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 最悪だ……。
 現状を嘆く暇があれば、より善処出来るように次の事を考える。それが鉄則であるはずなのだが、どうしても僕はその言葉を思い浮かべずにはいられなかった。
 ブレイザー一家は、ゴードン氏の店の権利を奪い村の営利を独占すべく、当面の障害となる僕達をいよいよ本気で潰しにかかった。そのために、途中で僕達に気づかれぬよう念入りな手段でここにおびき寄せた。ゴードン氏に大きなケガをさせ、そしてアニスをまんまと連れ出した。当初は店の権利とアニスの身柄を交換条件として突き出すだけかと思われていたが。アニスを連れ出した本当の理由とは、ここに僕達をおびきよせ、ブレイザー一家で雇ったバウンサーに潰させることだったのだ。
「さあ、行くぞ」
 男は蟷螂のそれを連想させる不気味な笑みを浮かべると、ドン、と地面を踏み込んでリームに向かい矢のように突進し、そのまま飛び蹴りを放つ。先ほどに比べ、余裕のためかいささか鋭さに欠ける蹴りだ。あんな半端な攻撃ならば、逆にリームにとっては格好の的だ。十分にカウンターを狙える程度である。
 けれど。
「……チッ」
 リームは一瞬渋い表情をすると、向かってくる男の蹴りを真っ向からガードポジションに構えた腕で受け止めた。
 僕は予想だにしなかったブレイザー一家の目論見に、初めこそは酷く狼狽してしまった。しかし、ブレイザー一家のボスであるダルヴ氏の雇ったバウンサーは、かつてはリームと同じタチバナ流を学んだ人間ではあったが、リームとの実力差は火を見るより明らかだった。冷静にやりあえば、勝利するのは十中八九リームの圧勝だ。このバウンサーを倒せば、ブレイザー一家の形勢不利は明らかなものとなる。動揺が走った隙を突いて一気に畳み掛ければ、アニスも無事に取り戻せただろう。
 だが、そううまくいくほど、事態は簡単なものではなかった。
 男は自分が勝てないと知るや否や、人質にしていたアニスを使ってリームを遠回しに脅迫し始めたのである。
「ハッ! そら! どうした? 動きが鈍いぞ!」
 男は一方的にリームを攻め立てる。初めこそ男の攻撃は空を切りがちだったものの、こうも一方的に攻め込まれては徐々に防ぎ切れない攻撃も増え始め、徐々に防御を余儀なくされる時間が増えていく。
「この! いい加減に―――」
 痺れを切らせたリームは、余裕のあまり隙の多い男の動作の間隙を縫って鋭く蹴りを差し込んだ。
 が、
「痛ッ……や、やめて!」
 傍らでアニスの肩を掴んで押さえていた手下の一人が、すぐさまアニスの左腕を掴み加減無しに捻り上げる。そのあまりの痛みに耐えかね、思わずアニスはそう悲痛な声で叫んだ。
 途端に蹴りの体勢に入っていたリームの動きが止まる。あのまま蹴り飛ばしてしまったら、アニスが何をされるのか分かったものではないからだ。頭が芳しくない人間であれば、そのまま本当にアニスの腕を捻り折る事だって考えられる。
「フッ、甘いな」
 リームは反撃に転じるものの、その攻撃は寸前で止めてしまう。そんな姿に男は嘲りの笑いを浮かべ、
「セイッ!」
 ドン、という爆発的な踏み込みと同時に、凄まじい破壊力を生み出すタチバナ流の正拳突が放たれる。
 男の正拳突はまっすぐリームの体を捉えた。そのまま威力に押されてリームの小さな体は遥か背後へ吹き飛ばされる。あまりの速さで、リームの防御が間に合ったかどうかは確認できなかったが、あの飛ばされようではたとえガードしていたとしても相当なダメージは覚悟せねばならないはず。
「リーム!」
 思わず僕は、首元にナイフを当てられている事を忘れてそう叫んだ。
 直後、リームは地面にぶつかる寸前で体を一回転させ、立ち膝の姿勢で僅かに滑り着地する。どうやら意識を失ってはいないようだが、着地の仕方に余裕が感じられない気がする。いつものような僕の杞憂ではない。
 ゆっくりリームは立ち上がると、再び男に向かって構えを取る。
