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 アレックスに急に入った仕事は無事に納品が終了し、二人は目的先の町で昼食を取ったのち家路に着いた。
 時刻は正午と夕刻の丁度中頃。荷物を運び終え軽くなった馬車は軽快に進んでいく。このペースだと、日暮れ前には町に帰り着く事が出来そうだ。
「どうやら私の出番はありませんでしたわね」
「無事である事に越した事はありませんよ」
 この一帯は特に治安の悪い事で有名らしく、こんな大手会社の荷馬車など野盗にとっては格好の的になり得る。もちろん、ロイアにとってそんな素人の武装集団など、たとえ何十人いようとも物の数に入らない。しかし、そういったトラブルはどれだけ小さいものだとしても起こらない事に越した事はない。戦闘という、どんな些細な不確定要素にも大きく結果が左右されるデリケートなものを軽視する事がどれだけ危険かを、アカデミーで四年間戦闘に関して徹底的な教育を受けたロイアは十二分に理解している。避けられるトラブルはどれだけ小さくとも避けるべし。それが最も効果的で確実な防衛法なのだ。
 帰りの馬車にはこれといって目ぼしい荷物はない。必ずしもとは言い切れないが、危険性は行きよりも遥かに低い。アレックスはかなりリラックスして馬車に揺られていたが、ロイアは相変わらず意識の内のほんの僅かを周囲に張り巡らし、油断なくまだ見ぬ敵の襲撃に備えていた。こういった自然な警戒も、アカデミーで培われた自意識コントロール技術の一つである。
 そして何事もなく町に到着すると、一度馬車は会社の方へと向かった。二人は無事に納品が済んだ事を社長に報告し、それから自宅へ戻った。アレックスの父は何やら押し迫った仕事の最中で、報告と言っても一言二言で簡単に済ませた。朝言っていたものとはまた別の仕事のようで、仕事のスケジュールも相変わらず隙間がないそうだ。
 屋敷に戻った頃、丁度夕食の準備が整っていた。ロイアは部屋に槍を置いた後、昨日今日と食事をご馳走になった食堂へ向かった。
 夕食は今夜もアレックスとロイア二人だけだった。アレックスの父はまた仕事の都合上、帰宅が遅くなるらしい。そんな事はしょっちゅうの事のようで、アレックスも老執事もそれほど特別には思っていないようだった。
 食事を終え、ロイアは自分にあてがわれた客室へ戻った。
 今日は普段はあまり乗る事のない馬車に一日中乗っていたため、ロイアは大分疲れていた。すぐさまバスルームに向かって浴槽にお湯を張り始める。まだ宵の口ではあるが、今夜はゆっくりお湯に浸かって早めに寝る事にしよう。明日にもそろそろ次の町に向かわなくては。このままずるずると心地良い待遇に甘んじてしまっていては人間が駄目になる。
 お湯が張り終わるまでには、浴槽の広さからしてしばらく時間がかかりそうだった。張り終わるのを待つ間、ロイアはリビングのソファーの上に座って槍袋の中からそっと槍を取り出した。
 槍袋の中から姿を現したのは、たとえ夜の闇の中ですら映えそうなほど深い漆黒色の槍。見た目の印象が感じさせる重量感も普通の槍よりも遥かに強く、どっしりと鎮座するかのような色調だ。その先につけられた鋭く研ぎ澄まされた刃は、照明が放つ淡い灯りを切り裂きながら冷たく輝いている。その輝きは、たとえ直接触れなくとも場を共にするだけで貫かれそうなほど冷たい威圧感を孕んでいる。
 魔槍ブリューナク。
 それが、ロイアの持つこの槍の名前だ。ロイアがアカデミー時代、どうにもならないとある事情のため、掛け替えのない仲間を裏切って宝物庫から強奪した神器である。
 ブリューナクは、町を一つ消し飛ばしたという逸話を持つ神器「灼熱の毒槍”屠殺者”」の後継機に当たる神器だ。ただの槍が終始異様な威圧感を放っているのもそのためである。更に、ブリューナクには原始的な自我まで埋め込まれている。威圧感は、その猛々しく好戦的な自我が自然と放っているものなのだ。
 何も知らぬ者がブリューナクを前にすると、まるで猛獣よりもずっと遥かに得体の知れない凶暴な生物と対面しているかのような錯覚を覚える事だろう。それだけブリューナクの持つ雰囲気は独特で色濃く、そして禍々しかった。この世界で三本の指に数えられる最強種族の一つ、ドラゴン族すらも屠るほどの力をその内に宿しているのだから。
