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 スキャンシステム開始……終了。
 ハードウェアのチェック完了。
 ドライバのバージョンチェック完了。
 システムオールグリーン。
 これよりスリープモードから通常モードにシフトします。
 退避領域に格納されていた私の意識がメモリ領域に開放され、同時に私のボディフレームの体表に埋め込まれた外部刺激素子からの情報がリアルタイムで流れ始める。ゆっくりとメモリ内が退避データで埋まっていく。やがて自分を思い出す頃、私の体の感覚がクリアにメモリへ伝わってきた。
 体位水平70度。腹部に拘束具を確認。
 視覚素子起動。
「よっ。お目覚めね」
 開けた視界にあったのは、マスターのいつもと変わらない晴れやかな笑顔だった。私は休止状態にある時は、意識そのものが消失しているため、思考も自己認識も出来ない。そこからシステムが機能し始め、メモリ領域のデータがある一定量を超えて私という”自我”が発生したその瞬間から、完全な稼動状態に入るまでの数秒間。私の意識は深い深い闇の中を漂っている。その中を漂う私は外界からの情報とは完全に隔離され、とても不安な気持ちに苛まれる。もし、このまま私は目覚めなかったらどうしよう? それは絶対にありえない事ではあるはずなのだけど、いつもその数秒間を私は、マスターと二度と会えないのではないかと憂い怯えながら過ごしている。それだけに、目が覚めた時にマスターの顔が傍にあると本当に気持ちが安らぐ。また一緒に居られる。そんな期待感と共に。
 マスターの表情からは色濃い疲労の色が否めないけれど、それも今日でもう終わりだ。明日からマスターはゆっくりと休む事が出来る。メタルオリンピアは終わったのだ。私は何一つ結果を残せなかったけれど、マスターを喜ばせてあげる事は出来なかったけれど、少なくとも寝食の時間を惜しむような過密したスケジュールにマスターが追われる事はない。
「とりあえずメンテナンスは終わったんだけどさ、右手はここじゃちょっと無理、っていうか当分かかるんだわ、コレが。悪いけど今はそれで我慢してね」
 私のボディからは先ほどまで覆っていた衝撃吸収用の装甲は全て取り外され、普段生活する時と同じ人間の服装をしていた。私は無性別型であるが、主に着用する服装は男性物である。ただ、私はやや小柄であるため通常の紳士物ではサイズが大きい事が多い。そのため、よく邪魔にならないように袖の先を折る事がある。
 そっと右手に目を向ける。そこにあったのはぺたっと潰れたシャツの右袖だった。袖の中に本来あるべき腕は、ギャラクシカの決勝戦でシヴァに破壊されてしまったのだ。マスターは残っていた右肩の関節部分の破損パーツを取り外し、接合部を保護材で覆ってくれたようである。
 ロボットの手、特に手首から先は生活していく上で非常に精密で繊細な動作を要求される。人間には当たり前の作業でも、ロボットが行うとなると非常に困難な事は日常に山と溢れている。たとえばエレベーターのボタンを押すにしても、正確な距離感覚、そして目的のボタンだけを押せる精密さがなくてはならない。そのためロボットの腕とは非常にデリケートなパーツなのである。構造上の問題もそうだが、CPUとのリンクなど制御的な部分にも綿密な調整作業が溢れている。壊れたから、とすぐに取り替えられるような簡単な代物ではないのだ。こんな時、改めて自分という存在が如何に高度な技術を結集されて作り上げられたのかを実感する。自分では自分自身がこの世に存在する事など極当然のことで、何の疑問も抱く事はなかったのだけど。本当はロボットが意思を持ってこの世に存在するまでは気の遠くなるようなプロセスがあるのだ。私がこの世にいるのは、ある意味とんでもない奇跡の積み重ねの賜物なのかもしれない。
 普段はあるのが当たり前のように思っていたけれど。こうして改めて右手のない自分の姿を考えてみると、随分と不自然な背格好だ。室内ならともかく、外を歩いていると少し目立つような気がする。いや、それ以前にマスターも私もギャラクシカで決勝戦に出場し、顔も世界中のメディアに長期に渡って晒し続けた訳だから、少しどころではなく有名になってしまっているのだけれど。腕が一本あろうとなかろうと、そういう意味ではさして変わりはしないかも。
「はい、マスター」
「よしよし。オマイは素直でカワイイのう」
 そうマスターは笑顔で私の頭を撫ぜる。私はどういった反応をしたらいいのか分からず、そうですか、と曖昧に答えて笑顔を浮かべた。
