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「さて、そろそろ戻りましょうか」
 ゆっくり取った昼食がお腹の中で大分こなれて来た頃。ロイアはセーウィアス邸に戻る事にし、帰路を定めた。
 雨は未だに降り続いている。たまたま風が吹いていないのが幸いで、傘の死角から横雨が入り込んでくる事はなかったものの、依然として雨は傘がなければ数秒で下着までずぶ濡れになってしまう勢いだ。
 ロイアは紙袋を雨からかばうように大事に抱えながら、反対の手では傘を持ちながら歩き出す。町は馬車が通るための道と人間が通るための歩道が明確に分けられている。綺麗に石畳で舗装されており、これほどの雨が降っているにも関わらず、道には水溜りが一つも見当たらない。降った雨は石畳の間から下の砂利の層に染み込み、それより下にある地下水の層にゆっくりと流す構造になっている。町の道路の舗装は、ほとんどセーウィアス社が行ったものである。道路のコンディションを常に一定の状態に保ち、業務の妨げにならぬようにするためと、歩道を設ける事で馬車と歩行者との接触事故を未然に防ぎ、より速く馬車を走らせる事が目的だ。この大々的な舗装の結果、一般人が雨の日に泥濘へ足を突っ込む事もなくなり、外観も美しく、乾いた日には砂埃が巻き上がらないとあって、思いの他好評を博しているそうだ。
 薬を取り扱う店は無数にあり、逆に店を選ぶだけでも目移りしてしまった。一通りの店を見て回るだけでも三十分はかかった。その中からようやく一軒の店を選んで中に入ると、早速店主が何を探しているのかにこやかに訊ねてきた。ロイアは”常備薬を一式探している”と答えると、店主はなおも笑顔のままで周囲の棚を指し示した。棚にはあらゆる種類の薬が無数に並んでいた。胃腸薬一つとった所で、軽く十種類を超えていたのである。おかげで薬を数個買うのに随分と時間がかかってしまったが、元々セーウィアス邸には夕方頃に帰る予定だったので丁度良かった。別に居心地が悪いという訳ではないのだが、逆にあそこまで慇懃な応対を受けてしまっては息が詰まってしまうのである。やはり、人間分相応というものをわきまえるのは大切な事だ。
 薬を買い終え、少し遅めの昼食を取る。帰りまでの時間を延ばすため、お茶をゆっくりと二杯飲んだ。それから、せっかく沢山の店が建ち並んでいるのでウィンドウショッピング。雨のため露店はなかったが、どこの店も少しでも客を中へ引き入れようとショーウィンドウに様々な趣向を凝らしている。それを見比べるだけでも楽しいものだ。
 薬だけを買うつもりでいたが、結局、香りつき石鹸と髪の補修剤を買ってしまった。石鹸はともかくとして。この国に来るまでに乗っていた船で潮風に煽られ、入国してからも連日強い日差しにさらされた髪はかなり痛んでしまっている。枝毛もかなり目立つようになってきた。別に特別見て欲しい人がいる訳でもないのだが、髪の手入れは身だしなみだ。それに、幼い頃から癖の無い綺麗な髪が唯一の自慢でもあった訳だし。
 そんな経緯を経て、時間も予定していた通りの夕刻寸前に差し掛かった。これからセーウィアス邸に戻り、もう一度荷仕度を整えよう。それが終わる頃には、晩餐会と言った方が正しいだろうか、夕食の時間になるはずだ。そこでもう一度、これまでお世話になった事へのお礼と、明日出発する事の挨拶を述べる事にしよう。
 何度思い返しても、これまでの自分の日常とは大きくかけ離れた別世界でのもてなしだった。少しだけ、自分がいわゆる上流階級や高所得者の親戚縁者になったような気分も味わえた。たとえ僅か二、三日だったとはいえ、随分と良い夢を見させてもらった。これも忘れられない旅のエピソードになる事だろう。
 バラバラと傘を鳴らす雨の勢いは未だに衰えを見せない。昼食の際に立ち寄った店のウェイターの話によると、おそらく今夜半前には晴れるそうだ。それまでには崖崩れの復旧作業も終了し、後はいつもの焼け付くような太陽熱によって緩んだ地盤もあっという間に乾いてしまう。とりあえずは明日の出発の予定が崩れる事はなさそうである。
 町の商店街からセーウィアス邸までは、歩いてほぼ十分。舗装作業により区画化された道は非常に現在位置を掴み易く、ある程度の目印さえ憶えておけば、まず道に迷う心配はない。
 濡れた路面に足を取られて転ばぬように、ゆっくりと時間稼ぎも含めて歩くロイア。そして感覚時間で十五分程度が過ぎた頃、通りの向こう側にセーウィアス邸が見え始めた。まだそこそこの距離はあるというのに、ここからでも建物の姿を確認する事が出来るなんて。本当に城のような屋敷である。
 と。
「あら?」
 その時、ざあざあと降り注ぐ雨の音に混じり、どこかで人の悲鳴のような声が聞こえた気がした。ふとロイアは足を止めて辺りを見渡す。しかし、見えるのは普段通りの町の風景であって、どこにも悲鳴をあげるような要素は見受けられない。
 空耳だろうか? 雨が石畳を打った音を人の声と聞き違えたのかもしれない。
 そう思ったロイアは返した踵を戻し、再び前へ足を踏み出す。
 が。
 直後、今度は雨の降り注ぐ音を切り裂いて凄まじい破壊音が鳴り響いた。木材が何らかの大きな衝撃を受けての軋む音と共に、まるで家屋が倒壊したような音が響く。今度こそ間違いなくはっきりと聞こえた。この音は明らかに空耳や自分の聞き違いではない。
 一体何事だろうか?
