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 間髪入れず、すぐさまリームは第二撃目に移った。
 上半身を捻り、その螺旋エネルギーをそのまま下半身に伝えていく。そして流れるような右ハイキックを繰り出した。しかし、男もただボーっと構えている訳ではない。すぐにリームの蹴りに反応すると、素早くリームのそれとよく似た螺旋のステップを踏みながら上体を屈めた。その直後、まるで鞭のように足をしならせた足払いがリームの軸足に襲い掛かる。
 ハイキックのモーションから抜けきれていなかったリームは、軸にした左足一本で足払いを受けてしまったためあっさりと足を駆られてしまい、勢い余って体が宙に浮かぶ。
「チッ!」
 いともあっさりと技を返されてしまった事に、リームは忌々しげに舌打ちをした。体が宙に浮かんだ状態というのに怒る暇があるという事は、まだ余裕のある状況ではあるようだ。けれど僕には、思わず目を覆いたくなるような危険な状況にしか見えない。
「セイッ!」
 男は宙に浮かんだリームの体に目掛け、凄まじい勢いで正拳突を繰り出した。同時に、まるで地震が起こったかのような轟音が辺りに響く。よく見ると、男の踏み足を中心に地面に同心円状の亀裂が走っていた。
 まったく振りかぶらないで繰り出されたその突きは、モーション自体がこじんまりとしてあまり威力を感じさせない。しかし、問題はその踏み足だ。男は体の捻りとステップだけで、拳を振りかぶった時とほぼ同程度のエネルギーを生み出したのである。そのため、こんなジャブのように小さなモーションからも強烈なブロウを放つ事が出来るのである。
 僕はこの技術をよく知っている。何故ならばリームが、インファイトで全く同じ技を使っているのを何度も見た事があるからだ。僕には出来ないが、その原理は知っている。踏み足から螺旋エネルギーを生み出し、それを足首、膝、腿と増幅しながら伝えていき、最終的には莫大なエネルギーとして腕から繰り出すのである。リームはこれを『剄』と呼んでいた。やってみろ、と言われて木人に打ってみたら、リームのように木人が砕けるどころか逆に僕の手の骨にヒビが入ってしまった事を憶えている。
 まずい!
 僕は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。体が宙に浮いた状態では、幾らリームが強くとも直線的かつ貫通力のある正拳突を防ぐ手段はない。地面に立っているならば姿勢をずらしてかわす事も可能だが、空中にはそんな足がかりになるようなものはない。
 けれどリームの表情は、怒りこそありありと浮き出てはいるものの冷静さは全く失われてはいない。
 リームは冷静に男の攻撃を見極めると、それが自分の体を打ち抜く寸前に自らの腕を突き出し、そのまま男の腕に手を絡める。
「ッ!?」
 意外なその行動に男の表情が一瞬驚きに歪む。
 そしてリームは男の腕を掴んで自らの体を逆に引き寄せると、まるで蜘蛛のように男の腕に絡みついた。直後男の腕が伸び切り、螺旋ステップから生み出されたエネルギーが打ち出される。しかし、既にその先には目標としていたリームの体はなく、エネルギーは何もない中空を振動させるだけに留まった。
「―――遅いわ」
 男の腕に絡んだリームはすぐに自らのバネの力で空中姿勢を修正する。くるっと半円を描きながら、リームの左足が男の無防備な右側頭部に襲い掛かる。随分と強引な攻撃ではあるが、ボディバランスの良さと強靭なバネをフルに活用したその蹴りは、不自然な体勢ながらもまとまったダメージを与えるには十分過ぎるのほどの威力が乗せられている。
 本来、右からの攻撃を防ぐのは右腕の役目だ。だが、今その右腕は爆発的なエネルギーを打ち出した直後であるため完全に伸び切り、更にそこにリームの体が絡みついている。襲い掛かるリームの蹴りを防ぐ手段は男にはない。
 これで決まった。
 そう僕は拳を握り締めながら思った。リームの足が狙う側頭部は人間の急所の一つだ。こめかみ、耳、首といった鍛えにくく衝撃に脆い個所がそこには集中している。たとえ致命傷にならなくとも、体勢が悪いとはいえかなりの衝撃が頭を打ち抜くのだ。その衝撃は直接脳に伝わり、甚大なダメージを負わせる。衝撃を受けた脳は、最低でもしばしの間機能を失う。同時に三半規管もマヒし、場合によっては立っている事すらかなわなくなってしまう。いわゆる脳震盪と呼ばれる状態だ。
