BACK


「こんばんわ、ラムダ。遅くに申し訳ありませんわね」
 ドアの向こうに立っていたテレジア女史は、そう謝罪しながらそっと私に微笑んだ。普段はあまり見せる事のない、随分と柔らかな表情だ。
「どうぞ。こちらへ」
 私はマスターに言われた通り、テレジア女史とシヴァをリビングへと通す。シヴァは相変わらずの無表情でテレジア女史の後ろについている。その手には女史のものらしきカバンを携えている。
「割と綺麗に片付いているわね。あなたがやっているのかしら?」
「はい。清掃は私の仕事ですから」
 リビングに限らず、この家の清掃は全て私の仕事だ。マスターの研究室を除く全ての部屋を、何か特別な事情でもない限り私は毎日朝7:30に清掃を行う。研究室だけはマスターにとって大事なものが無数に置かれているため、普段から私はマスターの許可なくして立ち入る事はない。最近はギャラクシカのシミュレーションや換装を行うために頻繁に出入りしているが、入るたびに思うのだが、マスターの研究室は置かれているものがかなり不規則的に雑然とした状態であり、衛生状態も限界値に肉薄している。今は事が立て込んでいるため無理だが、やがて落ち着いた時でも一斉に清掃をする許可を貰えないかどうか提案してみようと思っている。
「私はお茶を淹れて来ますので、一度失礼させていただきます。どうぞ、御自由に御くつろぎ下さい」
 そう言い残し、私はキッチンへと向かった。
 テレジア女史はシュークリームを買ってきた。という事は、コーヒーか紅茶を淹れるべきだろう。
 棚を見ると、あったのはインスタントコーヒーと、まだ未開封のままの紅茶バッグがあった。どちらを用意するのも可能である。が、ふと私は今日の来客がテレジア女史である事を考えた。
 テレジア女史は、テレジアグループという世界でも有数の資産家の出身だ。一般に高所得者の食生活は、それに比例した高級なものになっている。マスターはロボット技術者でありながら特定の企業と永続契約を結ばないため、他の技術者に比べたらおそらく所得は若干下回る。マスターが当たり前のように飲むこういったインスタント飲料も、テレジア女史にしてみればおそらく日常ではまず口にしないはず。人間の味覚は日常で口にしているものによってその優劣が大きく変わる。いや、優劣と言うよりも嗜好だ。とにかく、テレジア女史に普段飲み慣れていないであろうインスタント飲料を出してもよいのだろうか? マスターの所有機として、来客が不愉快になるようなもてなしをする訳にはいけない。けれど、ここにはこれ以外の飲料は置かれていない。マスターはあまり高級品にこだわる事はしない性格なのだ。
 私はマスターの命令に従い、二人分のお茶の用意をしなくてはいけない。しかし、ここにはテレジア女史が気に入りそうなものはない。こういう時は一体どうすればいいのだろう?
「ラムダ」
 突然、誰もいなかったはずのキッチン内にテレジア女史の声が響いた。ハッと振り返ると、やはりそこにはテレジア女史の姿があった。傍らにシヴァはいない。どうやらリビングで待機しているようだ。
「もしかして、インスタントでもいいのだろうか、なんて考えてませんか?」
「はい」
 テレジア女史は私の考えていた言葉をそのまま言い当てて見せた。けど、これは別に驚く事ではないだろう。テレジア女史はマスターに並ぶ優秀な技術者だ。ロボットの思考パターンぐらい、読めて当然である。
「私、意外とこだわりはない方ですの。ですから、あまりお気になさらなくてよろしいですわ。まあ、欲を言えばコーヒーの方がよろしいですが」
「分かりました」
 女史の言葉に処理ループから抜け出せた私は、早速コーヒーを淹れる作業に取り掛かった。棚の一番上にある来客用のコーヒーカップセットを取り出し、それらを一度水で綺麗に洗い流す。それからシュガーポットに新しく角砂糖を入れ、ミルクポットも用意する。
「ねえ、ラムダ。私、本日はエリカと、そしてあなたにも用事があって来たのですよ」
「私にも、ですか?」
 テレジア女史の言葉に、思わず私は首を傾げた。テレジア女史がマスターの所有機である私に個別の用事があるだなんて。そもそも、これまで私は私単体への用事というものに出くわした事がなかった。私はマスターの所有機であるため、私の用事とは即ちマスターの用事となる。だから必要事項は全てマスターに伝え、そしてマスターが処理をする。けれど、それをテレジア女史は分かっているはずなのに、どうしてわざわざ私に伝えるのだろう? 私に関する要項は、マスターに直接問い合わせればいいのに。
「っと、エリカがやってきたわね。ラムダ、これを」
 廊下側からこちらに向かうマスターの足音が聞こえる。どうやら女史もそれを聞きつけたのだろう。そう言ってテレジア女史は、素早く私が身に付けているシャツの胸ポケットの中へ手のひらほどのメモ用紙を更に小さく折り畳んだものを滑り込ませた。
「あの、これは?」
 訳が分からず、すぐさま私はこれの真意を女史に訊ねる。けれど、
「後で、一人だけで読みなさい。それと、エリカには黙っておきなさいね」
 テレジア女史はそう意味深に微笑むだけで、すぐさま踵を返してリビングへ戻っていった。
 一人だけで?