 そんなブリューナクを、ロイアはそっと水で絞った布で拭き始めた。どんなに小さな隙間も隅々まで綺麗に磨いていく。たとえ実際に槍を使わなかったとしても、一日の終わりに槍の手入れを行うのはロイアの習慣だった。それに今、人知れず爆弾を抱えているロイアの精神を支えているのは、このブリューナク自身なのである。たとえそんな習慣がなかったとしても、我が身のように大切にしないはずはない。
 とても尋常な神経の人間には、触れる事すらかなわぬほど禍々しい空気をまとう槍。それをおっとりとした外見のロイアが愛しむかのように手にする姿は、どこか異様な光景に見えた。凶悪な魔物を、一人の若い女性が手懐けているようにさえ思われた。
 その時、おもむろに何者かが部屋のドアをノックした。
 ロイアは手早くブリューナクを槍袋の中に仕舞いこむと、すぐにドアに向かってカギを開け出迎える。
「すみません、夜分に」
 ドアの向こう側に立っていたのはアレックスだった。
「あら、どうかなさいましたか?」
「少々大切なお話がありまして―――」
 ふとアレックスはバスルームの方に視線を送った。バスルームからはお湯の流れる音が聞こえてくる。
「あ、今から御入浴でしたでしょうか?」
「いいえ、お気になさらず。さあ、どうぞ」
 ロイアはそう微笑んでアレックスを中に招き入れる。
 今思い出しても恐縮なのだが。昨日、たったあれだけの事を何の気もなしにしただけで、これほど大そうなもてなしを受けたのだ。アレックスには、明日出発する前にもう一度丁重に礼を言っておくべきであろう。
「あまりお時間は取らせませんので……」
 珍しくアレックスは語尾を途切らせていた。普段はもっとはっきりした自信のある口調であったのに。
 ロイアとアレックスは同じソファーの端と端に腰を下ろした。二人寄り添うように座る仲でもなく、また向かい合って座っては距離があり過ぎて他人行儀だ。二人の間、丁度大人が二人ほど座れそうな、何とも微妙な距離である。
「ロイアさんは、いつここを発つのですか?」
「出来れば、明日ぐらいには発とうかと思っています。あまり長居する訳にもいきませんから」
「そうですか……」
 アレックスは残念そうに顔をうつむけた。
 ロイアが思っていたよりも、割に素直な反応だった。もっと過剰に恩義を感じて留めさせられると予想していたのだが。どこか拍子抜けした感はあったが、引き止めるのを押し切って出発するよりは遥かに発ちやすい。
 ロイアがもう町を発つと聞き、寂しそうな表情を浮かべ、それを見せないようにうつむいているアレックス。だが、すぐにまるで何かを取り戻して自分に言い聞かせるように強く頷いた後、ゆっくりと首をもたげる。
「ロイアさん」
 アレックスの眼差しはいつになく真剣だった。刃のように鋭い訳ではなく、冷たく殺気立っている訳でもない。だが、思わず注目せずにはいられない、何か強い覇気のようなものが伝わってきた。
「僕の正直な気持ちを伝えたいと思います。突然で驚かれるかもしれませんが、何も言わずにどうか聞いて下さい」
 真剣なアレックスの必死の口調に、ロイアは静かに首をうなづけた。
 アレックスは緊張のためか、やや呼吸に落ち着きがなかった。それを鎮めるために一度大きく深呼吸をする。それから理性の微調整を行い、再び口を開き始めた。
「僕はロイアさんと出会ってから、まだ一週間も経っていません。ですから、今こんな事を言っても俄かには信じてもらえないでしょうし、僕もそれは十分覚悟の上です。けど、これが僕の嘘偽りのない正直な気持ちなんです。何度も何度も冷静になって自分を見直しました。その上で、僕は告白しようと決心したのです」
 アレックスは唐突にソファーから腰を上げ、そっとロイアのすぐ傍に歩み寄った。そしてロイアの両手をしっかと握り締める。
「ロイアさん。僕は貴女の事が好きになりました。本気です。ですから、どうか僕と結婚して下さい」
 結婚。
 アレックスの口から飛び出した意外な言葉に、思わずロイアは驚きのあまり大きく目を見開いた。突然飛び出すにはあまりに重すぎる言葉だ。しかしそれは、自分が明日にも旅立つと言ってしまい、アレックスの決心をより固めてしまったためでもある。
「僕はきっと貴女を幸せにしてみせます。生涯、何不自由させない事を神に誓います。だからどうかお願いします」
 アレックスと出会ったのは、本当につい昨日の事なのに。幾らなんでも結婚なんてあまりに急過ぎはしないだろうか?