 もう一度踵を返し、音がした方を見つめる。すると程なくして、その方角からこちらに向かってバラバラと大勢の人間が現れた。人々はそれぞれ恐怖の表情を浮かべ、蜘蛛の子を散らしたかのように逃げ惑っている。
 途端にロイアの表情が緊張の一色に染まった。今聞こえてきたあの音といい、どうやら何か只ならぬ事体が起こったようである。
「どうしたんですか!?」
 逃げる人々の中の一人に、ロイアは声を張って問い掛けた。
「アンタも早く逃げろ! 魔物が出たんだ!」
 男は一息でそう言い切ると、一目散に駆けていった。誰もが皆、恐怖に表情を引きつらせている。どうやらその言葉に間違いはなさそうだ。
「魔……物?」
 ふと視線を人々が逃げてきた方向へ向ける。すると、そこには明らかに人間とは違う輪郭の生き物が見えた。ロイアは更に目をこらしてじっとその正体を見据える。それは人間のように二本の腕と足、そして首と頭がはっきりと分かれて肩の間に乗っかっている。頭の天頂には僅かに毛髪のようなものが生え、その中心から円錐状の鋭いものが空に向かって伸びている。
「あれは……オーガ!」
 人間に近い体型を持つ亜人間型の魔物だ。しかし体格は軽く人間の四、五倍はある。それに比例し、腕力も人間とは比べ物にならないほど強く、また耐久力や生命力も並々ならぬものがある。
 今、目の前にいるオーガは、身長は低く見積もっても五メートルは確実にある。腕など、普通の成人男性の横幅もある。あんな腕で殴られたら、人間の作った家屋などはいともたやすく潰されてしまうだろうし、人間に至ってはそれこそ文字通りのミンチだ。
 いけない! このままでは―――。
 この町にも自警団の類はあるだろうが、人々の様子からしてあまり魔物が人里に下りてきた事はないようだ。となると、人間の犯罪者に対しては効果を発揮する自警団も、魔物、それもあんな巨大な種族相手では歯が立ちそうも無い。ならば、ここはあらゆる種族の魔物と戦い慣れている自分が鎮圧化に乗り出すしかない。
 ロイアは邪魔になる傘と紙袋をその場に放り出すと、セーウィアス邸に向けて全力で走り出した。
 走りながら冷たく濡れた空気と共に魔素を吸い込み、それを全身の筋肉へ還元していく。すると、体はまるで重さを失ったかのような爆発力を得て、より速く疾くと走り出す。これが魔術から派生した身体強化法『昇華』である。筋力に恵まれた体型を持っていない戦士でも重量級の武具を自在に操り、そして恵まれた戦士もまたより大きなパワーを生み出す事が可能な技術だ。ロイアが極普通の一般的な女性の体格でありながら、武器の中でも重量級の部類に入る槍を自在に使いこなせるのはこのためである。
 一刻も早く屋敷の部屋に戻り、自分の槍を持って来なければ。
 ロイアは出掛けに槍を持って出なかった事を今更悔やんだ。戦士としての心得。アカデミー時代に教官から教わった言葉が頭を虚しく過ぎる。いつ、いかなる時でも臨戦体勢であるべし。戦闘はいつ何時に起きるのかあらかじめ予測する事は出来ない。だから常に戦える体勢を取っていなければならないのだ。にも関わらず、槍闘士である自分は迂闊にも槍を置いて買い物に出かけてしまったのだ。ハンターになってから今日までの時間が、心の中に慣れという油断を生み出していたのである。それが容易に武器を肌から離してしまった一番の原因だ。
 それにしても、何故こんな所にオーガが出没したのだろうか? 確かオーガの棲息地はもっと高い山の麓付近だったはず。この一帯には気圧の変わるような高山は存在していないというのに。いや、そんな事を考えても仕方がない。今、自分がするべき事は、既に起こってしまった事の原因を突き止める事ではなく、現状の危険の解決、もしくは最大限の緩和だ。
 ロイアはあっという間にセーウィアス邸の中庭の道を駆け抜けた。歩数にして僅か十数歩という、まるで狩りを得意とする猫科の肉食動物を思わせる加速力だ。そしてものの数秒で辿り着いた玄関では、呼び金を鳴らす事無く外から強引に扉を開けて屋敷の中に飛び込んだ。
