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 時刻は午前五時を僅かに回った。深蒼の空も白々と明るみ始め、遠くからは鳥の囀りが聞こえてくる。
「ふう……」
 僕はコップに注いだ水を飲み干し、重苦しい溜息をついた。さして飲みたくもないのだが、明け方前からもう何杯飲んだのか分からないほど繰り返し飲み続けている。飲み過ぎて、いい加減気分が悪くなってきた。
 月齢十五日目。僕の中のヴァンパイアの血の活動が最も盛んになる時期だ。ヴァンパイアの血が活発に活動を始めると、それに伴ってヴァンパイアに近づいた僕の体は人間時よりも僅かに強くなる。とは言っても、体力的には本当に幾分か強くなるだけで、ほとんどは五感などの感覚器官が鋭くなるだけだ。感覚の鋭さは危険を察知しやすくなるので非常に便利ではあるのだけど。だが同時に、この時期は活性化したヴァンパイアの血がもたらす副作用に最も激しくさらされる時期でもある。
 その副作用が今、僕の体を苛んでいた。夜明け前から始まったそれは僕の胸の辺りで熱い奔流となってうごめき、しきりに激しい渇きを理性へダイレクトに訴え掛ける。そのあまりに強過ぎる渇きの衝動にさらされ、喉が渇いて渇いて仕方がない。なんとかそれを誤魔化そうと水を繰り返し飲んでみるが、ほとんど気休めにしかならない。僕の体が本当に求めているものは水ではないからだ。
 僕の体には人間だけでなくヴァンパイアの血も流れている。それは、本来ならば決してありえない混血であるため、時折それぞれの競合がこうして表面化する事がある。僕はそれを便宜上『発作』と呼んでいる。
 本来、純血のヴァンパイアは人間の血液を摂取する習慣を生まれながらに持っている。ヴァンパイアという種族は、定期的に人間の血液を摂取しなければ心身を正常に保つ事が出来ない。人間が食事から栄養を摂取して体を維持するのと同じだ。
 けれど、ハーフやクォーターの体は純血種のように血液を必要とはしない。にもかかわらず、遺伝子的に吸血欲求だけは受け継いでいる。この生物学的にも矛盾した特徴を持つのが、ヴァンパイアの混血種なのである。そのため、普通では考えられない遺伝子同士の軋轢と衝突のようなものが実際の苦痛を伴って表面化するのである。
 ヴァンパイアの血は、普段はなりを潜めておとなしくしている。血の濃さだけを考えれば、僕はクォーターであるためヴァンパイアよりも人間の血の方が濃いのだ。だが、何かのきっかけ、主に満月が近づいた時などにヴァンパイアの血は突如爆発的に目覚めて活動を始め、人間の血に反旗を翻す。これが僕の言う発作だ。一度発作が始まると、体は血液など欲していないにも関わらず精神的に人間の血液を飲まずにはいられない状態になる。最近は比較的落ち着いてきてはいるのだが、発作が始まったばかりの頃は本能に理性が飲まれ、我を失って暴走ばかりしていた。それほどヴァンパイアの遺伝子は人間のそれよりも強いのである。
 発作が始まっている。
 僕は感覚的に自分の体の異変にはとっくに気がついていた。気づいていながら、ずっと今まで我慢していたのだ。具体的な解決策を分かっていながらも。
 発作が始まれば、それを鎮めるには人間の血を精神が落ち着くまで吸うしかない。少々大げさにも聞こえる表現だが、量で考えれば今はコップ一杯にも満たない量で満足できる。以前は相当な量が必要だっただけに、血を飲ませてくれるリームの負担を考えれば非常に良好な経過である。