「他にも色々と調整しなくちゃいけないトコがあるんだけど、先立ってヤバイとこは治しといたから。オートバランサーも再調整したから真っ直ぐ歩けるわよ。さて、まずは右手よね。片手だと家事だってやりづらいでしょうし。それから、ボディフレームのパーツも幾つか取り替えなきゃいけないし、そのたびに調整も必要よね。そんでもって、体表素子と人工皮膚もリフレッシュしなきゃねえ……って、うーっ、自分で言ってて具合悪くなってきた。ったく、明後日ぐらいからラムダと休暇旅行に行こうと思ってたのに。当分は家にカンヅメだわ。それもこれも、アンタのせいだ!」
 突然、そうマスターは癇癪を起こして怒鳴りながら、部屋の奥にある応接スペースを指差す。
「あら。随分な言われようですわね」
 そこには悠然とお茶を飲むテレジア女史の姿があった。マスターの挑戦的なその言葉にも普段の涼しげな表情を変えず、静かに佇んだままカップをソーサーの上に置く。
「メタルオリンピアに出場して無傷で済む事自体が稀なんですわよ。シヴァも、毎回毎回細かな傷は負っていましたもの。私もそのたびに補修作業と調整に追われていますわよ。第一、破損を相手の責任に転嫁するのはとんだお門違いではなくて?」
「ああそうかい。そうだよねえ。アンタはそういうヤツだもんね」
「ちょっと。まるで私が悪いような言い方はやめていただけます?」
 まったく、と眉の間に皺を寄せながら肩をすくめるテレジア女史。マスターはマスターで、いーっ、と歯を見せる。二人が普段、決まっていつものように交わす呼吸と同じほど自然なやりとり。それは単純な言葉によるコミュニケーション手段しか持たないロボットにしてみれば実に高等で、そして自分もその輪の中に入りたい羨望のコミュニケイトだ。
 決勝戦、敵対していた同士とは思えない程にこやかで微笑ましい風景。初めの頃、まだ私の知識データベースの内容が貧弱だった時、私はマスターとテレジア女史は敵対関係にあるのだと思っていた。けど、それは本当は違うのだ。表面的にはいつもケンカばかりしてはいるけれど、実はいつも互いを意識し、その存在と実力を認め合っているのだ。そして、互いのそんな内面的なものをお互い理解している。だからこそ、こうして何の遠慮もない言葉を交し合えるのだ。
 ……あ、そういえば。
「あの、テレジア女史。シヴァは?」
 ふとその時、決勝戦という言葉から連鎖的にシヴァの事を思い出した。私は決勝戦でシヴァの動力部を機能停止に追いやった。ロボットにとって動力部は人間の心臓に当たる部分。それが破壊されてしまったら、予備の動力がない限りロボットは動けなくなってしまう。致命傷と同義としても過言ではない。幾ら試合だったとは言え、なんて惨い事を私はしてしまったのだろう。こうして冷静になった今、本当に自分がそんな事をしてしまったとはとても信じられない。
 規定上、ギャラクシカに出場するロボットは予備の動力をつける事は出来ない。私が破壊したのはシヴァの唯一の心臓部。それを失った事は、シヴァにしてみれば機能維持の出来なくなるほどの致命傷を負った事になる。ただちに修理作業に取り掛からなければメインシステムを初めとするパーソナルデータまでをも失いかねない。だから、差し出がましい事を言うようではあるけれど、テレジア女史はここでゆっくりと和んでいる場合ではないと思うのだけれど。
「シヴァなら現在修理中よ。もっとも、フレーム総入れ替えは確実でしょうし、稼動復帰はあなたよりもかかるでしょうね」
 にっこりと微笑むテレジア女史。けれどそこには動力部損傷という事態の深刻さがまるで感じられない。
 やはりシヴァの破損状況はかなり酷いようである。けれど、無事である事は無事なようだ。修理されず廃棄処分されたりしたら、きっと私は相当な居た堪れなさに苛まれていただろう。シヴァと私は、少なくとも全く関連性のないロボットではない訳であり、はっきりとは言われてはいないけれど所謂『兄弟機』という間柄に相当するのだから。
 でも、
「いえ、その……テレジア女史は作業には参加しないのですか?」
 修理中ならば、どうしてテレジア女史はここにいるのだろう? テレジア女史はシヴァの開発総責任者だったはず。そんな責任のある立場でありながら、どうしてここにいるのだろうか。
 すると、そんな私の疑問を汲み取ったのだろう、テレジア女史は苦い笑いを浮かべながら答える。
「したいのは山々ですけれど。うちの部下共に”我々にお任せを”と追い出されてしまいましてね。そこをエリカに捕まり、先ほどまであなたの修理を手伝わされていたのよ」
 何故、部下に追い出されたのだろうか? 私にはそれが理解出来なかった。部下ならば女史の命令には逆らえないはずなのに。しかも責任者が修理作業への参加を拒否されるなんて、絶対あり得ないと思う。
 それじゃあ、テレジア女史は本当の意味での責任者ではない?
