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 あれからどれぐらいの時間が経ったのだろう?
 そう思って柱時計を見上げてみれば、先ほど確認した時から十分と経過していない。僕は視線を時計から戻し、そしてまたイスに座る。
 落ち着きがない。
 自分でも痛いほどそれが分かった。けれど何かせずにはいられなかった。紛らわそうにも、ただじっとしているだけでは紛らわす事の出来ないほどの色濃い不安が胸にこびりついて離れない。僕はそれを何としても紛らわそうとあれから何度も立ち上がっては座るのを繰り返し、意味もなく店の中をうろうろと歩き回る。
 そしてリームは。
「ヒュッ……」
 安定した軸足で体のバランスを支え、左足を足元から頭上ほどの高さまで綺麗な弧を描きながら振り上げ、その位置で時間が止まってしまったかのようにピタッと静止させる。柔軟な関節と安定した身体バランス、そしてしなやかな筋肉から生み出されるハイキックだ。鍛え上げられた格闘師の技の美しいキレは、傍目にはまるである種の芸術作品のようにすら思われる。
 けれど、今のリームの動きは普段の精彩さを明らかに欠いている。大抵の人にはその差は分からないかもしれないが、普段からリームの一挙一動を見ている僕には歴然としている。リームも僕と同様、深い不安を拭いきれていないのだ。毅然とした表情を装っていても、気持ちの乱れがそのまま動作に反映されているのだ。僕が不安と苛立ちをうろうろしながら紛らわせているように、リームは演舞を行う事でそれを紛らわせている。だがそれは、自分の型を見直して正しい姿勢に修正するという本来の目的からは大きく外れた、どこか八つ当たりのような荒々しいものだ。
 左足が振り下ろされるのと入れ違いに今度は右足が振り上げられ、一瞬リームの体が僅かに宙に浮く。けれどその着地は、ふわりと鳥が舞い降りたような驚くほど静かなものだ。格闘師は全身を鍛え上げるとよく聞くが、それは単に筋力や瞬発力を鍛えるのではなく全身を思いのままに動かすことを全一的な目的としたものだ。文字通り、リームは着地までをも自分の思いのままとしている。同じことを僕がやっても、バタンバタンとただ騒がしいだけだ。
 ヒュッ、と空気を切り裂く鋭い音を立てながら、突き、蹴り、と連続して、それも静かに踊るように繰り出されていく。それは段々と勢いを増し、ただの演舞から仮想の相手を想定して行うシャドーに途中から変わっていった。ゆるやかな演舞だけでは抑えきれないほどの苛立ちが込み上げてきたからだろう。
 そして。
「はあ……やっぱ駄目だわ」
 ある時を境に、急にピタリとリームは動きを止めた。
「酷いもんだったでしょ?」
 僕の方へ視線を向けて微苦笑を浮かべながら肩をすくめる。
「ちょっとね。でも、仕方ないよ。あんな事があったんだし」
 それは丁度昼下がりの事。僕達は今後ブレイザー一家がどのような攻撃を仕掛けてくる可能性が高いのか、それについての予測と対策について話し合っていた。その時、ふと村の青年が血相を変えて店に飛び込んできたのである。青年の話によれば、今朝方出て行ったゴードン氏がブレイザー一家に襲われて重傷を負い、療養所に運ばれたという知らせだった。すぐさまアニスはその青年と共に療養所に向かい、僕達は店を開けっ放しにする訳にも行かずこうして留守番をしているのである。
 あれから、既に一時間以上が経過している。もう何度時計を見上げたのか忘れてしまうぐらい繰り返したため、首がこってきてしまった。けれどその間も、一度としてゴードン氏の状態を伝える知らせはやってこない。そのことがよりいっそうの不安を僕達に与えてきた。