 それは、マスターに対する情報の隠匿になるのではないだろか? 私はマスターの所有機である。マスターの道具でありながら、まるで人間のようなプライバシーを主張する必要も意味もない。どうしてテレジア女史はそんな事を言ったのだろうか。
 深く悩む必要はない。テレジア女史が帰ってからマスターに報告すればいいのだ。けれど、私は何故かそんな気にはなれなかった。私の主人であるマスターより、この件に関してだけはテレジア女史の言葉に従いたかったのだ。明らかに動作エラーである。マスターの道具であるはずの私が、マスターに対して情報の隠匿行為をし、そしてそれを許容しているなんて絶対にあってはならない事だ。
 クイックシステムスキャン……終了。
 システムは全て正常に動作しています。
 しかし、私のシステムにこれと言った不具合は見つからなかった。つまりこの私が行おうとしている情報の隠匿行為は正常なプロセスから生まれた処理結果であるという事だ。ありえない。まず思い浮かんだのはそんな言葉だった。けれど、私自身のシステムにエラーがない以上、全ての処理結果は正常なものである。にもかかわらず、どうしてこんなおかしな結果が出されたのだろうか? もしかするとエモーションシステムは、時にこう言った不確実な結果を出力するのかもしれない。
 なんにせよ、これ以上考えても仕方がない。テレジア女史がどういった情報を私だけに伝えたかったのかはまだ分からないが、後ほど女史に言われた通り一人でメモを読み、そしてその情報を伝えない事でマスターに損害が生じるものであれば伝える、気にするほどでもなければそのままでいればいい。私はマスターに実損さえなければいいのだから。
 私はこれ以上のリソースの消費をやめ、コーヒーの準備を続行した。マスター達をあまり待たせるわけにはいかないからだ。
 そして。
「で、何か用事?」
 やがてリビングに姿を現したマスターは、自分のソファーに深く座って足を組み、私が準備したコーヒーをゆっくり一口含む。
 マスターはどこかピリピリとした険しい表情で、テレジア女史を鋭く見つめている。まるで女史が自らの宿敵であるかのような雰囲気だ。いや、優勝者は一人しかいないギャラクシカに参加している者同士ならば、互いに相手の動向を警戒するのも当然の行動だ。宿敵とまではいかなくとも、あながち間違った言葉ではない。
「大事な用件ですわ。本当、あなたはもう少し私に感謝するべきですわ。いい友人を持った、とね」
 露骨に訝しげな表情を浮かべているマスターに対してテレジア女史は、相対した位置のソファーに足を閉じて浅く座りそう余裕のある表情で微笑んだ。その後ろではシヴァが相変わらずの無表情で直立している。常に周囲にセンサーを張り巡らせ、異変が起こったときはテレジア女史を最優先で防護するようにプログラムされているからだ。
「友人、ねえ。んで、なによ?」
 マスターは苦笑を押し殺した呆れ顔でそう用件だけを問う。これ以上、この話題については議論を交わしたくはないようだ。するとテレジア女史は、シヴァに持たせていたカバンから一枚の書類を取り出し、それをマスターに手渡した。
「なに、コレ?」
「明日のギャラクシカの試合形式変更の案内ですわ。5機の一斉戦闘、2機が残った時点で終了になるそうよ」
「……こんなの聞いた憶えないけど」
「ほら、やっぱり。本日の朝方、会場でお達しがありましたの。けれどあなたは到着するなり控え室にこもったでしょう? だから聞いてないだろうと思いまして、こうしてわざわざ足を運びましたのよ。少しは感謝なさい」
 確かに本日の会場入りの際、会議室にて重要な報告があると館内放送がで言っていた。もちろん私はその旨をマスターに伝えたが、マスターは”どうせどっかのエライ人のくだんない祝辞かなんかでしょう?”と一蹴し、そのまま控え室に向かったのだ。