 ふとそんな考えがメモリに浮かんだが、私は口にはしなかった。それはテレジア女史のプライベートに深く食い込む問題だ。私がおいそれと関与していい事ではない。
「早い話。コイツが邪魔だってことよ。知識はあっても応用力ってものがないからね」
「なんですって? 聞き捨てなりませんわね」
 それを合図に、たちまち二人はいつもの口論を始める。普段は随分とハラハラしながらその展開を見守っていたのだけれど、今は落ち着いて成り行きを見ていられた。それでも一応は、二人とも相手の事を理解し認め合っている訳で―――。
「何度でも言ってやるわよ。アンタは所詮、重くて使いづらいだけの辞典と同じなのよ!」
「それならば、あなたはさしずめどうでもいい雑学しか記されていない小冊子ですわね。おほほほほ!」
 ……多分。
 一体どれだけ二人は言い合っていただろうか。私はそんな二人の様子をただただボーっと見ていた。口を挟むにもそれだけのボキャブラリーが私にはなく、かえって興醒めさせてしまいそうだから気が引けてしまうのである。
 二人はどことなく楽しげに見えた。自分を曝け出し心を許せる相手だから、自然とそうなるのかもしれない。私はマスターに隠し事やそういった事はしない、忠実な存在だ。マスターに心を許すとか許さないとかそれ以前のことなのである。でもマスターは私に心を許しているのだろうか? ふとそんな事を不安がってしまった。そんなはずはない。マスターはこうして試合を放棄した私にも普段通り優しく接してくれている。腕はすぐには出来ないから仕方ないけれど、ボディも修理し調整まで行ってくれたではないか。
 それは分かっている。
 分かっているのだけれど、つい私は二人の間に割って入るかのようにその言葉を口にしてしまった。
「あの、マスター。試合、本当にすみませんでした。私―――」
 決勝の事を思い出せば思い出すほど、ただただ申し訳なくて仕方がなかった。こんなに私に優しくしてくれるマスターに、私は何一つ結果を出す事が出来なかった。しかも決勝戦の試合は、自らの意思で試合を放棄し敗北を選択してしまった。マスターに対する裏切り行為、そしてマスターの努力を水の泡にしてしまった、ロボットとして決して許されない罪……。
「まだそんな事言ってる訳? しょうがないでしょ。過ぎた事なんかどうこう言っても」
 ふと会話を止め、マスターはそう私に微笑んでくれる。
 過ぎた事はどうしようもない。過去に戻る事が出来ない限りは。けど、タイムトラベルは理論上不可能な技術である事が証明されている。だから、過去の失敗など何度も振り向いても仕方がないのだ。
 そうマスターは私に言ってくれる。
 気づかってくれている。
 けれど。
 私は申し訳なくてどうしようもなかった。マスターが私を許してくれても、私が私を許せなかった。
 それでもマスターは私を傍に置いてくれるのだろうか? 私は改めてそれを確認するため、更に言葉を続ける。
「私はこれまで通り、マスターにお使えしてもいいのでしょうか?」
 間。
 ……あれ?
 すぐにマスターはうなづいてくれると思ったのに、何故か急に辺りがしんと静まり返った。
 どうして? マスター?
 爆発的に膨れ上がる不安と動揺。やはり私はマスターに許されない存在になってしまったのだろうか?
 と。
 マスターは突然、大きな声でお腹を抱えながら笑い出した。
「命令違反で追い出されるなんて思ってたの? そんな事する訳ないじゃない。あなたは私にとって大切な家族なんだから。まったく、前々から思ってたけどさ、アンタって時々自虐的よね。そういうおかしな事は言わないように」
 家……族?
