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 ピーンと冷たく張り詰めた場の空気。
 今、僕とリームが目の当たりにさせられた出来事は、その空気に鋭い針の如く突き刺さった。いや、本当に突き刺さったのは場の空気というよりも、むしろ僕達自身の緊張した気持ちの方だ。
 ぐっと奥歯を噛み締めて、自らの動揺を押さえ込むリーム。その後ろで僕は、またもおろおろとこの目の前の事態を諦観している。そんなアカデミー時代から何の成長もない自分に深い自己嫌悪を感じずにはいられなかったが、頭では分かっていてもそこら中に飛び散った理性をかき集めて平静の自分を取り戻すのにはまだまだ時間がかかる。
 いつになく深い動揺と焦りの表情を浮かべているリーム。それに対し、あの謎の男は相変わらず悠然とした表情のままだ。
 そんな二人は、体格こそ違うものの、その構えはまるで鏡に写したかのように寸分違わずそっくり同じものだ。格闘技の流派には、似ているものはあっても全く同じ構えというものは存在しない。リームの流派はタチバナ流活殺術だ。ならば、それと全く同じ構えを取るこの男の流派も、同じタチバナ流活殺術だというのだろうか?
「ククク……まさかこんな所で同門に出くわすとはな」
 ニイ、とどこか嘲りを滲ませた表情に顔を歪ませる。蟷螂、もしくは爬虫類のそれを思わせる風貌に浮かべるその薄気味の悪い笑みは、よりいっそう男の顔立ちの特徴を際立たせる。
「じゃあ、やっぱり……」
「ああ、そうだ。俺もその昔、タチバナ流活殺術を学んだモンさ。もっとも、自分流にアレンジはしているがな」
 やはり、その構えが示す通り、男はリームと同じタチバナ流を会得していたようだ。だが、今のセリフはやけに『自分流』という部分を強調したように聞こえた。僕の気のせいではない。月齢十六日と半の研ぎ澄まされた僕の勘が、この男が良からぬ影を胸の中に抱いている事を敏感に嗅ぎ取る。
「お前、その歳でそこそこ出来るようだな。大したもんだぜ」
 と、男はまだ拳も交えていないのに、そう見透かした口調で呟く。すると、
「アンタもね。感じ悪いけど」
 同じようにリームも、男がしたような口調でそう言い返す。
 共に、ただのハッタリで相手を評価している訳ではない。こういった事はバウンサーをやっている僕達にとっては極々当たり前の出来事である。僕にも、両者ともプロフェッショナルと自称しても相応しいだけの実力者である事が、直接交えずとも十分に計る事が出来る。バウンサーにハンター、こういった戦闘の専門家は、カリキュラム的に習わずとも本能的な勘で相手の実力、特に同業者の実力については敏感に感じ取る事が出来るからだ。
 こういう世界で生きる人間にとって、相手の実力を測る事が出来る能力とは必ずなくてはいけないものだ。単に強いだけの人間ならこの世に幾らでもいる。しかし、その中には必ず勝者と敗者が存在する。それを分ける最大の要因は、相手の実力を正確に読み切れるかどうかだ。自分自身の力に慢心し、ろくに相手も見ず手当たり次第暴れるような戦いを繰り返す者は、この世界で長くはない。相手の実力を測れぬが故に油断を招き、不意を突かれてやられるのがもっともよくあるパターンだ。戦闘力は見た目には比例しない。それに気づけなかった故に命を落とす者には愚者の烙印が押される。非情だが、それが変える事の出来ない普遍的摂理だ。まさかこれほど強いとは思わなかった。そんなものは理由にはならず、気がついた時は既に手遅れ、そいつはその程度の実力だった、というだけの事として誰も見向きもしない。そういった意味も踏まえ、僕達のような世界を生きる人間にとって相手の実力を測る能力とはなくてはならない重要なものなのだ。自分より強い相手とはまともにやり合わないだけでも、相当寿命は延びるのだから。