「リーヴスラシル様!?」
 突然、ずぶ濡れの格好で飛び込んできたロイアに、たまたま外の騒ぎの音を聞きつけ様子を見ようとやってきた老執事は目を丸くして飛び上がらんばかりに驚いた。それも仕方がない。外から力ずくで入ってくるなんて、押し入り強盗と間違われても文句は言えないのだから。
「すみません! 後できちんと掃除いたしますので! 説明もその時に!」
 ロイアは律儀に一度立ち止まって深々と一礼すると、また再び廊下のカーペットを汚しながら自分の部屋に向かって駆けていった。そのあまりの素早さに、老執事は声をかけるタイミングを逃してしまう。
 十数段ある階段を二歩で駆け上がり、歩いて一つの階の階段を上り切るよりも短い時間で自分の部屋に到着する。そして急いでドアノブに手をかけて押し込んだ。が、ドアはガタンと僅かに軋んだだけで開こうとしない。
「あ、カギ!」
 ロイアはカギをかけて出かけた事を思い出し、素早く自らの体を探る。こんな事、いつもならすぐに気づく事であるのに。ノブを握るまで気がつかないなんて、よほど自分は焦っているようだ。
 やがてカギを開けると、カギはノブに差したまま部屋の中へ入った。そして一目散に槍とカバンを置いておいた寝室へ飛び込む。
「槍は……!」
 視線をベッドの上に投げかける。朝、自分の荷物はまとめてその上に置いておいたのだ。
 ベッドの上には、自分が背負うにしては少々大き過ぎるカバンの姿があった。しかしその傍らには、一緒に置いておいたはずの槍袋の姿が見当たらない。
「……あら?」
 ない? いや、そんなはずはない。出掛けにもきちんと確かめたのだ。自分は確かにベッドの上に槍を置いた。幾らなんでもこんな物忘れはするはずがない。あの槍は、今の自分にとっては文字通りの生命線なのだから。
 どこかに転げ落ちてしまったのかもしれない。すぐにロイアはベッドの周囲を隈なく探す。ベッドの下も這いつくばって入念に探す。シーツも、ダッシュボードも、クローゼットの中も。おおよそ自然に入り込むとは思えない所まで、隅から隅へと入念に探す。しかし、それでも槍の姿は一向に見つからない。
 一体、どうして槍が見当たらないのだろう? 確かにここに置いていたはず。少なくとも、今日はまだこの部屋の外には持ち出していない。にも関わらず、どこにも見当たらないなんて……。
 しかし、すぐに意識は外で今も起こっているオーガの奇襲の方へ向いた。
 いけません。こうやってグズグズしていると、被害が拡大するだけです。すぐにでも鎮圧しなければ!
 だが、自分は槍闘士だ。槍がなければ他に戦闘手段を持たない。かといって、こうしていつまでも逡巡していては被害が増すばかりだ。
「仕方ありません……なるようになります!」
 意を決したロイアは、カバンの外付けポケットから赤いバンダナを取り出し、それで後ろ髪を邪魔にならぬように縛る。
 あの現場に戻るのに、また来た道をそのまま戻るのは効率が悪い。
 ロイアはベランダに出ると、そこに足をかけて下へ飛び降り大胆なショートカットを敢行する。そのまま十メートル程ロイアの体は落下すると、音も無く静かに中庭へ降り立った。この程度の立ち回りは、既にアカデミーの一回生の基礎体力育成の過程で嫌になるほど訓練しているのである。無論、常人なら間違いなく足が折れる。
 最上階から飛び降りたにも関わらず、何事も無かったかのように駆けていくロイア。その背中はあっという間に遠ざかり見えなくなってしまった。己の得物である槍は手にしていないというのに。そのロイアの足にはまるで迷いがなかった。
 その後姿を、老執事は一階から窓越しに見つめていた。
 その表情は、この空よりも遥かに暗澹としている。そして、なにやら悔しげに唇を強く噛み締めた。
「アレックス様……」
 今はまた、再びどこかへ出かけてしまい姿の見えない青年の名をつぶやく老執事。それは怒りとも悲しみともとれる、深く苦い口調だ。