 男の実力は、確かに終始不敵な態度を取り続けてきただけのものはある。しかし、同じタチバナ流―――いや、似たタチバナ流の使い手ではあってもリームの方が上手だったようだ。
 が。
「うらあっ!」
 リームの蹴りが男を打ち抜くと思われた瞬間、突如男の体が激しく旋廻した。凄まじい遠心力がかかり、腕に絡み付いていたリームの体はそのまま宙に投げ出される。けれどリームは宙で一回転すると、あっさり地面に着地した。
 一体何が起こったのだろうか? 確かに男にはリームの攻撃を防ぐ手段などなかったはずなのに。とりあえず、無事戦闘は仕切り直しになった。男はどうだか知らないが、リームにはまったくダメージはないようだ。
「ふうん、そう来るの」
 相変わらず不機嫌そうな態度でリームは男をねめつける。油断なくタチバナ流の型を取りながら、全ての神経は男の一挙一動に注がれている。
「……ちょこまかと」
 男はゆっくりと振り返り、こちらを向く。
 先ほどまで余裕に満ちていた不敵な表情はすっかり消え失せ、代わりに苛立ちと微かな怒りの色が浮かんでいた。おそらく、リームがここまでやりづらい相手とは思ってもいなかったのだろう。おそらく、身のこなしはリームの方が遥かに上だ。そのため男の攻撃は幾ら破壊力で上まろうとも当てる事が出来なければ意味はない。相手にダメージを与えるには、何も極端な攻撃力の高さは必要はなく、相手の防御を打ち破る程度があればいい。一撃で倒せるほどの威力を持ちながら当てにくい攻撃よりも、多少は威力が劣っていようとも当てやすい方が遥かに実用性がある。
 男の体捌きには、確かにリームのタチバナ流活殺術を髣髴とさせる点が随所に見られた。しかし、どこかリームのそれとは違う違和感がある。具体的な言葉で表す事は難しいが、なんというか、たとえるならばリームの体術は伸び伸びとした何者にも捕らわれない自由な感じがするのだが、男のそれは何か一つの事に固執したどんよりとしたものだ。これがいわゆる、活殺術と殺人術の違いなのだろう。
「なかなかいい判断だったけど。腕、大丈夫?」
 リームは淡々とした口調で男を気遣う言葉を放った。無論、本当に気づかっているのではなく、皮肉的な意味で用いたのだ。
 腕?
 その指摘に男の腕をよく見ると、男の右腕はだらんと力をなくして垂れ下がっている。まるで折れてしまったかのように僕の目には見えた。幸いにも、これまでの人生の中で完全な骨折を体験した事はなかったが、実際に骨が折れるとあのようになるという事は知識だけでは聞いた事がある。
 もしかするとあれは、リームが振り放される時になんらかの攻撃を残していったせいかもしれない。関節を狙って負荷を置き土産にかけていけば、それぐらいの事は実に用意に出来るはずだ。もちろん、それに伴うだけの技術は必要ではあるが。
「心配には及ばない」
 と、男は軽く右肩をむずがらせると、ゴキン、という音が肩から聞こえてきた。どうやら腕は折れていたのではなく、ただ関節が抜けていただけのようだ。とはいっても、それは脱臼と同じ事だ。脱臼は時に尋常ならぬ痛みを伴わされる事がある。中には骨を折ったほうがまだマシだと言う人さえいるぐらいだ。男は単に脱臼には慣れているのか、もしくは痛みを精神力で押さえ込んでいるのか。どちらにせよ、何気なしに関節を嵌めたその仕草には、どこかぞっとするものを感じた。
「次は殺す」
 男はそう宣言し、ドン、と地面を踏み鳴らす。良く見ると、既にそこには正拳突以外で弧の形にえぐられた跡が出来ていた。おそらく、先ほど急に男の体が旋廻したのは、同じ螺旋ステップを応用して無理やり自分の体を回したためだろう。そして、結果的に無理な体勢を取って肩に負担がかかったのとリームの置き土産のせいで関節が抜けてしまったのだ。
 これまでにない、濃密な殺気が辺りを包み込む。リームと、そして男のものだ。
 既に男にはこれまでのような余裕が消え失せていた。もはや様子見や戯れを続ける意思は一切感じられず、ただリームを殺す事だけに精神を集中している。リームを見つめるその冷たくも粘着質な視線は、やはり男の風貌と相まって爬虫類のそれを連想させた。
「上等じゃない」
 まるで男に返事を返すかのように、同じくリームも地面を踏み鳴らす。その小さな体を中心に、まるで地鳴りのような衝撃が同心円状に広がっていき、消える。
「アンタさ、自分の使いやすいようにアレンジした、って言ったわね」
 ふとリームは、油断なく構えたままそう男に問い掛けた。
「そうだ。オリジナルのタチバナ流は、必勝を現実的な問題と考えるといささか頼りないのでな」
