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「あ……そうだ」
 太陽も大分傾いた。僕達は薄っすらと橙が差してきたトリト街道をひた走っていたが、未だブレイザー一家の集団は見えてこない。
 と、そんな時。ふと僕はあることを思い出し、走りながらそう声を漏らした。
「ん? どうかした?」
 僕の傍らを、僕の足に合わせて走っているリームが問い返す。
「ゴードンさんにもう少し詳しく事情を聞いておくんだった、と思って。ほら、向こうがどういう見積もりで待っているのかを把握していた方が、僕達も前もって対策を講じておきやすい訳だし」
「別にいいんじゃないの? 悪党の考えることぐらい分かりそうなモンよ。大方おっちゃんに、『チビッコを返して欲しかったら店をよこせ』って言ったに決まってるわ」
「……まあ、大体はそうだね」
 やや表現がリーム思考になっているが、状況はそれでほぼ間違いはないだろう。ブレイザー一家の最終目的は、この村の営利の独占だった。そしてその最後の抵抗勢力がゴードン氏の店である。だがゴードン氏はがんとして明け渡しを拒み続けたため、これまでのような膠着状態が続いた。そこに僕達がひょっこりと現れ、この状況をかき回した。その結果ブレイザー一家を刺激してしまい、あまつさえこんな最悪の状況を誘発してしまうことになった。ブレイザー一家はおそらくゴードン氏に、アニスと店の交換を要求してきたはずだ。基本的に立場が有利なのはブレイザー一家だ。ゴードン氏は、ああは言ったがこの要求を拒む事は出来ないだろう。対してブレイザー一家は、たとえこの交換が失敗しても後は幾らでもある。見せしめにアニスを……。そうしたところで、一切あしがつかないようにする事も可能だ。ゴードン氏にははっきりした損害はあるが、ブレイザー一家には全くないのである。これほど不利な状況はない。
 とにかく。なによりアニスの無事を優先させなければいけない。こんなことになってしまった原因は僕達にある。無理を言ってゴードン氏に引いてもらった手前もある。何が何でも成功させなくては。
「さて、どう出よっか? 正直言って私、こういう状況の駆け引きって苦手なんだけど」
「そうだね……とにかく、相手の動向を慎重に窺おう。むやみやたらに刺激させてはいけない。アニスの安全が最優先だ」
 向こうは、交渉にはゴードン氏が来るものだと思っている。僕達が来た時点で、ゴードン氏の意思はこれまでと同じ拒絶一辺倒であると思われかねない。だから僕達は、あくまでケガのために来る事が出来ないゴードン氏の代理という立場を明確にしなくてはいけない。要らぬ不安感を煽り警戒心を強めてしまっては、向こうが考えなしな行動に出ぬとも限らないのだ。
 僕達の取る最善の行動は。
 まず第一に、自分達がゴードン氏の代理である事を明確にし、戦闘意思が無いことを主張して出来る限り警戒されぬように努める。僕達だけならばいいが、ブレイザー一家にはアニスが人質に取られているのだからだ。
 そして。何とか話の流れからチャンスを見出し、アニスの身の安全を確保する。これが一番の問題だ。どういった交渉を行い、そしてどういった流れに持っていけばいいのか。アカデミーは、戦闘に関しては事細かく教えてくれたが、こういった状況での交渉術は全く教えてくれなかった。教本は図書室にあった訳だから、教えてくれなかった、と文句を言うのではなく自分で勉強しなくてはいけない事ではあるのだけど。今更ながら、その教本の一冊も目を通しておけば良かったと後悔する。
 考えてみれば、僕達はどちらも交渉に向いた性格をしていない。僕は普段は冷静に考えられるが、いざとなればすぐに緊張して頭の中が真っ白になってしまう。俗に言う本番に弱い性格だ。リームは緊張とはまるで無縁で、体だけでなく心も少しの事では揺らがぬように鍛えられている。だが、リームには交渉という事場の戦いのスキルはまるで持ち合わせていない。そもそも、『拳で語り合う』などと非常に難解な精神世界で生きているような人だ。『戦わずして勝つ』的な軍師の資質とは無縁なのである。
 とにかく、僕が頑張るしかない。緊張さえしなければ、ある程度の交渉は僕でも出来る。それに相手の目的も明白になっているのだ。さして複雑な事態ではない。
 やがてトリト街道は緩やかな坂道にさしかかった。丁度山の急斜面を削って開いた道である。片側はどこまでも続く深い急斜面、もう一方は削った山肌が崩れないように石が敷き詰められている。こういった行動を制限されるような地形を僕達は極端に嫌う。たとえ仕事のないフリーの時でも、常に周囲の状況を観察しながら危険察知やその回避を自然に考えてしまうのである。そのため自由に動けない狭い場所などはどうしても居心地が悪く思ってしまう。危険が日常の一部になっているハンターやバウンサー特有の職業病だ。
