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 まるで穏やかな清流の流れを思わせるような、静かに構えているリーム。
 相対する男は、依然として同様を隠せない表情のまま構えを気力で維持し続けている。最初の時よりも幾分か落ち着きが失われ、どこか余裕の感じられない切迫した雰囲気が拭えない。
「い、一体、何を―――」
「何を? ただの正拳突よ」
「嘘をつくな! おい、後ろのお前! お前がなんか魔術でも使ったんだろう!?」
 そう男は焦りきった口調で僕に向かって叫ぶ。
 けれど、僕は彼の言うように戦いの途中で魔術など使っていない。それに僕はこれまでに、リームが一対一の戦いをする時は一度も手を挟んだ事はない。リームは、たとえ自分が不利だったとしても一対一の戦いで他の誰かに加勢される事を酷く嫌う。相手が一人で戦うならば、自分も一人で迎え撃つのが当然と考えているからだ。正々堂々、一対一で戦って勝利することで初めて自分の強さがより確かなものになるのだ。
 リームにとって決闘を始めとする対等な立場での勝負は、絶対不可侵にて非常に神聖なものだ。それを私利等で侵害するのは、たとえそれが僕であろうとも絶対に許さない。僕はそんなリームの価値観を理解しているので、途中で手を出すような真似は絶対にしない。それに、見た限りでは既に決着はついたも同然だ。この先も手出しする必要はなさそうだ。
「そんな訳ないでしょう? 第一やらせるんだったら、一発で首飛ばさせているわよ。もしそうだとしてもさ、それはそれでアンタの実力はそんなもんだった事にもなるし。まあ、それだけアンタとは格が違うってことよ」
 突然、目にも止まらぬ速さで男の顔を打ったあの衝撃は、どうやら本当にリームの正拳突によるもののようだ。しかし、この十メートル近い距離からどうやって攻撃を仕掛けたのだろうか? 単純に考えて、リームの腕の長さではその半分の距離でも攻撃を仕掛けるのは不可能だ。必ず先に間合いを詰める必要がある。だがリームは今構えている位置からは一歩も動くどころか、その姿勢のまま微動だにしていない。
 そういえば前にリームから『遠当て』という技の話を聞いた事がある。それは『氣』と呼ばれる魔力に似た特殊なエネルギーを手から放つ事で、離れた所から相手をまるで傍にいるかのように攻撃する事が出来るそうだ。魔術師である僕に詳細な仕組みは分からないけど、もしかするとそれを使ったのかもしれない。リームが全く動かなかったように見えたのも、それは単に動作が速すぎて目で捉えられなかっただけだろう。剣術で言う所の居合と同じだ。本気を出した時のリームの動きは、よほどの実力がなければ捉えられるものではない。少なくとも僕程度ではまず不可能だ。
「もう一回だけ言うけど、アンタは私の敵じゃないわ。これ以上はやるだけ無駄。弱い者イジメは趣味じゃないから、おとなしく帰って」
 そして、もう一度その言葉を男に向けて放つ。先ほどは、男はその言葉を根拠のない戯言だと一笑に付したが、さすがに今はそんな余裕のある表情は出来なかった。リームにはあまりの実力差を見せ付けられてしまったのだ。男はリームの繰り出した遠当てに対して一歩も動く事が出来なかった。遠当てはタチバナ流の修行の一環に習得は組み込まれているのだろうが、おそらく男はその域まで修めなかったのだろう。だからリームの攻撃の正体が何であるか分からず、防げないばかりか思わず動揺してしまったのだ。
「……フン。お前もバウンサーなら分かるだろう? 一度受けた依頼を放棄するのがどんな事なのかを」
 そうだ。
 男もまた、僕達と同様にクライアントに雇われたバウンサーだ。僕の雇い主は、そこに捕まっているアニス。男の雇い主はアニスを捕まえゴードン氏を負傷させたブレイザー一家のボスであるダルヴ氏だ。極論から言えば、僕達と彼の間にはいがみ合う理由はない。ただ、双方のクライアントがたまたま敵対関係にあった。それだけである。だが、一度雇われた以上、バウンサーに途中放棄は許されない。バウンサーは何があろうとも必ずクライアントとの契約を果たす義務がある。それを果たせないバウンサーには落伍者の烙印が押される。そして二度とバウンサーとしてやって行くことは出来ない。一度信用の失われたバウンサーを再び雇おうと考える人間は皆無と言っていいほどだからだ。
