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 外の景色が薄っすらとオレンジ色の光に包まれていく。
 時刻は夕刻に差しかかろうとしていた。この村は山間部であるため、比較的暗くなるまでの時間は早い。気温もぐっと下がり寒さを増してくる。生まれ故郷のニブルヘイムほどではないものの、決して油断出来ない寒さだ。
 アニスは早速暖炉に火を入れた。昼間はそれほどでもなかったのだが、夜が近づくに連れて肌寒さを感じるようになってきている。とは言っても、僕は随分とお酒を飲んでしまったので体は暑く、それほど暖炉の必要性を感じないが。
 そして。
「第二百三十番、リーム=タチバナ! イッキいかせていただきます!」
 声高らかにそう宣言すると、そのままジョッキに注がれたこの村の特産物であるという地酒をゴクゴクと勢い良く飲んでいく。味も風味もなく、ただ飲む事だけに意義を見出している。そんな仕草だ。
 この店に来たのは昼前の事だ。あれからずっとこの時間まで、リームは店の主人であるゴードン氏と宴会を続けている。ひたすら飲んで食って暴れるの繰り返しだ。その間、何度かトイレに立った以外、全く休む様子はない。いつもながら本当に良く続くものだ、と僕はあきれてしまう他ない。
「んじゃあ、今度は俺の番だな。えーと、第二百……何番だ? ああ、もう何番でもいいや。イッキいくぞ!」
 ゴードン氏もまた、リームに負けず劣らずのとんでもない酒豪振りを発揮し続けている。二人とも量的にいい加減止めた方がいいのだが、下手に止めようとして関わってしまうと僕まで無理やり飲まされてしまう。現在、月齢十四日目。時刻的にもこれから僕の体はどんどんヴァンパイアに近い状態になる。特に、ヴァンパイアの血が活性化している時は、幾らアルコールを摂取してもすぐに分解されてしまうので酔う事は出来ない。だからもう少し日が落ちれば今のこの酔いも一気に覚めるから、付き合いで飲む分には一向に構わない。ただ、二人の飲んでいる地酒はとんでもなく辛口なのだ。とてもとても、ああも次から次へと飲めるものではない。
「そろそろ止めるべき……だよね?」
 僕はそうアニスに訊ねてみた。けど、アニスはそっと目を伏せたまま首を横に振った。
「止めたいのは山々だけど、一度ああなっちゃたお父さんをこれまで止められた事は一度もないの」
 確かにゴードン氏のあの様子では、アニスのような小さな子には止める力などはないだろう。そもそも、聞き分けてくれるだけの理性が残っているのかも怪しい。
「グレイスさん、止めてくれますか?」
「いや、ちょっと無理……。僕もさ、ああなったリームを止められた事がまだないんだ」
 リームが一度その気になってしまったら誰にも止める事は不可能だ。走り出してしまったら、後は戦場を突き進む重機の如くひたすら満足するまで飲み続ける。迂闊に水を差すような真似をすれば、殴られたり蹴り飛ばされても文句は言えない。これは理屈云々が通じる問題ではないのだ。
 それでも僕は、これまでにも何度もリームの過剰な飲酒を止めてきた事がある。その都度、手やら足が飛び出してくるのだが、それをいなして引き離すのも既に慣れてしまった。今回は長い禁酒期間があったから、いつもよりもある程度は容認してあげようとは思っていた。しかし、もうそろそろ飲み過ぎもいいところだ。リームを止めなくてはいけないのが、いかんせん、この状況は少し厄介だ。二人が親友のように仲良く飲んでいるのだ。リームを引き離そうとすれば、ゴードン氏も機嫌を悪くするだろう。そしてまたその逆も然り。つまりは、二人同時に飲むのをやめさせなければいけないのだ。何か画期的かつ安全な方法があればの話だが。
 そして、互いに疲れた表情を見合わせ、がっくりと肩を落とす。互いの苦労は言葉に出さなくとも十分過ぎるほど通じ合った。
