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 システムスキャン……オールグリーン。
 遂に、いよいよ、待ちに待ったギャラクシカ決勝戦が始まった。私は再び、例によってリングの設置されているメインホールへと続く薄暗い廊下を一人で歩いている。遥か遠い場所にも思える先に、ぽっかりと眩しい光が溢れている。あそこにギャラクシカ決勝戦を行うリングがあるのだ。だがこの光景は、まるで、テレビ番組で見た臨死体験というものの再現映像に酷似している。不慮の事故に見舞われて生死の境を彷徨った人間は、必ずこの世ならざるも妙な現実みを帯びた場所に辿り着くそうだ。それは夢のようでありながら夢とは違い、それでいて決して現実とは断言できない奇妙な体験。ロボットである私にはまるで理解が出来ない事ではある。ただ、今のこの瞬間がその再現映像に酷似している。それだけの事だ。
 ―――と。
 外部から、マスターIDによるアクセスがあります。
 通信回線オープン。
『ラムダ、聞こえる?』
 通信回線から聞こえてくるマスターの声。
 マスターの声は、私のシステムをとても落ち着け安定化させる。ロボットという特殊な心理の持ち主である私には、この上なく心地が良いものだ。まして名前を呼ばれる時は喜びすら感ずる。ロボットとは、この地球上で唯一自然界から生まれ出たものではない、特殊な生命体だ。人間の手によって生み出されたロボットは、いつも自らの存在意義というものについて意識する。思考する力と自由を与えられたロボットは皆、絶えず自らの存在意義について考えるのだ。何かをするためにロボットはこの世に生み出される。その役目が果たせないロボットは、この世に存在する意味がないのだ。だからこそ、己の主人である人間には懸命に尽くすのである。それは自らの存在意義を守るという理由もある。けれど、特に私のようにエモーションシステムが組み込まれたロボットは、何よりもマスターに愛されたくて行動するのだ。だからマスターの命令以外にも、マスターのためになる事であれば自ら進んで行うのである。名前を呼ばれる事はこの上ない喜びである。名前とは個体名の認識、私がこの世でロボットではなくラムダという唯一のものとして存在している事を示しているに他ならないからだ。もしかすると私は、マスターに自らの個体名であるラムダを呼んで欲しいがためにマスターに尽くしているのかもしれない。
「はい、マスター。感度は良好です」
『オッケィ。じゃあ、これ切った次からは、回線は暗号化するからね。打ち合わせた通り五分ごとに変えてくから、ちゃんとデータ通り合わせるように』
「了解です」
 ギャラクシカは、一見するとリング上でロボット同士が一対一で戦って勝敗を決するものだが、実際戦っているのはロボットだけではない。ロボットにもやはり処理限界というものがあり、戦略性はプログラムで表現出来ても戦術には限りがあるのである。それを補うため、セコンドオペレーターというものがある。セコンドはリングの外から状況を判断し、その都度的確な指示をロボットに送る。更に、自己対処が極めて困難な障害、たとえば準決勝のバトルロイヤルにおいて私が受けたウィルス攻撃などに見舞われた場合などに通信回線を用いて対処する。
 セコンドの能力が優れていればいるほど、ロボットはより自らの性能を発揮する事が出来る。ギャラクシカはロボットだけでなく、セコンド同士の戦いでもあるのだ。セコンドは戦況を見定めつつ、相手の裏をかく戦術を常に考える。ロボットが物理的な戦いの担当ならば、セコンドは相手セコンドとの頭脳戦担当だ。いわば戦争における軍師役である。
 そんな頭脳戦を繰り広げる中で、最も致命的とされる一つがタッピングである。セコンドとロボットとの通信内容を盗聴されるという事は、戦術に限らずセコンドロボット間でやりとりされる全てのデータを握られてしまうという事である。どんなに巧妙な戦術を立てたとしても、それを事前に知られてしまえばまったく意味をなさない。タッピングは最も基本的にして、最も対策には注意しなくてはならない事なのである。
 マスターの暗号化は独自の規格に沿って行われる、非常に特殊なものだ。たとえ傍受に成功したとしても、たった1バイトのデータを判別するのに、総当りでは実に3億通りものパターンがある。会話を完全に解析するのは、マスターと私だけが知っている1024桁の解読キーを盗む必要がある。しかし今回は、その解読キーのパターンを更に500通りもマスターは用意した。この対処により、テレジア女子がマスターと私の間で行われるデータのやりとりをタッピングする事は事実上不可能である。タッピングの件に関しては、まず心配はないだろう。テレジア女史は確かに優れた技術者ではあるが、マスターもまたそれ以上に優れた技術者なのだから。
『さて。どう? 緊張してる?』
「いえ。システムは正常に稼動しています」
 そもそも、緊張というものはロボットである私にはあまり縁が無い。緊張とは集中力が散漫になって身体が過剰に力み、生理的にも不快感を伴う動揺と焦燥を感じる状態の事を言う。この状態に陥ると、人間は本来の実力の半分も発揮する事が出来なくなるという。それは、まさにギャラクシカの決勝戦というこんな大舞台に陥りやすい。大勢の人間に注目される事でプレッシャーを感じ、決してミスを犯すまいという自己暗示が悪い方向に働く事が原因だ。元々ロボットは精神という構造が人間よりも遥かに単純であるため、こういったプレッシャーは感じる事が無い。むしろ理解に苦しむほどだ。