 リームの肩は大きく上下している。ダメージの蓄積量が激しく、息を切らせてしまったのだ。これも滅多にある事ではない。やはり、もう限界が近いのだ。元々、達人クラス同士の戦いでは、必殺の一撃は文字通り相手を必殺するものである。それが決まれば、相手がガードしようが関係なくダメージが体を貫通させる。そんな桁外れの攻撃を、少なくとも二回は受けている。あの小さな体でそれを受け止め、なおかつ立っているだけでも不思議なくらいだ。
「うっさい。効いてないっつうの。いいから手ェ出さないでよ」
 僕の叫びに随分と遅れた返事を返すリーム。目は未だに闘志を失ってはいないものの、苦しげな呼吸と顔中の汗がリームの追い詰められた状況を克明に物語っている。効いていないなんて嘘だ。リームがどういう性格なのか僕はよく知っている。苦しい時こそ逆にああやって強がるのだ。
 これ以上は無理だ。
 すぐにでも僕はリームと代わってやりたかった。けど、僕は今動ける状況ではなく、リームもまた僕との交代など決して良しとはしない。それに、たとえ入れ代わったとしてもまた同じ事の繰り返しだ。相変わらずアニスはブレイザー一家側にある訳だし、同じように人質の身をちらつかされたら、僕だって同様に下手に動く事が出来なくなる。これではただの共倒れになるだけで、根本的な解決には結びつかない。
 今、僕がどうすべきか、その最良の選択。
 分かっている。
 リームの身の安全よりもアニスの身の安全を優先しなくてはいけない。僕達にはバウンサーという立場抜きにその義務がある。だからここは、周囲がリームに気を取られている隙に僕がなんとか自分の取り巻きを脱してアニスを奪い返すことが最善の選択である。
 けれど、理屈では分かっているのに、僕はこれ以上のリームが打たれる姿は見たくはなかった。果たしてこのままでいいのか、一体どちらを選択すればいいのか、どちらとも決めかねる僕はただただ焦燥だけを募らせてその場に立ち尽くす。
「まだ立つか? 見た目によらずタフだな。よし、じゃあ後何発耐えられるか試してみるか」
 ニヤリと嫌悪感を誘ういやらしい笑み。しかし、リームはそんな男の挑発に対して無言のままだった。既にリームには、言い返すだけの余力も残されていないのだ。
 と。
 ドン、と爆音を響かせながら踏み込んだのはリームの方だった。その行動は明らかに意地になっているようだった。何が何でもこの男には屈しない。そう強く思っているのだ。
「ん? あの嬢ちゃんは大丈夫か?」
 リームのそれだけの闘志を浴びせられても、依然として緊張感の薄い男の態度。そして、そんな男の言葉の前にリームはあっさりと燃え滾る闘志を静めてしまう。
 またもやアニスの腕が手下によって捻り上げられる。だが、アニスはじっと声を押し殺して耐えていた。自分が痛みを訴える事でリームが戦えなくなると考えているからだ。けれど、そんなアニスの健気な気持ちも報われる事はない。たとえ声を上げていなくとも、リームの闘志をかき乱すにはそれだけで十分なのだから。
 動作が止まったリームに、男は大きく回し蹴りを放つ。咄嗟に左腕を差し込むもののリームの体は衝撃を吸収しきれず、ガクッと僅かに上体が崩れた。
「おいおい、このぐらいちゃんと受け止めろよ?」
 余裕と嘲笑に満ちた男の顔。それでもリームはじっと押し黙ったまま、男の顔を依然戦意の消えぬ目で睨みつける。
 ……くそっ。
 僕の胸の中に、まるで思い出したように煮えたぎる熱い感情が芽生え始めてきた。
 これまで終始焦りで染められた感情が急になりを潜め、代わりに感情を席巻したのは途方もない怒りだった。
 ふざけるな!
 卑怯者め!
 僕と代われ!
 一瞬で切り刻んでやる!
 同じように苦しめて苦しめ抜いた末に殺してやる!
 嘲笑と共に、もはや勝負の中の攻撃ではない、ただの痛めつけるための動作を続ける男。その姿に僕の怒りは更に加速していく。頭の中には次々とやり場のない怒りを慰める罵声が飛び交っては消え、そしてまた飛び交う。それを口に出すことすら理性と状況が許さず、そして徐々に何も出来ないでいる自分への疑問と怒りが高まり、終いにはどうしてただここでじっと諦観しているのかすら不思議に思えてきた。
 単純な事じゃないのか?