 男の使う技は、オリジナルである流派、タチバナ流活殺術を独自にアレンジした亜流、タチバナ流殺人拳だ。男は天衣無縫という言葉を何度も繰り返していた。まさに自分が好き勝手生きるためにこの亜流派は生み出されたのだろう。それはまさしく天衣無縫の象徴であり、タチバナ流活殺術に反旗を翻す邪拳だ。
「じゃあ、アンタの負けね」
 と、急にリームは何の脈絡もなくそう言い放った。
 気がつくと、リームから先ほどまでの活火山のような激しい怒りが消え失せていた。集中力がよりいっそう鋭く研ぎ澄まされ、溢れんばかりの闘志は静かにふつふつと熱く煮えたぎっている。
「なんだと? フッ、一体何を根拠に―――」
「うるさい、黙れ」
 僅かに声を上擦らせる男。だがリームは静かながら凄みのある口調でそれを黙らせる。
「アンタはね、技を磨く事を怠って騙りに走ったのよ。こうした方が効率的だから? こっちの方が強いから? 笑わせるわね。単に一つの技を極めるために努力するのがメンドイから、独自改良って言い訳して楽な道を作り、自分に都合よく作った技を極めたフリをしてるだけじゃない。はっきり言うけど、それはただの逃げよ」
 まるで別人のように落ち着いたリームの口調。それとは対照的に、あんなに余裕に満ちていた男から笑みは消え失せ、逆に焦りの色がありありと浮かび始めている。
「分かるのよね、そういうの。ちょっと拳交えただけで。悪いけど、アンタは私の敵じゃないわ。これ以上はやるだけ無駄よ」
 そして、今度はリームの方が不敵な笑みを浮かべた。
 遂に立場が逆転してしまった。あれだけ怒り一色に染まっていたリームは別人のように落ち着きを取り戻し、反対に男の方は冷静さを失い焦りの色をありありと浮かべている。たったあれだけの接触で、リームは相手の実力を根こそぎ感じ取ってしまったというのだろうか? だが僕にはリームの言葉が嘘やデタラメには思えなかった。何故だか理屈抜きで、リームの言葉に信憑性があるように思ったのだ。その自信は決して蛮勇ではない。本当に男の実力の全てを見透かしてしまったが故の余裕なのだ。
「恐怖で頭がおかしくなってしまったか? 現実を受け入れるんだな。お前の言う活殺術など、真の殺人拳の前では―――」
 なおも虚勢を張り続ける男。そう、僕にも男が明らかに動揺し虚勢を張らなければ平静を装えない状態に追い込まれてしまった事が手に取るように分かった。それは他ならぬ、リームの言葉が的を射ていたからである。  と。
「………え?」
 その時、男は違和感を感じてそっと鼻元へ指を伸ばす。そこからは真っ赤な血が一筋、流れ出していた。
「今のが見えた? 次は当てるわよ」
 狼狽する男を尻目に、リームはそう落ち着いていながらも迫力に満ちた口調でそう宣告する。
 男の鼻からは一筋の血が流れ出ていた。突然、今になって流れ出したのだ。だがリームは、それをまるで自分がしたかのようにああ言った。僕にはリームは先ほどから構えたまま何もしていないように思えるのだが。男の鼻血も、さっき接触した際に何かの拍子で鼻の中に傷を作ってしまっただけではないのだろうか?
「当てるだと? バカが。やれるものならやってみろ」
 男も僕と同じ事を考えていたらしく、血を手の甲で拭いながらリームの今の言葉をせせら笑う。
「そう。じゃあ、軽く」
 溜息混じりに答えるリーム。
 その刹那、
「ぐっ!?」
 突然、男の表情が苦痛に歪み、よろよろと二、三歩後ろへよろめいた。男の鼻からはまたもや、しかも今度は先ほどよりも遥かに勢い良く血がどろっと流れ始めた。
「今のは見えた?」
 唖然としている男に向かい、リームはただ相変わらずの調子でそう静かに訊ねる。
 今の攻撃は、本当にリームが行ったのだろうか? リームと男の距離はおよそ十メートル弱。どう考えても小柄なリームのリーチでは届く距離ではない。それに第一、リームは構えたまま全く動いていなかった。いつ男に攻撃を仕掛けたのかもまるで分からない。けれど分からなかったのは、見えない拳に打たれた男も一緒だ。まさかリームは、僕の目にすら止まらぬスピードで、十メートル向こうの男に何らかの攻撃を繰り出したというのだろうか?
「これでもまだ私は達してないわ。もしもアンタが相手にしてるのが私のオヤジだったら、今頃首から上がバラバラに飛び散っていたもの」
 信じられない。
 男はただただその言葉だけを顔に浮かべながら茫然としている。
「これが、努力の果てに神髄に辿り着くって事よ」