 どうやらあの時の呼び出しは、あまり一般的な認知度の高くないが社会的にはそれなりの地位を獲得している人物からの祝辞、激励といった類のものではなく、明日のギャラクシカの試合形式が急遽変更された事を伝え説明するためのものだったようだ。
「だったら、昼間の時に言えば良かったじゃない」
「あら? 出て行け、なんて叫んで追い出したのは、どこのどなただったかしら?」
 その言葉にマスターはすっかり黙り込んでしまう。
 あの時、マスターはテレジア女史が放った言葉、そう私が気にしてやまない『個体名オメガ』と『マスターが私に隠匿している要項』の二つについて激しく怒り、感情の赴くがままにテレジア女史を追い出してしまったのだ。
「フン。で、わざわざそれだけのためにここまで来たワケ? それだったらメールでも良かったのに」
「いいえ。私の本当の目的は、ほら、それを御覧なさい」
 そうテレジア女史に促されたマスターは、今手渡されたばかりの用紙に目を落とす。
「ふーん、なんかカッキテキとでも言って欲しそうな内容ね」
 用紙に目を落として十数秒後、マスターはそう溜息混じりに言った。
「ほら、あなたも目を通して」
 マスターは私に読み終えたその用紙を差し向けた。私は用紙を受け取るとすぐさま情報を読み取り始める。
 バトルロイヤル……?
 用紙のタイトルには、そんな言葉が大きく記されていた。これまでギャラクシカは一対一で試合を行ってきた。そして勝利機がトーナメントを順々に昇っていき、最終的に残った一機が優勝という事になる。そのため整備は全て一対一を想定したもので調整していた。一対一と多対一とではまるで勝手が違うのだ。空間認識力やセンサーの有効範囲、ターゲットの複数捕捉など、必要不可欠な機能はごろごろある。もし、この事を知らずに明日の試合に出ていたら、一対一の戦闘しか出来ない私はまず敗北していただろう。
「五人で一斉にやり合わせて、一体どうする気なワケ? こんなんじゃ、かえってメタルオリンピアの開催期間が短くなるだけと思うけど。毎回、メタルオリンピアの経済効果はどうとか、広告力やら宣伝なんたらで嬉しい悲鳴を上げています、なんて聞くけどさ。これじゃあそっちの面では逆効果なんじゃないの?」
「なんでも、主催者についていたスポンサーの一つ、ウェストサイドグループが経営不振を理由にスポンサーを辞退いたしたそうですわ。その結果、使用できる資金が大分限られてしまったので、とにかく試合数を節約したいのでしょう。リング整備だけでも随分時間がかかるものですし。今日明日中にまとまった単位の資金を提供出来るスポンサーを探すよりはずっと現実的ですわ」
「なあるほどね。世の中しょっぱい話はどこにでもつきものなのね。で、アンタはそれでどうしたん?」
「エリカ、あなた私と組みませんか?」
 テレジア女史から飛び出したその言葉に、マスターが一瞬きょとんとした表情で硬直する。そして、
「ヤダ。っていうか、怪し過ぎ。またどうせ良からぬ事でも考えてるんじゃないの?」
 返ってきた返事は、あまりにあからさまな拒絶だった。
 確かに不審に思う点は幾つかある。これまでの通り、マスターとテレジア女史の関係は非常に険悪だ。このギャラクシカも試合前にはテレジア女史から、”決勝戦まで残れるものならば残ってみなさい”といった挑発的な言葉まで貰っている。にも関わらず、何故今になってテレジア女史は協力を申し出たのだろう? バトルロイヤル形式ならば、あらかじめ味方機があった方が生き残れる確率は高い。1機で4機の内3機を倒すより、2機で3機を倒す方が遥かに効率的でリスクも少ない。しかしそれだけに、パートナーには性能よりも何より信頼関係というものが求められる。同盟を組んだとは言え、ルール上は敵同士なのだ。突然相手を裏切って攻撃したとしてもルール違反にはならない。だからこそ、決して裏切らない相手をパートナーに選ぶ事が最も重要なのだ。失礼な表現ではあるが、テレジア女史のマスターに対する日頃の態度を考えれば、到底信頼に値するとの評価は与えられない。この申し出には裏があり、マスターと私が油断した所を攻撃する可能性は決して低くはないのだ。よってこれをは受け入れる訳にはいかないと私は考える。