「お前は修行を始めて何年になる?」
「道場が十年、後はアカデミーと自力。アンタは?」
「俺は数年そこそこだな。後はずっと我流でやってきたんでな」
 リームの実家は、件のタチバナ流の道場である。リームのファミリーネームがタチバナなのもそこからついているのだ。
 リームはアカデミーでは格闘技学科に籍を置いていたが、それ以前は実家の道場で毎日鍛えていたそうだ。そのためか、アカデミーに入ったばかりの頃から既に同じ学科でリームにかなう人間は一人としていなかった。僅か一ヶ月ほどで同学年を全て傘下に収めたとか吹聴されるほどの実力を、アカデミー入学前から既に持ち合わせていたのである。その実力は、無論実家の道場で厳しく我が身を鍛え上げていたからに他ならない。それらの辛い修行の数々がリームに絶対的な力と、そして折れない自信をもたらした。この二つがリームの行動力の源なのである。
「フン。言っておくけど、我流で極められるほどタチバナ流は甘くはないわよ」
 全くの我流で戦闘術を確立させている人はいるが、我流で既に完成された戦闘術を極めるというのは、たとえどれだけ天賦の才能に恵まれていたとしても不可能なのだ。流派にはそれぞれが根底とする思想と戦闘スタイル、つまり心技体の理想像というものが存在する。それらは流派の思想の根本を理解し奥義まで極めた者こそが辿り着く事の出来る場所であり、独自的な観点によって極めたとしてもそれは表面上を模倣したにしか過ぎない。表面的に理解しただけの者とその真意思想を理解した者では、突き一つにも明確な差が顕著に現れる。模倣する事と極める事。その差は天と地ほども大きいのだ。
 リームはアカデミーに入る前から実家の道場で毎日のように厳しい修行を続けてきていたが、アカデミーに入ってからも日々の修練を怠った事はない。リームの小柄な外見には似つかわない常識から大きく逸脱したその強さは、そういった日々の地道な訓練の積み重ねによって確立されたものだ。同じタチバナ流の使い手だとしても、リームほど自分に厳しく修行を続けて来た人間ならば決して負ける事はないと僕は思っている。相手が同じタチバナ流の使い手ならば尚更だ。真剣勝負の場合、精神的な強さは本当に意外なほど顕著に表れるのである。途中で放棄した者ときちんと奥伝まで修めた者では、その差は歴然と言えよう。
 だが。
「分かっているさ。だがな、俺が道場を辞めた理由は別にあったんでな」
 男はそう、見ていてあまり気分のいいものではない嫌味ったらしい表情を浮かべる。
「別な?」
 何かを含んだその表情に、リームはふと素の表情でそう問い返した。すると、
「なんて事はない。単に、タチバナ流に限界を感じたからさ」
 男はそう、悠然とした態度のままきっぱりと不敵に言い捨てた。
 途端にリームの顔色が青ざめる。普通、人は怒ると顔を紅潮させるものだが、その怒りがあまりに度が過ぎていて急激なものだと、逆に青ざめるのだ。昨日、ダルヴ氏も僕達を店に招待した際に起きたあの事件の時、これと同じ反応をしていた。これまで何人にも自らの誇りを傷つける事を許さなかったであろうそれに、僕達が堂々と正面から泥を浴びせかけたのだ。事の発端はともかく、その怒りは僕には想像もつかない。
 リームの怒りは、自らのタチバナ流を堂々とけなした男の発言によるものだった。リームはいつも、近い将来に自分が世界で最強の格闘師である事を示し、同時にタチバナ流活殺術が最強の流派である事を証明してみせる、と高らかに公言していた。それは嘘やハッタリではなく、リームにとって本当にリアルな将来の目標なのである。僕にしてみれば随分とスケールの大きい目標に聞こえるが、本人はそれでも大分現実に譲歩しているらしい。