 僕の父はヴァンパイアのハーフだが、僕のようにどうしようもなく血液が欲しくなる事は滅多にない。昔こそは僕よりも数段強い吸血の欲求にさらされていたらしいけど、それも年を重ねるにつれて落ち着いていったそうだ。発作が起きる原因は、人間とヴァンパイアとの血が競合しているせいだ。けどそれは加齢に伴い落ち着いていったことで発作が起きにくくなっていったのだ。僕もまたその傾向にある。決して油断は出来ないのだが、以前よりも発作は遥かに楽で緩やかなものになった。僕の中の人間とヴァンパイアの血も、父と同じように落ち着いていっているのだ。
 空になったコップを意味もなくじっと見つめる。ふと、このコップに並々と血液が注がれていたなら、などという想像に思わず駆られた。それを一気に飲み干してしまったらさぞかし良い気分になるだろう。今の僕にとって人間の血液は、この上ない美味の飲み物なのだ。この胸に熱く蔓延るうねりも、それを飲めばたちどころに引いてしまう。だが、あくまでも想像は想像だ。そんな不毛な事を考えていても仕方がないので、コップは引っ繰り返してテーブルの上に置く。
 僕は再びベッドの上に戻って仰向けになった。朝食の時間まで一眠りしたいと思ったが、今はそういう訳にもいかない。満月の前後はヴァンパイアの血が活性化するため、僕の体は一時的に睡眠を必要としなくなる。だから眠ろうにも眠る事が出来ないのだ。眠る事で気分を誤魔化せないため、強烈な渇きと戦う事を強いられてしまう。それはとてつもなく辛い。
 隣のベッドを見ると、リームは相変わらず幸せそうな寝顔でぐっすりと眠っている。昨夜は五日ぶりにお酒を満足に飲めたため、今頃は何の気兼ねもなく良い夢でも見ている事だろう。
「う……ん……」
 と、パタッとリームは寝返りを打って奥を向いた。白いうなじが僕の目に飛び込んでくる。
 ゴクッ。
 思わず僕はつばを飲んでしまった。
 いつも僕の発作が始まると、リームは進んで僕に自分の血を飲ませてくれる。その時に僕が牙を突き立てるのが丁度あの辺りだ。基本的に吸血は心臓に近い部分から行う。その方が血液が新鮮だからだ。
 舌がリームの血の味を思い出してそわそわと落ち着きをなくし始める。唇も、リームの肌の柔らかさを思い出して震え始める。ヴァンパイアの血が眠っている時は人間の血の味なんて鉄臭いだけでおいしくもなんともないのだが、活動期に入ると、ふと気がつけば血液の味を思い出してしまうほど味覚が変化する。
 このどうしようもない渇きを抑え込むには、今すぐリームの首筋に噛み付いて思う存分血液を飲めばいいのだけど、それではせっかくいい気持ちで眠っているリームを起こしてしまう事になる。五日間という、リームにしてみればあまりに長い禁酒を強いられ、ようやく昨夜は嫌というほど飲む事が出来、そしてそのまま酔い潰れて今は眠っている。リームにとって今は幸せな時間なのだ。それを僕の都合で邪魔したくはない。
 そういう訳で。僕は明け方前からこうして孤独な戦いを続けているのである。
「う……駄目だ」
 僕はもう一度ベッドから起き上がり、テーブルの上のコップを持って洗面所の方へ向かった。そしてすぐさま蛇口から水をコップに汲んで一気に飲み干す。
 足りない。
 随分水ばかり飲み続けたせいでかなり胃が張ってきた。それでも喉の渇きは依然として衰えず、尚もヴァンパイアの血は熱く喉を焼き焦がす。
 僕は何度も何度も水を汲んでは飲んだ。いい加減に飲み過ぎて、喉の奥に逆流してきた水が迫りくるような錯覚に襲われ始めた。それでも渇きは一向に収まろうとはしない。
「ぐ……ううっ」
 渇きに耐えかね、僕は苛立ちに任せて洗面所の壁を激しく叩きつけた。ズンッ、という振動が虚しく辺りに響き渡る。それでも僕の渇きは収まらない。
 まいったなあ……。
 さすがに月齢十五日目の渇きは、いつも以上に強く根が深い。新月間近に起きたものであれば簡単に押さえ込む事は出来るのだけど、さすがに満月の日とあってはそう簡単にはいかない。