「バウンサー生命と、自分自身の命と、どっちが大事? 考えるまでもないと思うけど」
「……行くぞ」
 リームのその問いには答えず、今度は男の方から仕掛けた。
 ドン、という地響きを立てながら激しい踏み込みと共に、まるで矢のような勢いで男はリームに向かい突進していく。リームは静かに構えたまま、それを迎え撃つ。
「ソリャッ!」
 男は踏み込んだ勢いを乗せたまま軽く飛び上がると、細長い右足を伸ばし蹴りを放った。ごくスタンダードな型の飛び蹴りだ。けれど、飛び蹴りは単純な技でありながら決しておろそかに出来ない破壊力が秘められている。かつての世界的有名な格闘家の中で蹴り技の名手と謳われたある格闘師がいたが、彼の必殺技はその強靭な足腰から繰り出される飛び蹴りだった。その一撃の前には、どんなに打たれ強い相手でも一瞬の内に地面へ伏させてしまったそうだ。
 体格から考えると、小柄なリームよりも手足の長い男の方が有利である。特にそれは、こういった遠目からの差し込むような攻撃の際に強く生かされる。リーチの差とは自分の攻撃間合いの広さであり、実力者の攻撃間合いとはどんな状況からも攻撃が繰り出せる一種の結界だ。そしてそれが相手よりも広ければ、相手に対して一方的に攻撃する事が可能なのだ。
 だが。
「ふん」
 リームは表情一つ変える事無く冷静に男の蹴りを見定めると、スッと左手を縦に構える。そしてその腕で男の蹴りを迎え撃った。
 そのほっそりとした腕では、男の矢のような蹴りを受け止めるのは不可能のように思えた。打たれ強さというものには、人間の持つ肉体的な限界がある。それを上回る強さを持つ攻撃は、物理的に防ぐ事は不可能なのだ。
 しかし。
「ッ!?」
 男の蹴りはリームの腕に触れた瞬間、全ての威力を外側に弾かれた。
 物理的に防ぐ事は不可能だが、その回避法は幾らでもある。今のリームがした防御法は、相手の攻撃エネルギーを外にそらす防御だ。直線的な攻撃は貫通力はあるものの、その反面このように僅かな動きだけで外にそらされやすいのだ。
「ハイッ!」
 そして、無防備になった男の脇腹にリームの鋭いミドルキックが放たれる。リームの破壊力と自らの突進力を一度に受けた男の体は見事に吹っ飛んだ。
「くっ!」
 しかし、咄嗟にヒットポイントをずらしたのか、吹き飛ばされても男はすぐに立ち上がった。そして間髪入れずに再び攻撃を開始する。
 繰り出される男の鋭い突き。しかし、リームはその一撃をあえて真っ向から受け止める。男とって渾身の一撃であったはずのそれだが、リームはその衝撃の前にも微動だにしていない。
「やめなって。無駄に意地張ってもしょうがないでしょう?」
「もしも自分なら、そうする事が出来るのか?」
 逆にそう問い返され、リームは思わず微苦笑する。それは否定の意味だ。リームは一度決めた事に対しては満足が得られるまで一心不乱に突き進む性格だ。そんなリームが、幾ら状況が不利だからといって仕事を途中で放棄するような事を出来るはずがない。自分が出来ない事を相手に強要するのもおかしな話だ。
「もう手段を選んではいられないな。悔しいが、どうやら実力はお前の方が上のようだ」
 そして男は右足を上げてリームに向かって繰り出す。すぐさまリームはそれに反応し、両腕をクロスさせてその蹴りをブロックする。二人の体は蹴りの作用と反作用によって互いに後ろへ飛ばされる。
「分かってんなら、じゃあどうするっての? 私は情けはかけないわよ。はっきり言うけど、アンタの事は、アレの事ならもう醒めちゃってはいるけどさ、ムカついてる事に変わりはないからね」
「奇遇だな。俺も同じだ」
 と、男の口元が一瞬ニヤリと不敵に笑った。
 何かを狙っている。
 そんな男の意外な仕草に、咄嗟に僕はそう勘付いた。月齢十六日と半の研ぎ澄まされた感覚も、今の男の態度には何か危険なものを感じ取っている。男は真っ向から勝負しても勝ち目はない事を悟っている。それならば、おそらくこの状況を引っ繰り返す別な何かを仕掛けようと考えているはずだ。そうでなければ、この状況で笑みなど生まれるはずがない。
 男は再び爆音と共に踏み込むと、リームに向かって接近戦を挑む。
「飽きないわね。二度とタチバナ流を名乗らなければ許してやるつもりだったけど」