 この純粋な目標に、男は真っ向から言葉をもって泥を浴びせた。リームは自分の信念にケチや言いがかりをつけられる事を極端に嫌う。それは自らの道が正しいものであると信じて突っ走る性格であるが故に仕方がないことだ。だけど、タチバナ流をろくに知らない僕にも、今の男の発言には思わず腹立だしさを感じずにはいられなかった。一体何を根拠にして、そうもあっさりと完成された一流派の限界が見えたなどと口にするのだろうか。どの流派も、たかだか数年修練した程度で神髄に辿り着けるほど生易しくはないというのに。
「ふざけんな! 数年で辞めたアンタにタチバナ流の何が分かるっていうのよ!」
 そしてリームは怒りのままに轟と吼えた。リームは自分自身をけなされる事については、ある程度の怒りは示すものの基本的には寛容な性格だ。しかし、タチバナ流に関してだけは本気で怒る。リームにとってタチバナ流は自らの体の一部とも呼べるほど大切で誇り高いものなのだ。その誇りを傷つける者に対しては、たとえ相手が誰でようとも容赦はしないのである。
「ほう? ならば、お前は分かるのか?」
「分かるわよ! タチバナ流活殺術の根本、それは生殺与奪! 正しい信念を先へ導き、全ての邪念は打ち砕くことこそが神髄! この仁の拳を極めるためには並々ならぬ修行の積み重ねが必要なんだからね! アンタのような早々に諦めるヤツなんかには到底極められないわよ!」
 それは、まさにこれまで地道な努力を重ね続けてきたリームだからこそがなしえる重みのある言葉だった。リームの私生活は思わず目を覆ってしまうほどだらしがない部分が見られるが、格闘技に関してはまるで別人のような厳しい姿勢がある。この謙虚かつ貪欲な姿勢が、今日の強さまでリームを導いたに他ならない。
「生殺与奪……フッ、笑止な事この上ない」
 だが、男は今のリームの言葉をまるで酔っ払いの意味のない罵詈雑言を聞き流すかのように一勝に付してしまう。
「いいか、この世には格闘術に限らずありとあらゆる戦闘術がある。だが、それら全て、その本質には一様に殺人のための術という現実を孕んでいる。人を生かす戦いなど、所詮はただの世迷いごとにしか過ぎぬ」
 戦闘術は、所詮人殺しの手段の一つにしか過ぎない。
 俺は好き勝手に生きたいから強くなった。そんな男のストレートな言葉が僕の胸を突き抜けていく。そんな事はない。守るための、救済のための力だってある。そう僕は反論したかったが、そこには男の歪んだ力への価値観を是正しようとする自分ではなく、男の言葉に何かしらの神髄の片鱗を見出してしまい動けなくなってしまった自分を見つけてしまう。そう、僕にははっきりとした理由をつけて男を論破する要素がなかったのである。
「じゃあ、アンタが見定めた神髄ってのは一体なによ?」
「天衣無縫。我を通し、我を貫く。己のために拳を揮い、己のためだけに戦う。これこそが真の戦闘術というものだ」
 天衣無縫。
 それが格闘の神髄と言わんばかりに、勝ち誇った表情で言い切る。所詮、お前のしている事はただのオママゴトの延長にしか過ぎない。力とは当てにならない第三者ではなく自分のためにつけるもの。自らのために身に付けた力を自らのために使う事が何故悪い? そんな男のドス黒い問いさえ聞こえてくるような気がした。
「そして俺は、自分の辿り着いた天衣無縫の境地を己の拳として昇華させた。これこそが、タチバナ流殺人術。元はあれだけの大口を叩く流派だけあり、なかなか使えるんでな。それを俺のやりやすいようにアレンジさせてもらった。ついでに名前も変えてな。どうだ? いっそこっちにした方がしっくりくるんじゃないのか? 名前の響きだけでなく、流派の本質も含めてな」