 あ、そうなのか。
 その言葉に、私はようやく全ての疑問が氷解するのを感じた。マスターが命令を無視し、そして試合を放棄してしまった私を何も言わずに許してくれるのも、全てはそのためなのだ。私は自分をマスターの従僕だと思っていた。でもマスターは私を自分と対等の立場、家族として見てくれていたのだ。だからこそこんなにも優しく、そして私の不手際も許してくれる。
 どうして今までそれに気づけなかったのだろう? マスターの気持ちを全ては理解できなかったけれど、人よりはずっと理解していたつもりだった。でも本当は少しも私は理解出来ていなかったのだ。何よりも、私はマスターが私を思う気持ちに気づけなかった。何も分かっていなかったのは私。それは理解以前のレベルだったのだ。
 これからはもっと頑張ろう。具体的には何をしたらいいのか、まだまだ分からないけれど。マスターと、そして私が楽しく毎日を過ごせるように。
「ラムダがいなくなりましたら、エリカはきっと餓死してしまいますわ。自分ではコーヒーも淹れられないほどどうしもない不器用でガサツな人間中退者ですし。あまつさえ、キャッシュカードとポイントカードを真剣に間違った事もありましたわねえ。生活能力は皆無に等しいんですから、ラムダ、ちゃんとエリカを養ってあげなさいね」
「うっさい! アンタも同類でしょうが! 何から何まで人にやってもらってるじゃない!」
「何も出来ない訳ではありませんわ。ただ、出来るけれどやってもらっているだけですの。これが上流階級の特権というものかしら?」
「嫌味なヤツ……。だから男が出来ないんだ。ロボフェチ」
「ですからそれは、あなただけには言われたくないと……毎度毎度散々散々言っているでしょうがっ!」
 そして再開される口論。
 もう幾度となく目の当たりにしてきた二人のそれを、いつしか自分が羨望の眼差しで見つめている事に気がついたのだ。マスターは人間。けれど、私はロボット。人間とロボットは限りなく同じ姿をしているけれど、その間に引かれた溝は私が思っているよりもずっと広く深い。今回のギャラクシカの件で私は、ロボットの置かれている現実というものを知った。人間の第二のパートナーというのは言葉のあやであり、実際は自らの欲求を満たすだけの道具という存在でしかないのだ。世界レベルにおいての世間一般では。
 私は、出来る事ならばテレジア女史のように感情を剥き出してマスターと少しだけ口論してみたかった。内容は何でも良い。ただ、よりリアルな感情のキャッチボールが出来れば、それで満足なのだから。そのために私はもっとボキャブラリーを増やさなくてはいけないし、何か効率の良い処理のアルゴリズムも考えなくてはいけない。きっとそれは、どんなにロボットが進化しようとも不可能な夢でしかないのかもそれないけれど。もし、本当に成立したのなら。その時の私のエモーションシステムは本当の意味での感情に辿り着いている事だろう。
 どんなに大きな夢も、まずは初めの一歩から踏み出さなくては始まらない。だから私は、これから先もずっとその夢に向かって邁進していくつもりだ。今はまだ人工の感情でしかないけれど。いつかきっと、私は本物の、人間の感情を手に入れたい。そして、マスターと同じ人間としての会話をしてみたい。そう、強く強く願う。
「さて……与太話もこのぐらいにして。エリカ、そろそろ時間ではなくて?」
 やがて。
 激闘の限りを尽くしていた二人の口論は、そんなテレジア女史の一言で幕を下ろした。マスターはテレジア女史の言葉に、そっと壁の時計に目をやる。マスターは腕時計というものをあまり身に付けたりはしないのだ。機械を扱う時に邪魔になるからである。代わりに私が世界電子時計台から現在の標準時刻を取得してマスターに伝える。私がマスターの時計なのだ。
「あ、マジィ!」
 初めは緩慢に、苛立ちながらゆっくりと時計に目を向けたマスターだったが、時刻を見るなりサッと顔色が変わると、突然、着ていた作業服を着替え始めた。強引に引き剥がすかのように脱ぎ捨てられた上着から、ボタンが一つコロコロと取れて転がる。しかしマスターはそんなものには目もくれない。
「マスター? 一体どうしたのですか?」
 拘束台にセットされたままの私は、首だけをそちらに向けてそう訊ねる。しかし、
