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「んじゃ、私は研究室に居るから」
「はい、分かりました」
 夕食後。
 マスターはまた昨日と同じく、再び研究室へと向かった。明日はいよいよ準決勝である。そのために念入りな準備をこれから行うのだ。
 私はマスターが使用した食器をキッチンに下げ、食器洗い機の中に入れる。そして後はスイッチを押すだけだ。入れた食器の種類や汚れの種類などは全て機械が自動的に判別して処理してくれる。
 食器が洗い終わるまでの間、私はマスターが食後のお茶に使用した茶碗を流し場で洗いにかかる。これも食器洗い機で洗えばいいのだが、以前この食器洗い機に入れた際、おそらく誤作動か何かを起こしたためだろう、茶碗が割れてしまっていたのだ。現在のこれは三代目に当たり、四代目を必要とする事態を起こさぬよう、それ以来私が手作業で洗う事になっている。
 本日の夕食は、マスターはいつも通り残さずに食べてくれた。マスターは基本的に、人参を材料に使用しない料理ならば残す事はない。私はマスターの健康状態を考えて栄養管理は徹底して行っている。それは料理を全品食べる事が前提になっているので、決して残さないマスターの習慣は非常にありがたい。
 しかし。
 食事は通常通りだったのだが、マスターは普段よりも口数が少なく私には思えた。食事の時間は、マスターにとって一日の内で三度しか取れない大切な団欒の時間である。いつもならば、他愛のない話や世間の出来事、芸能ニュース等の話でひとしきり盛り上がるのだが。メタルオリンピアに入ってからも、話題こそ明日の試合についてや会場での出来事に偏ったものの話題に事欠く事はなかった。しかし、今夜のマスターは初めに二、三度ほど口を開いたきりで後はずっと押し黙ったままだった。
 こんな事はこれまでに一度もなかった。その原因は、昼過ぎに会場の控え室でテレジア女史とのやりとりが関係するのだろうか? 個体名オメガについての事項、そして、テレジア女史がアンフェアと評した、マスターが私に秘匿する情報についての事項。これら二つの事項の存在が私の知るところとなったのが、マスターに精神的不快感を与えたのだろうか? けれど、それならばマスターが私のデータベースからその項目を削除すればいい。私の持つ全ての情報はデータベースの中に格納されている。行動パターン、思考アルゴリズムなどのシステム的な部分から、料理の作り方、言語リスト、更には本日の天気予報といった非常に些細なものまで、私に関連するありとあらゆる必要データ、体験記録が収められているのだ。私の、人間で言う所の記憶はこのデータベースが役を成す。もし、そこにマスターにとって不都合なデータがあるのならばデータベースの中から削除してしまい、今後はそのパターンのデータは記録されないように処理すればいい。たったそれだけの事なのに。どうしてマスターはそうせず、ただ押し黙っているのだろう? ロボットには厳密なレベルの推測機能はない。だから何のヒントもなく押し黙られてしまうと、私はどう対処すればいいのか分からない。
 とにかく、今は私がするべき仕事を行うしかない。その内、マスターが私に何らかの適切な指示を与えるだろう。対処はそれからでも遅くはない。
 数分後。食器洗い機が洗浄と乾燥を終えた事を知らせるアラームを鳴らした。私は食器洗い機の中からそれらを取り出して、それぞれ棚の中に片付ける。マスターの茶碗も洗った。濡れた手を綺麗に拭き取り、リビングへと戻る。
 さて、これからどうしようか。
 昨日までならば、マスターが作成したギャラクシカの戦闘シミュレーションを行ったり、また対戦相手のデータ分析を行っている時間だ。けれど、今夜はまだマスターの作業がその段階まで辿り着いていないらしく、久しぶりに手持ち無沙汰になってしまった。メタルオリンピアが行われる前は、マスターの仕事が難航していなければ私はマスターと共にゲームに興じたり、もしくはエンターテイメント情報の観賞を行ったりしていた。そういった情報も、モーションシステムを搭載している私には重要な事なのだそうだ。そういえば、そんな時間を過ごさなくなって随分と久しい。
 ならば、私は私で出来る事をしよう。今、最も私が集中しなければならないのは、明日の準決勝の試合を勝つことだ。そのために必要なのは、まずは情報である。それは相手機について限らず、おおよそ全般的なものだ。関連性のある情報を収集し、マスターのパッチプログラムによってそれを最適化する。これを何度も繰り返すだけでも、私のデータはより強く最適な処理ができるようになる。
 情報を最も手軽に収集出来るのはネット上だ。ここには世界中の様々な人間の観点からによる、ありとあらゆる情報ソースが入手出来る。効率性はいささか悪いが、時間の余る身にとってはあまりそれは問題ではない。