「いいえ。今回に関しては、何も裏はありませんわ。強いて言うならば、あなたしか組んでもいい相手がいませんの」
「なにそれ?」
 あれほど私よりシヴァの方が遥かに性能が優れていると公言していた女史の言葉とは思えない。そもそも女史は、シヴァの性能はほぼ世界のNo1であると自負している。それだけにプライドも高く、第三機の援護などは必要としない。だからこそ明日に行われるというバトルロイヤルにしても、シヴァが一機で三機を倒してしまえばそれでいいはず。そう簡単にはいかないから同盟を申し出に来たのかもしれないが、少なくとも酷評したマスターの元に来るべきではないはず。
 さすがにマスターと、そして私の考えている事がテレジア女史にも伝わったのだろう。女史は微苦笑を浮かべて仕方がないといった表情をすると、逆にいつもにもました穏やかな表情に取り直して説明を続ける。
「私は既に残りの三機全てから同盟の嘆願書を頂いております。ですが、どれも気に召す機体はありませんでしたわ。性能は文句のつけようがないほどですが、私と組めば少なくとも二位にはなれると腹を括っているのでしょう。つまりは早い話がシヴァを利用したいだけなのですよ。どうです? エリカ。こんな連中と組みたいと思いますか?」
「ま、確かにいい気分はしないわね」
「そういう事です。決勝では、初めから二位狙いの機体よりもエリカのような優勝を虎視眈々と狙っている相手と戦いの方がより相応しいですもの」
 どうやらテレジア女史が自分のパートナーとしてマスターを指名した理由は、他三機に利用される事を不快に感じるが故の消去法によるものだったようだ。確かにマスターは、前々からテレジア女史に対して協力を建前とした利用と取れる発言をしたことは一度もない。マスターはあくまで自分のスタイルで優勝を獲得すると信念を貫いているのだ。そんなマスターならばテレジア女史が不快に思っている、シヴァの力を利用して無難に準優勝を獲得する行為は行われようがない。
「だったらいいわ。もっとも、決勝で後悔しても遅いけどね」
「まあ、ここまで残った機体で一番マシなのがラムダだったから、という理由もありますけれど」
「フン、抜かしてろ」
 そして互いに不敵に微笑む。
 ふと私は再び、マスターとテレジア女史の関係を私は誤認しているのでは、と疑問を抱いた。日頃から顔を合わせるたびに諍いの絶えない二人だが、突然の要望にも相手にしっかりとした目的と理由があれば即決するなんて、本当にいがみ合う関係ならば決してあり得ない事だ。
 やはり二人は、腹の底では互いを認め合い信頼しているのではないだろうか? しかし、ならばどうしてこうもいがみ合うのだろう? 怒る、という事はそれ相応のエネルギーが要る。しかしそのエネルギーを消費した所で見返りは何一つない。はっきり言えば、これほど無駄な行動はないのだが。マスター、そしてテレジア女史ほど効率的な処理を組み立てる技術者が、何故こんな非効率的なことするのだろうか? やはり人間の模造品であるロボットの私には、人間というものは未だ理解に難解である。
「それと、もう一つ。あなたには言っておきたい事がありますの」
 そして。
 テレジア女史は先ほどよりも幾分か口調から緊張を解すと、リラックスした様子でソファーに背をもたれかける。その様子から、どうやら次に話そうとしている事はギャラクシカに関係する事ではなく、プライベートな雑談のようである。
「ふむふむ、イイヤツ買ってきたじゃん」
 けれど、マスターはまるでテレジア女史の話を聞いてはおらず、女史が買ってきたシュークリームの入った紙の箱を漁っていた。