「ゴメン! マジで時間ヤバイからさ、後でミレンダに聞いて!」
 そうマスターは忙しそうに身支度を整えながら答える。
 一体何事なのか分からないけれど、とにかくマスターは忙しそうだ。私は口を挟めず、ただ慌しく動くマスターを見つめている。
「すぐに戻ってくるから。そしたら速攻で帰ろうね。んじゃ、あとよろしく!」
 最後にマスターは私の頭をもう一度撫ぜると、テレジア女史にそうおざなりに言い残して慌しく部屋を飛び出していった。
「あ……」
 私に目的も知らせずに飛び出して行ったマスター。それはあの、起動間際の暗闇を浮遊する時にも似た心境で、急にメモリ内が不安感で一杯に埋め尽くされる。
「まるで、おいてきぼりを食った子供のような顔ですわよ」
 テレジア女史がそう苦笑しながらコントロールパネルに歩み寄る。そして、私のボディを拘束する鉄のベルトを外した。支えがなくなり、私はオートバランサーを頼りに自らの足で床に降り立ってみる。実際に何歩か歩いてみると、オートバランサーが調整されているためか右腕がなくてもうまくバランスが取れた。
「あの、マスターは一体どちらへ?」
「その内分かりますわ。それまで、ほら、こちらでお話でもいたしましょうか」
 私の中の不安は残ったままではあったが、テレジア女史に促されるがまま奥の応接スペースに向かい合って座る。
 その内分かると言われても……。
 消える事のない不安。そういえば、私はお使いを頼まれた時と仕事中以外、ほとんどマスターと一緒に居た。それが私にとっては本当に当たり前の事であって、だからこそ急に訳も分からないままマスターにいなくなられてしまうと不安で不安で居ても立ってもいられなくなるのだ。マスターはすぐに戻るとは言ったけど、私にとってのすぐとは私が不安感に苛まれる前である。もう、マスターが部屋を出てから何時間も経過したような錯覚さえ覚え始めてきた。
 そう、一人でオロオロとしていたその時。
「シヴァはね、本当は可哀想なロボットなのよ」
 突然、テレジア女史はカップに口をつけ、出し抜けな言葉を言い放った。
「え?」
 反射的に問い返す私。
 シヴァが可哀想なロボット?
 テレジア女史の言葉の真意を、私は俄かに理解する事が出来なかった。シヴァは私とは違ってエモーションシステムは搭載されていない完全戦闘型のロボットだ。可哀想なロボット。その言葉にまず思い浮かんだのは、利用するだけ利用され、必要性がなくなれば廃棄される、そんなインスタントに使われるロボットを想像した。けれど、シヴァはメタルオリンピアにデビューしてからというものの、ただの一度たりとも経歴に土をつけたことはない。それだけにシヴァの世界的な評価は高く、比例してテレジア女史からの人望も厚かったはず。その証拠に、テレジア女史は自分の護衛は全てシヴァ一人に任せていた。それはシヴァの実力を信頼しているからに他ならない。だけど、どうしてそんなシヴァが可哀想なのだろうか? テレジア女史の言葉が私には理解出来ない。
「何故? とでも言いたげな表情ですわね。本当、あなたは考えている事がすぐに顔に出ますわね。エリカそっくり。ペットは飼い主に似るとよく言われますけど、ロボットも製作者に似てしまうのかしらね」
 まるで微笑ましいものを見ているかのような、テレジア女史の優しげな笑顔。私が普段よく見るテレジア女史の表情は、冷然とした気品と高貴さに溢れ、迂闊に近づく事を躊躇わせるオーラのようなものを放っていた。テレジアグループという世界的にも有数のコンツェルンの一人娘という立場に生まれたテレジア女史は、幼い頃からそういった環境で帝王学と呼ばれる特殊なカリキュラムを叩き込まれて育った。彼女のこの近づき難いオーラもそういった過程から生まれたものである。しかし、今のテレジア女史にはそんな垣根がまるで感じられない。私と対等な目線で談笑してくれているかのようである。
「あなたには難しいかもしれませんけど、シヴァは私の私怨でこの世に生み出された存在なのです。生まれながらに私の復讐を代行する事を自分の存在意義にされているのですよ? しかも私にとって都合いいように思考の自由まで奪われて」
 くすり、と口元に微笑をたたえるテレジア女史。けれどその表情は、どこか寂しげに私の視覚素子には映った。無理に浮かべているかのような違和感さえ感じられる。