「とりあえず、アレ」
 アニスが指差したその先には、前にゴードン氏が厨房の奥から運んできた地酒の入った酒樽の姿があった。アニスぐらいならばすっぽりと納まってしまうほどの容量を持つ酒樽だったが、中身は既に残りが半分を切ってしまっている。今の調子で飲んでいけば、おそらくあと一時間ぐらいで飲み干してしまうだろう。
「飲み終えてしまったら、なし崩し的に宴会をお開きにしましょう。このままだと、二つ目に突入しそうだもの」
「もう一個あるの?」
「ううん。実はあと一山」
 あの酒樽だけでも、とても二人で飲む量とは思えないのに。それがまだ奥には山と詰まれているなんて。考えただけでも眩暈がしそうだ。
 とりあえず、そろそろ準備運動でもしておこうか。酔って自制の効かなくなったリームは、それこそ生半可な気持ちでは押さえる事は出来ない。巨人族などの魔物を一人で相手にするほどの覚悟が必要だ。いや、それはちょっと大げさではあるけど、とにかく油断のならない事は確かだ。
 ―――と。
 バタン。
 突如、店の入り口の方から物音がした。振り向くと、そこには何やらガラの悪い男の二人組の姿があった。バウンサーという職業上、こういった人達もだいぶ見慣れてしまったが、やはり一緒にいてあまり落ち着くものではない。僕が臆病な性格という事もあるのだけど。
「いらっしゃいませ……」
 アニスは露骨に嫌そうな表情を浮かべ、極めて事務的な淡々とした口調で出迎える。面識があるような素振りだ。
「ゴードンさんよ、楽しそうだな」
 二人組の内の片割れ、ゴードン氏ほどとはいかないまでもかなり体格のいい男が嫌味ったらしい嘲笑を浮かべながら二人のいる席へ近づいてきた。
「チッ、ブレイザーの飼い犬め。また性懲りもなくやってきやがったな」
 途端にゴードン氏の表情が険しくなった。最初僕達がこの店にやってきた時の様子と全く同じだ。
「帰れ! 痛い目を見ない内にな!」
「そう連れねえこと言うなって。ボスはさ、前回の提示額に更にもう二割も色をつけるって言ってたぜ?」
 轟、と吠えるゴードン氏。しかし、まるで雷鳴のような怒声を浴びさせられたにもかかわらず、男達は一向に怯む気配がない。
「帰れと言ってるのが聞こえんのか! この店は俺のものだ! 幾ら金を積まれようと、テメエラにような薄汚ねぇ連中には死んでも渡さん!」
「やれやれ……相変わらず頭の固ェ奴だな」
 男は微苦笑を浮かべながら、小馬鹿にするかのようなオーバーな仕草で肩をすくめて見せる。
「それにしても、まだこの店に来る客がいたとはな。余所者か?」
 そして、男は視線をゴードン氏から傍らのリームに移した。リームは酔ったせいで随分としまりのない表情で、ボーッと男を見つめている。
「お前さんも、なんでこんな汚い店になんか来ちまったんだ? 向かいにはもっと立派な店があるっていうのによ」
「別にぃ。どっちを選ぼうとも、それは私の勝手でしょう?」
 男はリームの意外にも強気な返事に、ほう、と僅かに驚いて眉を上げた。
「やれやれ、モノを知らないってのは恐ろしいモンだね。この村でボスに逆らうのはここを除いて誰もいねえんだぞ? それがどういう事か分かるよな?」
 ニヤリと何かを言い含めた笑みを浮かべる。
 村のボス? 村長の事だろうか。いや、だったら普通に村長と呼ぶはずだ。わざわざボスなんて呼び方をするという事は、事実上、村長よりも権力のある人間が他にいるという事になる。
「そういう訳だ。続きはウチの店でゆっくりやろうや。下手に逆らって痛い目を見たくないだろう?」  そう言って男はリームの頭をポンポンと叩いた。
「アンタみたいな小柄な女は割と好みだな。どうだ? これから俺―――」
 その時。リームは手にしていたジョッキをテーブルの上にカタンと置くと、静かに席を立ち上がってつかつかと男の前に歩み寄った。
 まずい!