「情けないわ、正直。こんなことぐらいで気持ちが揺らぐなんてね。格闘家たるもの、精神は如何なる波風にも怯まない鉄のようにあれ。私もまだまだ未熟ね」
 そう自分自身を嘲笑うかのように溜息をつくリーム。普段は過剰とも思える自信に満ち溢れているだけに、こういった姿を見せる時のリームは小柄な体がことさら小さく見えてしまう。
「ああ、もう。また湿っぽくなった。やっぱり黙ってると駄目だわ」
「うん、そうだね」
「ウンソウダネ、じゃなくて。そこで完結するなっての。話を広げなさい」
 リームがにゅっと手を伸ばし、僕の鼻を摘んでギリギリと引っ張る。リンゴを握り潰さずに果汁だけを搾り取れるほどの握力のあるリームだ。僕の鼻は、たとえリームが指を二本しか使っていないとしても、たちまち悲鳴を上げてしまう。
 とりあえず、虚勢だけの元気ぐらいは取り戻したようだけど……。
「じゃあ、ゴードンさんの事について考えようよ。ブレイザー一家がどういう手段を使ったのか、とかさ」
 なんとかリームに鼻を放してもらい、そう場を仕切り直す。
 ゴードン氏の体格は、それこそ猛獣である熊を連想させるほどの大柄でたくましいものだ。そして性格も体格通りの豪放さと切符の良さを兼ね備え、広く人望を集め多くから頼られそうな人徳を持っている。更に、自分の気に入らない事に対しては頑固に毅然と立ち向かい、少なくとも少々の暴力如きでは決して屈服しない意思の強さと闘争心をも秘めた勇猛な人物だ。考えれば考えるほど、リームに不思議なほど良く似た性格である。
 そんなゴードン氏を療養所送りしたという事は。
 まず、たった二、三人ほどでやったとは考えにくい。大抵の人間だったら、あのゴードン氏ならば逆にあっという間に返り討ちにされてしまうだろう。気の弱い人間などは、あの目で見据えられて怒鳴られるだけで戦意を喪失してしまうだろう。
「数を集めて、武器とかも携帯してやったのだとは思う」
「まあ、チキンがやりそうなことね」
 だからこそ、ブレイザー一家は複数人、最低でも十人以上の人数を集めてゴードン氏を襲撃したと考えられる。多対一も、幾ら実力差があるとはいえそこまでくれば、さすがのゴードン氏も奇しくも屈服せざるを得なかったに違いないだろう。
 だが、
「……でもさ」
「なに?」
「もしそうだったら、どうして今なんだろう、と」
 しかし、人数を集めてゴードン氏を襲撃したという推測には少し違和感がある。理論上可能ではあるものの、もしもそれが出来たならばとっくにブレイザー一家はやっていたはずだ。単にこれまでは穏便に済ませようとしていたから、と言われてしまえばそれまでだが、それだけではどうにも腑に落ちない部分がある。これはおそらく理屈云々ではなく、月齢十六日目の研ぎ澄まされた直感がそう警鐘を鳴らしているのだろう。
「まあ、確かに。連中の兵隊も、ボコにしたのはちょっぴりだし」
「数を集めるだけなら、たとえ昨日全員が当分歩けない状態にされてしまったとしても、ちょっとお金をばら撒けばいいものね。多分、そう考えて間違いないと思う」
「んじゃ、後おかしいのは。どうして真昼間から、って事ね」
 そうだ。
 普通に考えてみれば、誰かを集団で私刑にするならば人目を避けるはずだ。その時の詳しい状況は分からないので何とも言えないが、少なくともこんな白昼から堂々と行うとは考えにくい。幾ら治安組織を買収しているとは言え、押さえ込むにも限界はある。そんなリスクを背負って、何故踏み切ったのか。そこには別の何らかなリターンがあると考えるのは、僕の考え過ぎなのだろうか?
