでも費用さえあればヒューマノイドタイプのロボットを製作することが出来るほどの能力を持っている。当然、そこに辿り着ける人間は極々限られており、更にその中で世界レベルでの著名度を得られるのはほんの一握りだ。まさに天才中の天才と呼ぶに相応しいだろう。
 あのテレジア女史も世界的に著名なロボット技術者の一人だ。メタルオリンピアで歴史的な記録を作り続けているシヴァを製作したのはテレジア女史個人ではなく、テレジアグループに所属する数名の技術者と共同によるものである。テレジア女史は世界でも有数の資産家の出身で、必然的にグループの工業部門傘下には数名の優秀なロボット技術者がいるのである。
 ロボット技術者という資格を取得出来るのは、一年でも世界でたった数百名なのだそうだ。それだけヒューマノイドタイプロボットの製作には高度な技術を求められるのである。そんな肩書きを手に入れられれば、基本的に職にあぶれる事はない。マスターも大学を卒業後は幾つもの大企業からオファーが来ていたそうだ。けれどマスターはそれを蹴り、時折外部からの仕事を受注するという実に気ままな研究生活を送っている。マスターの父であるプロフェッサーもまた、世界でその名を知らぬ技術者はいないと噂されるほど優秀な技術者だったが、決してどこかの企業や組織に所属することはなかった。近所の人間は、鷹ノ宮ファミリーは代々そういう気性だから、と噂していた。マスターのそんな気性はプロフェッサーから譲り受けたものなのだろう。
 地下室のドアは、そこが地面の下であることを全く感じさせない暖色系の温かなデザインだ。もっとも、赤外線モードである今の私の目には彩色は認識出来ないのだが。
 ドアの隙間からは僅かに光が漏れ出、空気清浄機の稼動音が聞こえる。やはりマスターは今回もこの地下にある研究室にいるようだ。
「失礼します」
 二度、軽くノックをした後、そう断りながら静かに部屋の中へ入る。
 マスターの研究室は、元は子供部屋にしても違和感のないほど明るく綺麗な部屋だったのだが、今では無数の試作パーツが床に転がり、整理のされていない参考書とスクラップファイルが混在した棚が乱立している。空間サンプリングを慎重に行いながら慎重に前進していかなければ、何らかの偶発的惨事を起こしかねない状況だ。リビングの本棚ならば私は毎月十五日に一斉整理するのだが、この部屋はマスターが研究のためにあつめた資料が数多く存在しているため、私が迂闊に動かす訳にも行かない。マスターが整理するのがベストだが、マスターにそんな習慣があればこれほど酷い状況にはなり得なかったはずだ。
 マスターの姿は私の予測通り、部屋の一番奥のデスクにあった。
 マスターはデスクの上に突っ伏しながら、寝息も安らかに睡眠を取っていた。デスクには途中と思われるさまざまなデッサンや仕様書が散乱している。どれも私が一週間後ギャラクシカに出場するためのものだ。けれどおそらく疲労のために作業の途中でうっかり眠ってしまったのだろう。
 私のために、まだ一度も勝てない私のために、マスターはこれほどまでに努力に努力を重ねている。マスターがベッドではなくデスクの上で眠ってしまう原因は私にあり、それを考えると心が痛むような負荷がシステムにかかる。
 私は出来るだけ慎重に、マスターを起こさぬようにその体を両腕に抱き上げた。私の腕は最大でおよそ五百馬力ほどのパワーを発揮する性能がある。それに比べればマスターの体など極めて軽いものだ。
 今度こそ、私は優勝します。そして、貴女の願い、きっと叶えてみせます。
 そう、私は密かに祈った。