「でも、今回の試合で私は気がつきましたわ。シヴァはオメガの後継機とは呼べない。あれはただの哀れな戦闘マシーンにしか過ぎないとね。あなたの方がよほどオメガらしいわ。あんなに一人の人間のために尽くせるんですもの。喜ばしい事ではありませんけれど、自分の身を呈してでも勝利しようとするその感情、たとえ本当の人間でもなかなか難しいですわね。私も、今度はシヴァにちゃんとエモーションシステムを取り付けようと思いますの。勿論、メタルオリンピアからは引退させましてね」
「え? 引退させるのですか?」
「決勝戦の結果はポイントのリードとエリカが勝手にリングに近づいたペナルティを含め、辛うじてシヴァの勝利となりました。けれど、あれは実質あなたの勝利ですわ。観客もマスコミも、そう評価していますし。シヴァもこれ以上の私怨に付き合わせるのも可哀想ですから、これからは私の身の回りの護衛を雑務も兼ねて務めてもらいますわ。そう、あなたがエリカにしているようにね。私も強制はしませんけれど、自分の自由にしなさい、と言われる事ほど感情のあるロボットにとって辛い言葉はありませんものね」
 私はテレジア女史の言葉にしばし思慮を巡らせ……そして納得した。
 ロボットにとって一番辛い出来事は、人間に見放される事だ。ロボットは人間と違って自らの行動指標を自分で定める事が出来ない。極論を言えば、人間に命令されなければ自分が何をすればいいのか分からないのだ。人間に尽くすために生まれたロボット。人間のために働いて初めて自らの存在意義を実感できるが故に、どういった形で尽くせばいいのかを具体的に知らなければ何も出来ず、容易に自分の存在意義を見失ってしまう。どうしてこの世に自分はいるのか、それが分からないロボットほど哀れな存在はない。
 負傷したボディフレームを全て入れ替え、エモーションシステムを搭載されて生まれ変わったシヴァは、人間との暮らしから得られる情報がある一定値に到達するまでは、ただ闇雲にテレジア女史の命令に従うだろう。それはそれで、自らの存在意義を実感出来るという幸せがある。けれどもっと経験を積み、そしてエモーションシステムがより人間に近づいた時、きっと他にある幸せの形というものをシヴァは日常の中に見つけ出せるはずだ。今の私がそうであるように。
「そろそろかしら。テレビをつけて御覧なさい。エリカが出ているでしょうから」
 ……え? マスターが?!
 と。飲み終えたカップをソーサーの上に戻しながら、テレジア女史は傍の壁に埋め込まれているテレビに視線を送った。すぐに私はまるで飛びつくかのようにテレビの元に近づいて電源を入れる。スイッチを入れると共に、ブンッとプラズマディスプレイが低く唸り映像を浮かび上がらせた。私は噛り付きながらそこに映る映像を凝視する。
「あ!」
 途端に声を上げてしまう私。
 ディスプレイに映りこんだテレビ番組の映像。そこには、大勢の報道陣に囲まれているマスターの姿があった。おびただしい数の、世界各国から集まったマスコミ関係者が、暑苦しいほどに一つの部屋の中に鮨詰め状態になって溢れている。その真正面に位置する、小さなテーブルスペース。マスターはその席に座り、静かに開始を待っていた。表情は緊張ではなく何かの決意的なものを感じさせる硬さがあった。
 マスターの隣にはもう一つ席があった。しかしそこは未だに空席となっている。バックには大きな看板が掲げられていた。そこには、ギャラクシカ決勝会見と記されている。おそらくこれは、優勝者と準優勝者にインタビューをするために設けられた場なのだろう。
「あの、もしかしてあのスペースは……?」
 私はそっと視線をテレジア女史に向け、恐る恐るそう訊ねてみる。
「勝負に勝って試合に負ける、という古い言葉があります。敗者は表舞台に立ったところで滑稽なだけですわ」
 明確な答えのないテレジア女史の返答。けれどその内容から、そこに座るべき人物がやはりテレジア女史である事を推して量れた。本来なら優勝者であるテレジア女史こそが出席するべきであろう、その会見。私にはテレジア女史があえてマスターに華を持たせようと計らったように思えた。