 そして。
 村を出てから、走る事およそ感覚時間で十数分が経過した頃。街道の先に、まるで道を阻むかのように数名の人の集団が見えた。こんな時間に出発する旅人がいる訳でもないし、村に向かっているとしても旅人にしてはあまりに軽装だ。ほぼ間違いなくブレイザー一家の集団だ。
「グレイス、あれ」
「うん……いよいよだね」
 僕達は集団からおよそ十メートルほどの間隔を取って立ち止まった。
 集団はジロリと僕達を見つめるも、すぐに顔色が警戒心に変わっていく。見ればほとんどの面子が、昨日リームが店で立ち会った人間だった。少なくともリームの実力の片鱗は目の当たりにしているだけに、幾ら数で優勢だとしても気軽に構えていられるだけの余裕はないのだろう。
 周囲を見渡せばそこにいるのはどれもブレイザー一家の末端ばかりで、アニスの姿はどこにも見当たらない。もしかするとこの場ではなく、どこか別の場所に閉じ込められているのだろうか? そうなると、少々事態は厄介だが……。
「ゴードンはどうした?」
 と。
 集団の中心が静かに割れ、そこから街道には不似合いなほど身奇麗ないでたちをした一人の男が歩み寄る。彼の顔は僕も良く知っている。ブレイザー一家を束ねるボス、ダルヴ氏だ。その落ち着き払った態度、昨日はいかにもボスらしい風格があると感心したが、今では単なる苛立ちを煽るだけでしかない。
「ゴードンさんはケガが酷くて来れません。それで、僕達が代理として来ました」
 自分達がやったくせに。
 あまりに白々しいダルヴ氏の言葉に、思わず僕はそう憤った。けれどここで感情的になってしまっては、アニスの身の安全が保証できなくなる。僕は何とかぐっとこらえる。
 傍らに立つリームからは、胸の中に抱いているであろう燃え盛る炎のような怒りがひしひしと感じられた。それをぐっとこらえるリームの忍耐力は、昼過ぎの暴れようからは想像も出来ないほど力強い。リームもこうして我慢しているのだから、僕だけキレる訳にもいかない。
「ほう? だそうですが」
 ふと、その時。ダルヴ氏は僕達の返答にやや意外そうな表情をしながらも口元には余裕たっぷりの薄ら笑みを浮かべて、そう背後へ問い掛ける。
 あれ?
 なにやら他に誰かが居るかのような様子だ。ブレイザー一家は、資金力のあるダルヴ氏が荒くれ者を集めた集団だったはず。ダルヴ氏が特別目をかけているような人間はいなかったはずだ。けれど今の口振りからして、どうもダルヴ氏と同等かそれ以上の格を持った別の誰かがいるような雰囲気だ。この状況で改まって呼び出されるなんて、それは一体誰なのだろう? 月齢十六日と半の、依然として鋭い僕の感覚が俄かに警鐘を鳴らし始める。
「ふむ。足は傷つけなかったのだがな」
 そう言いながら現れたのは、一人の中年の男だった。
 男はやけに背が高く、そして体型は細く引き締まっている。身長もさることながら、体格に応じて手足も人より遥かに長く見える。そのひょろ長い姿は、どこか蟷螂を連想させる風貌だ。
 そんなことよりも。今、大事なのはこの男が誰かではなくアニスの無事だ。僕は思考を切り替え、一度深く息を吸い込んだ上でゆっくりと問い掛ける。
「アニスはどこですか? まず安全を確認したいのですが」
 するとダルヴ氏は、傍らの一人に顎で指示をする。すぐさま手下は後ろへ下がっていった。そして、
「グレイスさん!?」
 アニスの声。
 先ほどの手下はすぐにアニスを連れて場に戻ってきた。今にもこちらに駆け出そうとせんばかりのアニス。だが手下にうしろからがっちりと肩を掴まれて動く事が出来ない。
 見た所、アニスはいたって無事なようだ。目立った痣もなく、まさかとは思ったが着衣にも乱れはないし、店を出て行った時のままだ。なんとかこのまま連れて帰る事ができれば、僕達の目標は達成出来るのだけど。この状況ではそう簡単にそれを許してくれそうもない。
「もう大丈夫だから。心配しなくていいよ」
 僕は心の奥で不安がっているであろうアニスを安心させるため、緊迫したこの場には不似合いなほど優しい口調でそう語りかける。アニスは健気にもこっくりとうなづき返した。アニスの気丈さを知ったのは今に始まった事ではないが、今は感心するよりも心痛さの方が遥かに強く感じられた。
「さて、後は任せてもらって構わないな?」
「どうぞ」
 と。あの蟷螂のような男が、そうダルヴ氏に問い掛けた。するとダルヴ氏は現場の指揮権をあっさりと放棄して自分は悠然と後ろに下がってしまった。まるでこの男の方が立場が上かのような態度だ。この男は一体何者なのだろうか? 考えれば考えるほど僕の直感が鳴らす警鐘の勢いが増してゆく。
「あの男、確かゴードンとか言ったな? もしかしてお前らが引き止めてきたのか?」