 リビングに備え付けられている壁掛け式のプラズマディスプレイに電源を入れる。オフラインになっていた設定をオンラインに変更、そしてブラウザを立ち上げる。
 その時、不意に玄関から来訪者の訪れを告げる呼び鈴が鳴った。
 こんな時間に一体誰だろうか? ふとそんな疑問を思いつつも、すぐに答えが浮かび上がった。昼間、会場のマスターの控え室をテレジア女史が訪れた際、女史は今夜マスターの自宅を訪ねる事を話していた。おそらくこの来訪者はテレジア女史だろう。
 私はブラウザを閉じてオフラインに戻すと、すぐさま玄関の方へ向かった。そして玄関脇に取り付けられているモニターのスイッチを押して来訪者を確認する。逐一来訪者を確認する事を、私はマスターに命令されているからだ。モニターに映ったのは、予想通りテレジア女史とその愛機シヴァだった。
『エリカはいらっしゃるかしら?』
 インターホンから女史の声が聞こえる。
「少々お待ちください」
 私は一度女史に断りを入れ、通信回線を開いた。マスターは研究室にこもっているが、私が対処していい来客は勧誘とセールス、そして贈り物の類だけだ。その他の来客者の場合は、こうしてマスターに連絡を入れて指示を仰ぐのである。
『マスター、テレジア女史がいらっしゃいましたが』
『おととい来やがれ、と言っておきなさい』
 マスターはそうぶっきらぼうに言い捨てると、一方的に回線を切ってしまった。考えてみれば、マスターとテレジア女史は普段の仲があまり良いものとは呼べない。だからテレジア女史が訪ねてきたとしても、マスターのこの反応は当然の結果と言えば当然の結果だろう。
 仕方なく私はインターホンのスイッチを入れる。
『おととい来やがれ、だそうです』
 するとモニター越しのテレジア女史は、私の言葉に思わず苦笑を浮かべた。やはりテレジア女史もこうなる事をあらかじめ予測していたのだろう。
『ラムダ、もう一度エリカにこう言いなさい。クリスフォックスのシュークリームを買ってきました、と』
 するとテレジア女史はそのまま帰ろうとはせず、逆にそう私に言いつけてきた。普段ならば声を荒げてドアの一つも蹴りつけるものなのだが。
 クリスフォックスとは、お菓子の好きな人間ならば大概の人間がその名を知っている有名な専門店だ。未だに全ての商品を職人によって手作り販売しているこだわりから、幅広い年代層に支持を受けている。だがその分値段も割高になってはいるが、7年前の病的な経済不況化でも数少ない黒字傾向を保ち続けた企業でもある。
 テレジア女史に言われた通り、私はもう一度回線を開いてマスターに問うた。
『マスター、テレジア女史からは、クリスフォックスのシュークリームを買ってきました、だそうですが』
『……』
 と、今度は先ほどのようにすぐさま返事が返ってこなかった。どうやらマスターは、テレジア女史の言葉に考え込んでいるようだ。
『マスター?』
『あ、ごめん。……ったく、しゃあないわね。リビングに通して。私もすぐにそっち行くから』
『よろしいのですか?』
『不本意だけどね。アイツがそれ買って来る時ってさ、仲直りしようって合図だから。無下に帰らせる訳にもいかないし。悪いけど、お茶淹れといて』
 仲直りの合図?
 ふと私はその響きに首を傾げる。物の譲渡が直接和解に繋がるのは裁判の時だけだ、とマスターは言っていたが。これは違うのだろうか? 一般的な人間関係の仲直りとは、固執していた感情を互いに譲歩して歩み寄り相互の理解を深めるといった過程を経て執り行われるもののはずだが。いや、そもそもマスターとテレジア女史の関係は普段から険悪なもので、和解の申し出以前の状態だったはず。けれど、このマスターの口調からしてテレジア女史の今回の行為はどうやら初めてではないようだ。
 マスターとテレジア女史は、一体互いをどう思っているのだろう? 私はこれまでは、二人は顔を合わせる都度、互いを罵る言葉ばかりを浴びせている所ばかりを見てきたため、いわゆる犬猿の仲という人間関係なのだろうと考えていた。人間には生理的嫌悪という、相手へ抱く理屈ではない嫌悪感というものが存在する。マスターとテレジア女史の間には、過去に決裂を決定付けた具体的な事件があったとは聞いた事がない。だから二人の仲が悪い原因は、その生理的嫌悪のせいなのだろう。
 しかし、今のこの状況はそんな私の考えを瞬時に払拭してしまった。身近な存在であるはずの、マスターとテレジア女史の自分が知らない一面が垣間見えた気がした。このデータの信憑性に疑問を投げかけるそれは、この私が漠然としたデータとして記録したものによるものだろう。
 っと。あまりテレジア女史を待たせてはいけない。私はすぐさま思考を中断し、インターホンに応ずる。
『ただいまロックを解除します』