「リーム、実はさ何かさっきから嫌な予感がするんだ」
「予感? 今、十六日目だよね。ってことは、勘違いとか考え過ぎって訳ではなさそうね」
「僕達、本当にここで待っていていいのかな? 何かそんな予感がするんだ」
 満月前後の僕は非常に直感力が鋭くなる。初めリームは根拠がなさ過ぎるとあまり信用していなかったが、その直感が後に間違いではなかった事を何度も示してしまうとさすがに信じざるを得なくなる。今では僕の直感は理論だった予測と同程度の重要な意見として扱っている。これによって危険を幾つか回避できた事もあるからだ。
「じゃあどうするの? 闇雲に出歩く訳にもいかないでしょう?」
「うん……そこが問題なんだよね」
 確かに僕の直感は危険である事を僕に示唆している。けれどそれが何であるかを明確に示してくれない。それでは、そのまだ見ぬ危険に対して僕達はどういった行動を起こせばいいのかも分からない。あまりに漠然とし過ぎている危険への胸騒ぎ。この中途半端に鋭い直感力を思うように生かせない事が酷く口惜しく思えた。
「しゃーない。うだうだ言っても始まらないわ。こうなったら、思い切って交代で村を巡回しない? 分断するのは危ないけどさ、このままこうしてて取り返しのつかない事になったらヤバイしさ」
「うん、そうだね」
 分断するのは決して得策ではない。僕達は戦闘に関してはプロだが、人間である事に代わりはない。うっかり不意をつかれてしまったら、どれだけ強力な魔術を使えようともまるで意味をなさない。二人でいれば互いの気持ちの隙をフォローし合う事が出来る。だが分断するというのは、その安全性を捨てるという事に他ならない。これがどれだけ今の状況において危険なのかは重々承知だ。それでも、何らかの危険が迫っているこの状況で何もせずにじっとしているほど、リームはともかく、僕もそこまでのんびりとした性格ではない。
「じゃあ、僕が先に行って来るよ。村を一周してきたら、また戻ってくるから」
「了解。くれぐれも気をつけてね」
「うん。ありがと」
 短い別れを告げ、僕は店の外へ向かう。
 と―――。
「だ、誰か……」
 その時、よろよろと入り口から人が現れた。見た所この村に住む青年のようだが、何故か全身の至る所に酷いケガをしている。頭にも幾つか裂傷があり、流れる血で顔や首筋、服も肩の辺りまでが赤茶に染まっている。
 とても歩いていいような状態ではない。しかし、それでも青年はよろめきながらも自分の足で歩こうとしている。
「だ、大丈夫ですか!?」
 とにもかくにも、思わず僕は彼に駆け寄ってよろけそうなその体に肩を貸した。
「ア、アンタらは……?」
「僕達はゴードンさんに雇われたバウンサーですけど、一体どうしたんですか? こんなに酷いケガをして」
「大変なんだ! ゴードンさんがブレイザーのヤツらに襲われて、今、療養所に運ばれたんだ! それを伝えようと急いでいたんだが、途中で俺もブレイザーのヤツらにやられちまって……」
 ……え?
 と、僕は青年の口から発せられた言葉に、思わずきょとんと一瞬呆けてしまった。
 その事ならば、随分前に別な人が使いにやってきて僕達に伝えた。そしてアニスが一緒に療養所に向かって行った。しかし今、この傷だらけの彼はあの青年と同じ事を伝えにここへこうしてやってきた。途中で妨害に遭って到着が遅れてしまったようだが、様子からすると使いはまるで自分一人であると言わんばかりのようだ。
 今まで漠然としていた不安感が急に明確になり、寒気となって背筋を走る。同時に髪が逆立つような危機感があふれて来た。このおかしな入れ違い。自然に起こったとはとても考えにくい。これらの状況から総じて推測出来る真実は……。
「それじゃあ……」
 浮かび上がった一つの結論。僕は唖然として思わずリームの方を向いた。リームは苦虫を噛み潰したような渋い表情を浮かべてこっくりとうなづく。
 そして、
「謀られた!」