 しかし、アレックスの目は真剣そのものだった。自分はそれなりに人を見る目はある。今日まで見てきてアレックスは、態度が紳士的で誠実な好感の持てる男性ではあった。確かにこういった男性と結婚すれば損はないかもしれない。
 けれど、今一つ胸を打つものがなかった。
 ロイア自身が特殊な事情を抱えているため、周囲の人間とは深入りしないよう、常に気持ちに一線を引き続けていたせいだろうか。いや、逢ってから間もない人に突然結婚を申し込まれた所で、普通すぐには首を縦には振れない。結婚とは一生の問題なのだ。
 ロイアは一瞬、アレックスに向かって微笑みかけた。だが、すぐにアレックスの手の中から自分の手を引き抜く。
「せっかくの申し出、大変光栄の至りなのですが。申し訳ありませんが、私はお受けする事は出来ません」
 その言葉に、アレックスはその場に凍りついた。
 アレックスの表情にロイアは胸を痛めた。たとえ彼と何年も付き合った上で結婚を申し込まれたとしても、今の私は彼の申し出は決して受けないだろう。いや、受ける事が出来ない身の上なのだ。
「そんな! 一体、何故です!? 僕は必ずロイアさんを幸せにしてみせます! 近い将来、僕はこの会社の社長となります。そうすれば、ロイアさんには望むものを何でも与えてあげられるんですよ!?」
 しかし、なおも必死に説得し食い下がるアレックス。懸命なアレックスの表情に反し、ロイアの微笑はどこか遠く感じられた。
「何でも?」
「そうです! 我が社のネットワークを駆使すれば、この世で手に入らないものはありません! 必ずロイアさんの望む物を見つけ出します!」
「でも、世の中にはお金では手に入らないものもあるんですよ?」
「もしや、人の気持ち、とでも言いたいのですか? それは違います。たとえどんな理不尽な要求だったとしても、目の前に金を山と積まれたら必ず人の気持ちは揺らぎます。そして僕は、そんな光景を何度も実際にこの目にしてきました」
 深く金銭と関わる仕事をしているのだ。そんな人間の汚い面を見た事も一度や二度ではないはず。けれど、それが人間の本質ではないのだ。本当に強い意志を持った人間は、芯なる部分は決して揺らがない。少なくとも自分には揺らがない意思がある。
「お金で人の気持ちが揺らぐのは確かです。けど、お金ではどうしようもない、大切なもの、価値あるものはこの世には幾らでもあるんです」
 そっと手を詰め寄るアレックスの胸に伸ばし、自分との距離を遠ざける。
「私が欲しいのは、その中の一つなんです。それを手に入れるため、こうして旅を続けているんです。本当にあるのか、そもそも手に入るものなのかは分かりませんけど」
 そして微笑。
 思わず胸を締め付けられる、何とも言えぬ悲しみの色を覗かせた微笑だった。普通では考えつかない重い架を背負っている、苦行に身を賭した聖人のような微笑だ。しかし、アレックスはそんなロイアの様子には全く気づいてはいなかった。今アレックスの頭の中にあるのは、どうしたらロイアが自分の申し出を承諾してくれるのか、決断させるだけの説得力を持つ言葉を必死に画策する。
「僕に……一体何が足りないというのですか!?」
「今はまだ、きっと分からないでしょう。あなたは親の箱庭から外に踏み出していないのですから」
「はぐらかさないで下さい! ロイアさんが欲しい物とは一体何ですか!? なら、それを僕がロイアさんに差し上げられたなら結婚を承諾してくれるんですね!?」
「無理ですわ。それは、形あるものではありませんから」
 そして、二人の間に沈黙が訪れる。
 ロイアは微笑を浮かべながらも、気まずそうに視線を伏せている。そんな様子を、アレックスはこぶしを握り締め、ただただ見つめていた。
「すみません……どうしても、その申し出だけは受ける訳にはまいりませんので……」
 決定的なロイアの言葉。それが何よりも重い衝撃となってアレックスの頭に圧し掛かる。
「あ……こ、こちらこそすみません。つい大きな声を出してしまって……」
 ふとアレックスは我に帰り、そして口調を普段の紳士然としたものに戻した。表情にはばつの悪そうな笑みが浮かんでいる。ロイアはそんなアレックスに、ただただ申し訳なさそうな表情を浮かべるしかなかった。受ける受けないは自分に選択の自由があるとはいえ、申し出を断る事に全く胸が痛まない訳はないのだ。
「では、僕はもう失礼いたします。おやすみなさい」
 そしてアレックスはやや早い口調でいとまを告げると、まるでこの場から逃げ出すようにそそくさと部屋を後にする。ロイアが就寝の挨拶を述べる間もなく、アレックスの姿は部屋からいなくなる。
 アレックスは部屋のすぐ傍の壁に、打ちひしがれたように力なく背を預けていた。そこに普段の温和な表情はなく、ロイアに確たる理由も告げられぬまま求婚の申し出を拒絶された事による屈辱の怒りが満ち溢れている。
「一体、僕に何が欠けているというんだ……くそっ!」
 アレックスは怒りに任せ、背後の壁を横拳で殴った。