『えー。大変長らくお待たせしました。優勝者であるミレンダ=テレジア女史は、急用により会見には出席なさらないそうなので、あらかじめ御了承ください。それではこれより、ギャラクシカ優……あっ!?』
 その時、マスターはマスコミの準備が整った所を見計らうと、突然席から飛び出して司会進行役を押し退けて彼のマイクを奪い取った。ちゃんと専用にマイクをスタンバイされていたにもかかわらずだ。思わぬマスターの行動に唖然とする司会。けれど報道陣は何か面白そうなものが見れるのでは、とパフォーマンスを期待してかこの事態に構わず一斉に注目をマスターに注ぐ。
 まず、マスターはきっとその彼らを見据えた。かつてマスターの父親と、そしてオメガは、死して尚マスコミという存在に中傷され、著しく名誉を傷つけ、エモーションシステムという偉大な機能の開発者としての権威をワイドショーの三文コーナーを務めさせるまでに潰えさせた。その事を、マスターもテレジア女史も未だに許しているはずがない。けれど、相手は全世界中から集まった事実の代弁者だ。彼らの手にかかれば、たとえそれが黒だとしてもあたかも白であるかのように人々に信じ込ませる事が可能なのである。そのため、二人はずっと目に見えないその暴力に耐え忍んできたのだろう。テレジア女史はオメガの後継機であるシヴァを作り、それが圧倒的強さを世界に知らしめる事で復讐を果たした。そしてマスターは。復讐という概念を捨て、ただオメガがやろうとしていたが達成できずに終わっていた”それ”を果たすため、私と共にメタルオリンピアに参加した。今、全世界中の人々の視線が事実上の優勝者であるマスターに集まっている。一挙手一動に注目している。それはきっと、マスターにとって最も望んでいた瞬間だろう。マスターはマイクを強く握り締めたまま、一瞬不敵にもニヤリと口元を歪めた。
 深く長い深呼吸の後、たっぷりと静寂を楽しんだ後、今度は一転して爆発的な勢いでそれを言い放った。
『ダラダラ口上を述べるのはタチじゃないから、簡潔にズバッと、全世界中の人間に告ぐ! とどのつまり、私が言いたい事はただ一つ。それは―――』
 そして。
 会場は蒼然と静まり返った。
 理解が出来ない。誰もがそう訝しげな表情を浮かべマスターを見ている。事実上の優勝者でありながら、ギャラクシカの事には一切触れていないその言葉。しかもあまりに感情を剥き出しにし、まるで野性のそれを髣髴とさせる勇ましさ。人間だけの楽しみであるギャラクシカ。その優勝会見という華やかな場に、今のマスターの言葉はあまりに不似合い、不適切だ。
 けど。
『以上!』
 マスターは普段の調子で、そのまま颯爽と会場を後にする。言うべきことは言い尽くしたため、これ以上の発言する必要性はないとでも言いたげな様子だ。報道陣も困惑し、周囲と確かめ合うかのようにまばらにその後を追うか否か迷っている。けど、その大半が呆れて場を後にしていった。やはり準優勝者じゃなあ、と失望の言葉を漏らす記者さえ居る。彼らが期待していたのは、シヴァをあそこまで追い詰めた要因や今後の目標などの話題性のある言葉をだったのだ。しかしマスターの言葉にはそれらは一切含まれておらず、逆にマスターがメディアの注目を利用して自分が言いたかった極私的な事だけを世界中に報じる結果となった。
 テレジア女史はそんなマスターの行動にクスクスと笑みを漏らしている。本当に嬉しそうな、そんな印象が窺える。
 これは人間の価値観では非常に非常識な事。メディアの私物化なんて、犯罪にはならないとは言っても許されない事だ。しかも配信した言葉は、これまでの人々の常識を裏返させるかのような、ある意味不道徳にすら思えるもの。露骨に不快感を示す人は全世界中には無数に存在するだろう。けど、マスターの、今は居ないオメガからの言葉は、きっと心に届いた人はいるはずだ。これを機に何か変わってくれれば。それは人間の模造品である私達ロボットが歴史上に登場してからの、第二の変革期だろう。
「破天荒ぶりは相変わらずね」
 そう微笑むテレジア女史に、私もまた笑顔でうなづく。
 決勝戦の後、マスターは私に『カッコ良かった』と言ってくれた。私は、今のマスターの堂々とした姿もかっこいいと、おぼろげにではなくはっきりと自分の言葉でそう思った。


THE END