 真っ向からの嘲り。
 そんな侮辱に満ちた言葉を次々とリームは浴びせられた。自らの誇りであるタチバナ流を真っ向から否定する男の言葉と、そして男が作り出したタチバナ流とは正反対の思想を持つ、活殺術に対してわざと殺人術の冠を与えた亜流派。リームにとってこれ以上の侮辱は他にはないだろう。
 しかし、リームはただじっと黙り構えたままうつむき続けている。その姿に、僕は思わず悪寒が走るのを覚えた。そのおとなしいリームからは、これまでに見たこともないほどの色濃い殺気が凄まじい勢いで発せられていたからである。そのあまりの激しさに、僕はいつの間にか呼吸を忘れてしまうほど緊張していた。
「……キレたわ」
 ゆっくりと頭を上げて呟くリーム。その目は、まるで刃物のように鋭く冷たい光を放っている。
「アンタはタチバナ流の面汚しよ。私がオヤジに代わって、アンタをそのふざけた拳ごとこの世から消し去ってやる」
「オヤジ? お前、もしかすると道場の一人娘か?」
「……だったら何?」
「師匠殿はお元気か? もっとも、看板を継ぐであろう一人娘がバウンサーの真似事などをやっているようでは、そうでもないかな?」
 男の言葉に、僕はハッと息を飲んだ。
 その言葉は、たとえ僕であろうとも絶対に口にしてはいけない言葉だ。男が口にしたそれは、この世で最もリームの怒りを燃やす言葉であり、そして同時に傷つける言葉でもあるのだから。
 僕は何があったのかその詳細は幾らかは聞いている。リームの口からはっきりと聞かされた訳ではないが、大方こうであろうという推測はついている。リーム自身の父親や道場の行方。きっと普通では考えられない複雑で理不尽な事があったのだろう。未だにはっきりと話さない事を考えると、僕には想像もつかないよほどの事があったに違いない。だからリームにとってそれはまさに逆鱗そのものであり、知ってか知らずか、とにかく触れたものは皆等しくその怒りの矛先を向けられる。
「……すぐに、その減らず口」
 ギリッと怒りをあらわに奥歯を固く噛み締める。そして、
「二度と叩けなくしてやるわ!」
 と、リームが前へ大きく踏み込んだ。そのあまりの素早さに、僕にはまるでリームの体が瞬間移動でもしたかのように錯覚した。
 強靭な脚力から生み出された爆発的な推進力。リームは全く減速することなく、その勢いを全てを拳に乗せて繰り出した。
 バンッ!
 が。
 まるで空気がはじけるような音が辺りに響き渡る。
 リームの凄まじいその一撃を、男はいともあっさりと右腕でブロックしてしまった。アカデミー時代、既に熊や虎といった猛獣をあっさりと打ち倒してしまうほどの威力を誇っていたリームの正拳突き。しかし、それをたった右腕一本で受けていながらも男は顔色一つ変えてはいない。
「そう急く事もないだろう。じっくりと見せてくれ。その活殺術の極みがどれほどのものなのかを」
 ニヤリと不気味な笑みを浮かべる。相変わらずその表情には余裕の色がありありと浮かんでいる。全くリームの突きが利いていないようだ。実に信じ難い事にだ。リームの今の一撃はまるで手を抜いた様子のない、まさに全身全霊を込めた一撃だ。にもかかわらずダメージを全く与えられなかったという事は。相手の実力は想像している以上の凄まじいものなのだろうか?
 そう不安がる僕を尻目に、リームはショックを受けるどころかいよいよ激しく闘志を燃やし続けていた。自分の全力で放った一撃が利かなかった事などまるで気にも留めていないのか、一歩も後ろへ退く様子が見られない。まだ余力があるのか、それとも単に判断が出来ないほど我を忘れているのか。とにかく僕は、ただこうして見守るしかなかった。
「ああ、見せてやるわよ! 嫌っていうほどね!」