 次々と繰り出される突きと蹴り。捌きと攻撃が目まぐるしく移り変わり、僕はそれを辛うじて目で追うだけで精一杯だ。
 こんな事をしても、リームに勝てるはずがないのに。
 と。
 ……あ。
 その時、男はチラッと視線をリームから外し脇を見やった。
 僕は思わず息を飲んだ。これはあまりに致命的だ。リームほどの格闘師を相手にしての油断は、たとえ一瞬でも致命的な隙である。彼もまた、リームの実力を理解したのならばそのぐらいの事は分かるはずなのに、どうして自ら隙を作るような真似をするのだろうか? でも、そんな事を僕が問うても仕方がない。何にせよ、有利になったのはリームの方なのだから。
 予想通り、リームは深く腰を落として右手を構えた。決着をつけるための技、圧倒的な破壊力を持つタチバナ流の正拳突の体勢である。
 だが。
「キャッ!? 痛ッ!」
 不意に、そんな悲鳴が辺りの空気を切り裂いた。瞬間、驚いたリームの動きが止まる。
 ハッと向くと、肩を掴まれていたアニスが部下の男に腕を捻り上げられていた。小さなか細いアニスの腕は手下の無骨な腕に高々と捻り上げられ、その荒々しさに今にも千切れそうなほどである。
 今度はリームが隙を見せてしまっていた。それを男は逃さない。
「ハァッ!」
 男は半回転ほど体を捻り、左足で回し蹴りを放った。鮮やかな動作で放たれたその蹴りは綺麗にリームの体の中心を打ち抜く。
「リーム!」
 大きく後方へ吹き飛ばされるリーム。だが、すぐにリームは体勢を持ち直し、再び構える。一見するとダメージはないように見えた。けれど、不意を突かれた今の一撃で全くのノーダメージで済んだとは考えにくい。おそらくその受けたダメージを無理に抑えているのだろう。
「アンタ……」
「どうした? 急に隙だらけになったぞ」
 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるリームに対し、平然とせせら笑う男。その顔には以前の余裕が取り戻されていた。この勝負の勝利を確信したような表情だ。
 しまった。
 僕もまた、リームと同じ表情を浮かべずにはいられなかった。決闘の行方がリーム有利に進んでいた事ですっかり忘れていたが、男はあえて勝負を挑んできたものの、人質がある以上有利な立場にあるのはブレイザー一家の方なのだ。今回は目的を僕達を潰す事にしてはいるものの、ダルヴ氏にしてみればアニスがどうなろうと関係はなく、そして鬱陶しいバウンサーである僕達が共にいなくなればメリットだらけなのだ。今、この場にいる僕達三人は、ブレイザー一家にとってはいなくなって構わない人間なのだから。
 とにかく、このままではリームはアニスの事が気になって戦いに集中出来ない。幾らリームが強くとも、その実力を出せなければ勝てる戦いも勝てはしない。これには僕達だけでなく、クライアントであるアニスと、そしてゴードン氏に譲らせた件の問題だってあるのだ。僕達には負ける事は決して許されない。
 今、まずすべき事は、何とかアニスを奪還してりームに戦いに集中してもらう事だ。幸いにも、この場にいる人間はほとんどリームと彼との戦いに注意が向かい、僕はほとんどマークされていない。ならば、なんとか奇襲をかけられたらうまくアニスを奪い返せるかもしれない。
 僕は軽く魔素を吸い込み、魔力に変換させて体内に蓄積させる。そしてその魔力に風のイメージを与えて変質させながら両手に集める。狙うは、アニスを捕まえている手下と、そしてその周囲。まずアニスを掴んでいるあの腕を右手のカマイタチで切りつけ、脱出の機会を作り出す。そして、すぐさま再捕縛にかかる連中を左手の魔術で―――。
 しかし、
「おっと、動くなよ」
 突然、僕の喉元に冷たい刃物が当てられる。ハッと辺りを見ると、僕の周りを数人のブレイザー一家の手下が囲んでいた。
 一体いつの間に?  だが、そんな事は考えるだけ無駄だ。現にこうして僕は動きを封じられてしまっている。おそらく僕もまたリームに気を取られ過ぎていて、更に自分はノーマークと思っていながら実際はしっかりマークされていたことに気がついていなかったのだろう。不注意以外のなにものでもない。
 しまった……。
 とにかく僕は自分の迂闊さに後悔した。これで完全に手詰まりだ。リームは戦いに集中出来ない。そして僕は喉にナイフを当てられて動く事が出来ない。
 考えうる、最も最悪な状況の一つだ。