 その瞬間、僕の背筋が冷たく凍りついた。
 早く止めなければ。
 だが、それよりも先に事は起きてしまった。
「お? なんだ急に―――ガッ!?」
 ずどん、という水の入った樽を強く撃ったような音が店内に響き渡る。その途端、男は口から空気が破裂したような音を出して言葉を途中で止めた。
 あっちゃあ……やっちゃった。
「なに人の頭を気安く触ってるワケ?」
 男の体はやや前のめり気味に折れ曲がったまま硬直している。首から上は震えているかのように痙攣し、目はぐるっとひっくり返って白目を向いている。
 丁度みぞおちの辺りに、リームの右の拳がまるで杭が突き刺さるように決まっていた。おそらく下からえぐりこむようにボディブローを放ったのだろう。その一撃で、男は立ったまま失神してしまっている。
「急に湧いてきた分際で、グダグダグダグダうっさいっつーの」
 そして、気を失った男の体を捨てるように後ろへ突き飛ばした。ドスン、という音を立てながら男の体が床の上に叩きつけられる。
「……は?」
 二人組の内のもう一人は、目の前で起こった事態を理解出来ず、唖然とした表情でリームと床に倒れている連れを見比べている。驚くのも無理はないだろう。こんな小柄なリームが、倍近くある男を一撃で倒してしまったのだから。たとえ頭の中で分かっていたとしても、俄かに理性が受け入れてはくれない。
「ほら、そこのゴミを持ってさっさと出てってよ。それとも、向かいまで送り返される?」
 バキボキと指の関節を鳴らしながら威嚇するリーム。その瞬間、男はようやくリームが見た目通りの人間ではない事に気づいた。
「い、いえ!」
 途端に男は連れを何とか背負って持ち上げ、慌てて店から出て行った。本気を出されたら、向かいの店まで飛ばされてしまうかと思ったのだ。事実、リームが本気を出せば人間ぐらいは簡単に吹き飛ばす事は可能だ。当然、骨の数本は粉々に砕け散りはするが。
 とりあえず、死人は出なかっただけでも良しとしよう……。悪いのは、リームと出くわしてしまったあの人の運だ。
 リーム自身に悪気はない。酔っている時に出くわし機嫌を損ねるような事をしてしまったのが悪いのだ。極論で言えば、石につまづいて転ぶようなものだ。
「へーっ。アンタ、随分とやるじゃねえか! 今のはアレか? カラーテってヤツだろ?」
「違う違う。タチバナ流活殺拳よ。やがて格闘界のグローバルスタンダードに君臨するから憶えておくように」
「そうかそうか! よく分からんが、まあ、強ェのは良い事だ! ようし、ブレイザーんトコの犬を追い払った記念に乾杯だ!」
 そして、二人はまた嬉々として酒を酌み交わし始める。前よりも数段勢いがついた感すらある。本当にこの二人には、底なしという言葉がよく当てはまる。一体どれだけ飲めば気が済むのか? そんな質問はこの二人にとって何の意味もなさないだろう。
「ねえ、あのブレイザーって? なんだか向かいの店と関係ありそうだけど」
 二人は放っておき、僕はアニスに先ほど耳にした単語について幾つか訊ねておく事にした。リームが手を出してしまった以上、無関係では済まされない。だから何かしらの心構えや対策を講じる必要があるのだ。
「あ、それはね―――」
 早速説明を始めようとするアニス。
 が。
「そこで! 私はそいつに言ってやったのよ! 『動くな、このチキン野郎!』ってね。で、ビビって動けなくなった所に、必殺の正拳突きが超炸裂! 一発でドーンよ!」
 自分の武勇伝を大声で語るリーム。いつの頃の話かは知らないが、まあ大体の内容は一緒だ。リームの表現を使えば”胸クソの悪いヤツ”を必殺技で倒すといったものである。それ以外にも、アカデミー時代には野性の熊を素手で殺したり、獰猛な人食い虎を飼い殺しにした、などの伝説を数々築いている。こういった酒の席でのネタには本当に困らないのだ。
「やっぱり後で聞くよ。うるさくて、落ち着いて聞けそうにもないから……」
「そだね……」
 僕達は顔を見合わせ、そしてまた溜息をついた。