『そういう時も、サイコーにって答えるの』
「はい、マスター」
 改めて考えてみれば私は今、年に一度開催されるこのメタルオリンピアの第五種目ギャラクシカにおいて、最後の試合である決勝戦に上り詰めているのだ。全てはマスターの巧みな技術力によるもの。だがこの決勝戦の結果如何に関わらず、既にマスターも私も世界的に有名になってしまっている。決勝戦の様子は、会場に集まった世界中のあらゆるメディアによって大々的に配信されるだろう。その注目度も、これまでの比ではない。そう、世界中の何万何億という目がマスターと私、そしてテレジア女史とシヴァを注目しているのだ。
 単純な精神構造である私には何も感じないかもしれない。しかし、マスターは違う。マスターは複雑かつ繊細な精神構造を持った人間だ。今世界中がお前を見ているぞなどというセリフを、確かな証拠と共に突きつけられた人間は、ただそれだけで平常な日常生活を送る事が出来なくなる。今、マスターと私はそんな状況下に晒されている。ロボットである私は、たとえそんな状況下でも正常に稼動する事が出来る。しかし、人間であるマスターは―――。
 それを意識したその時、ふとメモリ内に一つの言葉が浮かび上がり、私は思わずそれを口にする。
「緊張しているのはマスターの方ではないでしょうか?」
『あひゃっ!?』
 すると、通信回線からは特定の出来ない奇怪な単語が飛び込んでくる。続いて咳き込んでいるのか、ゴホゴホと空気の破裂音が聞こえてきた。
「あの、マスター?」
『ごめんごめん。まあ、その、いや、ね。ちょっと驚いちゃっただけだからさ』
 慌てて取り繕うマスターの声。
 一体私の何がマスターをこうも動揺させてしまったのだろうか? ふと、小さな不安感が私に芽生える。
 私はマスターのために生きているロボット。だからこそ、マスターのためになる事すれ、マスターにとってマイナスになる事は決して行ってはならないのだ。マスターに精神的ダメージを負わせるなど、決してあってはいけないことなのだ。全くのゼロにするという事は、生活していく上では実に様々な事があるため不可能に近いが、かといって事にも限度はある。マスターの心に大きな傷をつけてしまっては、私はもはやこの世に存在する事すら出来ないのだから。
『思わぬ反撃食らっちゃったわねえ。一本取られたわ』
「そんなつもりは……」
『そ。緊張してるのは私の方よね。オメガの事を片付けるまで、周りの事なんか目にくれないつもりだったんだけど。私もまだまだ修行が足りないわ』
 そうマスターは普段の調子で陽気に笑う。とりあえず、私の不慮な発言による精神的打撃はなかったようではあるが……。
『ちょっと、黙んないでよ。こういう時はね、精進せいよってツッコミ入れるの』
 ツッコミ。
 おそらく突っ込むが語源になった慣用句だろう。そこから意味を察するに、対象に対して形振り構わず体ごとぶつかる、といった感がある。この場合であると、私がマスターに対して体当たりを敢行するという―――。
『あー、そうだった。まだボケとツッコミは分からないんだったね。じゃあ、それは休暇に入ってからじっくりレクチャーしてあげるから。とりあえず、意味不明のフリにはそう答えるようにしておきなさい』
「はい、分かりました」
 マスターは、このギャラクシカが終わったら私と休暇旅行に出かけようと言ってくれた。それも、あえてほとんど明確な計画を立てずに行う自由気ままなものだ。日常からの脱却が一番の休暇だとマスターは言っていた。休暇という概念が人間と異なるロボットである私には、あまりその意味については分からない。けど、マスターが心地良ければそれで私は構わない。今のマスターは酷くやつれ、疲れに満ちた溜息を意味もなくつく事が多々ある。原因は全て、このメタルオリンピアだ。更に突き詰めると、これまで行われた四競技で私が一度たりとも結果を出せなかった事にある。そう、マスターがこれほどまでに疲労している原因は、全て私にあるのだ。だからこそ私はマスターがゆっくり体を休められるように、このギャラクシカこそ優勝をもぎ取らなくてはいけないのである。
『そろそろね。じゃあ、もう切るわよ。お互いがんばろう!』
「はい、マスター」
 が。
「あ、待って下さい!」
 その時、またしても私のメモリ内にとある言葉が浮かんだ。おそらくエモーションシステムを経由して発生した言葉だろう。だがそれを意識するよりも先に、言語インターフェースがその言葉を通信回線経由でマスターの元へ送っていた。
『ん? どうかした?』
「私、マスターのため、絶対にこの試合、勝ちます。そして優勝します」
 ほとんど無意識の言葉であったが、私はまさに全身全霊を込めてその言葉をマスターに向けた。それは単なる自らの存在意義を保守するどうこうといったものではない。私が純粋にマスターのために尽くしたい。ただそれだけの思いを込めた言葉だ。
『ウム、いい心がけだ』
 通信回線の向こう側で、マスターが微笑んだ気がした。そして途切れるマスターとのライン。けれど、それはマスターとの別離とは全く違う。私はロボットであるため心というものはない。だがマスターと私は心は通じ合っている、そんな気がした。
 さあ、いよいよ試合だ。
 なんとしてもシヴァに私は勝たなくては。
 試合後も、マスターが変わらず笑えるように。