「いえ、違います。ゴードンさんはケガの具合が―――」
「嘘だな」
 男は僕の言葉の途中に自らの言葉を被せ、きっぱりとそう言い切る。どこにもそう言える根拠はないはずなのだけどその言葉には思わず黙らされる説得力があり、僕は口をつぐんでしまう。
 こうもはっきりと嘘と言い切れるという事は……。
 考えられる結論は一つである。少し考えれば分かる事だが、僕は更なる怒りに震え始めた自分を抑えるだけで精一杯だった。
「あなたですか……? ゴードンさんを」
「その通りだ。ヤツの足は一切傷をつけなかった。まあ、腕は軽く折ってやったがな。だが決して歩けないケガではない」
 と、傍らに立っていたリームが突然、前に勢い良く踏み出した。僕はすぐに手を伸ばしてリームをその場に制する。リームは僅かに振り払うべきか否かを逡巡するが、何とか思い留まって一歩後退した。
 先ほども口走っていたが。ゴードン氏のケガの度合いを明確に知っている医者以外の人間と言ったら、その加害者しかいない。ならばこの男がその加害者と結びつくのは当然の事だ。
 それにしても、こうも抜け抜けと何の躊躇いもなく答える男の態度。僕はまたもや怒りが深まるのを感じずにはいられなかった。リームだって、これ以上は感情を抑えきれないだろう。それは生来の性格とか忍耐力云々の問題ではない。彼の行為を同じ人として容認出来るか否かだ。
 そして。
「お前らはゴードンに雇われたバウンサーらしいが。ゴードンが来ない事は少々予定外だったが、まだ誤差の範囲内だ」
 そう男は蟷螂のような面長の顔に含み笑いを浮かべる。
 え?
 男が続けた意外な言葉に、僕はふと一瞬、これまで抱いていた胸中の怒りを忘れてしまった。
 ゴードン氏が来なかった時点で、かなりブレイザー一家の思惑は外れるはずなのに。どうして僕達だけが来た事が誤差の範囲内なのだろう?
 だが男は困惑する僕に気づいてかどうかは分からないが、更に今の発言について説明を続ける。
「実は私もバウンサーでね。クライアントがお前達にたいそうお怒りなのだよ。それで、再起不能にしてもらいたい、と仰せつかったのだよ」
 彼の言うクライアントとは、他でもないこのダルヴ氏だ。ダルヴ氏は僕達が戦闘のプロであるため自分達では太刀打ちできないと判断し、こうして同じく戦闘のプロを雇ったという事か。ならば、ゴードン氏を打ちのめし回りくどい手でアニスをさらったのも、目的は店の権利ではなく僕達だった……?
 まずい。
 僕の怒りは、すぐに焦りへと変わった。僕達はここに、ゴードン氏の代わりにアニスを救出に来た。しかし、ブレイザー一家の目的がゴードン氏の店ではなく僕達自身となってしまった以上、その場合について考えていなかった僕達は遥かに不利になる。精神的な気構えがないのだ。思惑が外れるのは、夜間の不意打ちよりもタチが悪い。それにもし、このまま戦闘に陥ってしまったら。アニスがその巻き添えを食ってしまう可能性は非常に高い。勝ち負けの問題よりも、如何にアニスを無傷で連れ帰るか、それの方が遥かに難しい問題だ。
 ――――と。
「ふうん、面白いじゃない」
 いつの間にか、リームは考え込んでいた僕の隙を突いてゆっくり前に歩み出た。その様子は怒り心頭で我を忘れているというものではなく、怒りこそ感じているもののその闘志は静かにかつ熱く燃え滾っている。大事な試合を目前にした格闘師の姿そのものだ。
「つまりアンタは、この私に挑戦状出した、って思って良い訳ね?」
「その通りだ。もっとも、私は二人同時で構わないのだが」
「面白いじゃない。後悔させてやるわ」
 リームは怒りの入り混じった微笑を浮かべ、ゆっくりと構えに入る。体を相手に対して半身に構え、左手は相手に対してなだらかに伸ばし、右手は軽く握り締めた状態で腰の当たりに添えている。これが、リームが生まれ育った実家の道場で教え込まれた、タチバナ流活殺術の構えである。
 が。
「ほう? これは驚いた。その型、タチバナ流だな」
 男は不意にそんな意外な言葉を放った。表情には僅かな驚きが浮かんでいる。
 続いて男も構えに入る。男もまた体を半身に構え、左手はなだらかに相手に向け、右手は軽く握り締めて腰に添える。
 その構えはリームと全く同じだった。基本的に他流派と全く同じ構えをする流派はこの世には存在しない。多少似通ったものはあるが、必ずどこかに相違点がある。僕自身はタチバナ流の格闘技はほとんど分からないが、その構えだけはしっかりと目に焼き付いているため、どれだけ似ている構えを見せられてもすぐに見分けがつく。だが、そんな僕の目にも男の構えはリームのタチバナ流と全く同じに映った。
「アンタ……それ」
 相手に自分と全く同じ構えをされ、さすがに驚きを隠せないリームの表情。だが男は、相変わらず悠然と笑みを浮かべていた。