 こんな有象無象、僕の魔術があれば切り刻むなんて訳のないことだ。それからあの男も、ダルヴ氏も、アニスの腕をねじったあいつも、みんな一人ずつ殺してしまえばいいだけのことだ。それで全ては丸く治まる。アニスを無事に取り返せるし、事件も終着、僕達も無事にこの場を離れる事が出来るのに。
 ……あれ? 何か違う。
 ふと、僕は自分の言動が普段とはまるで違う過剰に暴力的なものになっている事に気がついた。普段滅多に覚えない怒りのあまり、理性が錯乱して一時的にそうなっているのだろうか? いや、違う。僕の全身を先ほどからざわめかせているのは、男とブレイザー一家の卑劣なやり口に対する怒りでだけではない。もっと、狂的な衝動の波紋が揺れ動く、ある種の歓喜にすら似た何かだった。
 そして、稲妻のように閃いたある予感に、僕はハッと空を見上げる。
 これまで、元々薄暗かったため気づかなかったが、空にはいつの間にか月齢十六日半の極めて真円に近い月が見事な輝きを煌々と放っていた。
 しまった。
 なりを潜めていた焦燥の方向性が変わる。それは僕自身の変化に対するものだ。
「オラァッ!」
 ドスッ、と鈍い音が響く。
「……かはっ」
 リームが高々と腹を蹴り上げられ、そして遂に地面に伏した。
「ったく、見た目によらずとんだ化物だな。こんなヤツを相手にしたのは初めてだぜ」
 にやけながらも、どこか恐怖の色を見え隠れさせている男。つい先ほどまでは圧倒的不利な状況に置かれていたのは男の方だったのだ。それも純粋な実力差だけでだ。確かに遥かに実力の勝るリームは、男からしてみれば信じがたい存在だろう。あながち間違った表現でもない。けれど、男の放つ一句一句は今の僕にとって単なる怒りの加速剤にしかならない。
 ぎりっ、と奥歯を砕けそうなほど強く噛み締める。こぶしは血がにじみそうなほど強く握り締めている。だが、そのどちらの痛みも僕の脳には届かない。今、僕の中を占めているのは途方もない怒りと、そして生まれ持った血の騒ぐ黒い衝動だけだ。
「ま、こいつも何か使い道があるでしょうな。ダルヴさん?」
 ダルヴ氏と顔を見合わせ、そして互いに含み笑う。
「くっ……ふざけんな」
 リームは最後の力を振り絞り、辛うじて上体を起こそうとする。しかし体はリームの依然衰えぬ闘志にはついていくことが出来ず、ただ覇気だけが男に向かってぶつけられる。
 ドクン!
 心臓が高鳴り始めた。
 いよいよ、僕の中のヴァンパイアの血が騒ぎ始めた。それをはっきりと理性が感じ取る。今は月齢十六日と半。停滞期には程遠い時期だ。最も活性化する満月日は過ぎたとは言え、その前後もまた満月時に次いで活発に活動を行っている。そこに感情的な衝動が入り込むことで、普段大きくシェアを占める人間の血がヴァンパイアの血と入れ替わるような事が起こるのだ。ヴァンパイアの血が僕を支配した時、僕は完全にヴァンパイアのそれとなってしまう。欲望の向くままに人間の血を求め、そして目に付くものを次々と破壊していくのだ。
 殺してしまえ!
 躊躇う事はない。
 ここにいる人間全てが僕の餌だ。
 さあ、やれ!
 僕はヴァンパイアなんだろう?
 ……うるさい!
 次々と浮かんでは消える、ヴァンパイアの血がもたらす黒い誘惑と衝動。僕を破壊と欲望の徒に走らせようとするそれを、なんとか精神力で跳ね除ける。
 僕は人間だ。こんな血の誘惑においそれと負ける訳にはいかない。しかし、それとは裏腹に収まる事のない怒りは僕のヴァンパイアの血を更に活性化させていく。怒りと共に少しずつ、自分の人間としてのディテールが崩れていくのが分かった。人間にはあるはずのない牙が現れ、両手の爪は赤く変色して伸びていく。完全なヴァンパイアではなくクォーターであるが故の変質。しかしその姿は決して人間社会に溶け込めるような穏やかなものではない。自分ですら考えたくもない、まさに魔物そのものの姿なのだから。
 抑えるんだ! 今、ここで僕までキレてしまったら、一体誰がアニスを助けるんだ!? あれほどゴードン氏と約束したじゃないか! 必ず無事で取り返して見せると!
 まるで血を思わせるかのような赤いものが意識をじわじわと侵蝕していく。赤に染まった意識は純然たる怒りと破壊欲に彩られ、僕の理性が掲げる人間性に真っ向から反旗を翻す。僕の理性はその色に染まらぬよう必死に抵抗を続けるも、赤の侵蝕の勢いは全く留める事が出来ない。
「なんだ、コイツ? 震えてるぜ」
「なっさけねえな。お前さんの女がやられちまったってのによ」
 僕を囲み押さえるブレイザー一家の手下達の声が聞こえる。それはまるで壁越しで聞いているかのように、今の僕には遠く聞こえる。意識がヴァンパイアの血に乗っ取られかけている証拠だ。
 抑えるんだ! そして冷静になれ!
 相手はまだ油断しているんだ。幸いにも魔術師は武器を必要としない。だったらタイミングを計って奇襲をかければ―――。
「さて、そろそろおやすみの時間だ」
 男はリームの頭を上から激しく踏みつけた。
 ドン、と響き渡る爆音。強烈な衝撃を頭に受けたリームは、そのまま動かなくなった。
 ――――あ。
 その時、辛うじて繋ぎとめていた最後の理性が音を立てて切れた。瞬間、残りの理性があっという間に染め上げられ、僕の視界は赤く染まっていく。込み上げてくるのは、圧倒的な渇きと、底知れぬ黒の破壊欲。この世に存在する全てを否定せんばかりの、理性を失って本能のままに動く、血に餓えたヴァンパイアのそれだ。
 僕を構成する全てがぶち壊された。
 ありとあらゆる、建前とも呼べる僕の人間性が、全一的に否定される。