 もう少し、なんとか頑張ってみよう。そう自分を鼓舞してみるのだが、理性は極めて冷静にそれが如何に非現実的な選択であるかを判断して指摘する。それは確かに分かる。もっと最適な対処方法はちゃんと本能が教えてくれているのだ。
 けれど……。
 気が進まない。それは、まるで自分がリームを便利な血液の水筒のように使っているように思えて仕方がないのだ。今まで僕は一度もそんな事は考えた事はない。けれど、現にそれに近い行動を僕は取っていないだろうか? リームはあくまで僕のためにしてくれるのに、その好意を僕の方から裏切ってしまうような真似は絶対にしたくはない。これが、僕の人間としてのプライドなのだ。
 ―――と。
「グレイスぅ……?」
 突然、僕の背後からそんな掠れ声が聞こえてきた。ハッと振り返ると、そこには寝惚けた様子のリームが目を擦りながら立っていた。
「あ、おはよう。どうかした?」
「どうもなにも、うるさくて眠れない」
 僕が壁を叩いた事を言っているのだ。苦し紛れにやったことなので、その音がリームの安眠を妨害する所まで思慮が回らなかったようだ。
「ごめん。静かにするからさ、もうちょっと寝てていいよ。まだ早―――」
 と。
「わっ?」
 突然、リームは僕の襟元を掴むと、そのままズルズルとベッドの方へ引っ張っていく。
「まったく、なに遠慮してる訳?」
 不機嫌な溜息を混じらせながら、そそくさと上を脱ぎ始める。
 寝惚けてはいるようだが、リームはちゃんと僕の発作に気がついているようだ。そして僕がその事を黙って耐えていた事が気に入らないのか、ムッと非難めいた視線を遠慮なく送ってくる。僕はただきごちない苦笑いを浮かべながら受け応えるしかなかった。
「……ごめん」
「いいから。ほら、早く。苦しいんでしょ?」
 ずいっと自らの左首筋を差し出してくるリーム。僕はそっと身を屈めるとリームの両肩にそれぞれ自分の手を置き、ベッドに座るリームの左首筋に口を寄せて意識を自分の前歯の辺りに向けた。するとゆっくりと鋭い二本の牙が伸びていく。これはいわゆる吸血用の歯だ。ヴァンパイアは自分の意志で自由にこの鋭い歯を伸ばす事が出来るのである。
 優しく慎重に首筋へ牙を刺し込む。ぷつっ、と音を立てて牙が肌を貫通した。やがてそこからは新鮮な血液の味がじんわりと滲み出て来る。僕は溢れ出るその血液を、静かに吸い始めた。
「ん……」
 僅かにリームが声を漏らす。人に血液を吸われる違和感のためだ。やはり未だにこの感覚には慣れないのだろう。
 口の中に血液の味が広がる。僕の本能がずっと強く欲してきたものだ。同時に、先ほどまでの猛りがまるで嘘のように落ち着いていった。僕はその滑らかな口触りに、しばし酔いしれる。
「あのさ、グレイス」
 ふとリームが血液を吸い続けている僕の背中をポンと叩きながら口を開いた。
「そんな風に、変に気ィ使わなくてもいいからね。我慢されると逆にこっちが困るからさ。欲しい時は遠慮なく欲しいって言えばいいから」
 僕はまだ吸う事をやめられなかったので、牙を立てたままそっとうなづいた。
「ま、あんまり悪い気はしないけど」
 どこか照れ臭そうなリーム。リームは人のそういう心遣いは苦手なのだ。良い事をしても、お礼を真っ向から言われるのが苦手なタイプなのである。
 いつもこうやってリームは嫌な顔一つせずに僕に血を飲ませてくれる。本来なら、ヴァンパイアは人間とは敵対関係にある存在だ。それなのに、自ら進んで僕の発作を鎮めるためにリームは少しも惜しまず血を飲ませてくれる。これがどれだけありがたいことなのか、僕は言葉も見つからないほど心から感謝をしている。
 でも。
 気を使うな、って言うけど、だからこそ僕は逆に気を使ってしまうんだよなあ……。