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 これ以上被害を拡大させないためにも、一刻も早く止めませんと。
 町は突如出没したオーガによって混乱の渦中に飲み込まれていた。人々の大半は既にどこか安全な場所へ避難してしまっている。瞬く間に閑古としてしまった町並を、オーガは一人、まるで玩具で戯れるかのように建物を破壊しながらのっしのっしと我が物顔で歩く。体長五メートルはあるかという巨躯にとって、人間の建造物はまさに立体的な模型でしかない。
 ロイアはオーガの広大な背中を前方に捉えながら、疾く駆けていた。一刻も早くオーガの元に向かわなくては。しかし、辿り着いた所で一体どうやって事体を収拾させればいいのだろうか? 今、自分の手元には使い慣れた槍はないというのに。
 こういった何の具体性も無い行き当たりばったりの行動は大きく自分の寿命を縮める。ただでさえ、戦闘というものは何が起こるのか分からないというのに、それに更に上乗せ、あらかじめ把握出来る事さえも計画から外すという行為は無謀以外の何物でもない。幾ら機知に富み十分な実力を持っていたとしても、予想だにしない深刻な状況は必ず訪れる。そうならないためにも、前もって最大限の準備を整える事が戦士としての努めだというのに。
 それでも、ロイアは回りくどい準備の時間を取る事は考えられなかった。一分、自分が到着するのが遅れた事で死なせてしまう人がいるかもしれない。そう考えるだけで、一刻も早く、たとえ準備が不十分だとしても戦地に赴かずにはいられないのだ。
 右足を軸に左足で内側に蹴り、十字路を右へ。ようやくオーガの体の中心が視界に捉えられる。
「ん……おい、アンタ!」
 オーガの近くに数名の男性の一団があった。彼らは、それぞれの手に剣や弓を携えている。直感的にロイアは、彼らはこの町の自警団の人間であると悟った。
「どこに行くつもりだ! こっちは見ての通り危険だぞ!」
「一般人は向こうに避難するんだ! 急いで!」
 彼らは口々にそう叫んで、こちらに向かって走り寄るロイアに静止を訴える。だが、ロイアは構わず再加速。
 確かにロイアは外見だけを見れば、本当にどこにでもいそうな普通の女性と代わりが無い。しかしその彼女が、実はアカデミーで槍術を専門的に学んだ戦闘のプロフェッショナルであると、それこそ一般人には到底想像はつかないだろう。
 男達は、どうやらオーガを仕留めようと武器を手にしてやってきたようだ。しかし、これほど近くまで来ていながら一向に戦う様子がない所を見ると、これほどの大型の魔物を前にして完全に気後れしてしまっているようだ。
 やはり、私がなんとかいたしませんと。
「すみません、それを貸して下さい」
 そう言ってロイアは、すれ違い様に半ば強奪する形で男達の中の一人から剣を奪い取った。
「ちょ、ちょっと! アンタ、一体何をするつもりなんだ!?」
「ここは私に任せて下さい」
 ロイアは出来るだけ不安感を抱かぬようにと微笑みを残し、彼らを振り切るようにして再びオーガに向かって走り出した。
 剣なんて一度も使った事がないのだが、武器があるだけでも良しとしなくては。それに、何もオーガを倒す事だけが事体を収拾する方法ではない。
 オーガは背後からのロイアの接近に一向に気づく事無く、また一つ轟音と共に建物を叩き潰した。まるで紙の模型のように、あっさりと天井と床がくっつく。同じ生物とは思えぬほどの圧倒的な腕力だ。
 ロイアは走りながら大きく酸素と魔素を吸い込み、それを活力として足を重点的に循環させる。同時にロイアは更に加速し、額に当たる雨が強くなる。風を切る音だけが聴覚を支配し、全身を濡らす雨の冷たさが思考をクリアにしていく。
「ハッ!」
 オーガとの距離を測ると、気合の掛け声と共にロイアは前方へ大跳躍。ロイアの体は身長の何倍も高い位置にあるオーガの頭の上まで急上昇する。そして、踏み込んだ足から得られた上方向への跳力と下向きの重力がプラスマイナスゼロになった瞬間、ロイアの体は放物線の軌道で降下していく。着地と同時に姿勢を低く保ちつつ石畳を軸足で強く踏み、逆の足で蹴る。ロイアは軸足を中心にぐるっと姿勢を半回転させながら、慣性の法則に従って跳躍した方向に僅かに滑りつつ着地。
 突然現れたその小さなものに、オーガはふと視線を向けた。目の前にいるのは、自分よりも遥かに小さい生き物だ。すぐにその生き物へ攻撃目標を定める。
「来ますか……!」
 ロイアは自分に向けられたオーガの殺気を瞬時に感じ取ると、先ほど拝借した剣を鞘の中から抜き放つ。そして見様見真似で中段に構えた。
『グオオオッ!』
 オーガが地鳴りのような雄叫びを上げながら、その豪腕をロイアに向かって叩きつけた。しかし、ロイアは素早く攻撃の軌道を読み、立ち位置を二メートルほど横にずらす。直後、ロイアが先ほどまで立っていた場所にオーガの拳が深々と叩き込まれ、ドーム状に大きくえぐれた。凄まじい威力だ。あんなものを一撃でも食らってしまったら、幾ら自分でもおそらくは助からないだろう。
 武器が不慣れな剣である以上、攻撃は一点に絞ってヒットアンドアウェイに徹しなければいけない。狙う個所は一点。比較的肉が薄いと思われる脇の下周辺だ。その部位に攻撃を加える事で、単純に体を攻撃するよりも大きなダメージを与えられるはずだ。脇の下は人間、亜人間型共通の急所だ。そこから深い角度でえぐりこめば肺に到達する致命傷を与える事も可能なのである。
 とは言え、オーガの肉体の頑丈さはアカデミーのテキストには赤の太字で要注意と書かれていた。オーガと戦うのは初めてではないが、これまでは全てあの槍、神器ブリューナクを使ってでの戦闘だ。神器の中でも指折りの攻撃力を持つ神器なのだから、オーガの防御力を要注意のものだと実感せずに戦っていた可能性もある。今の武器は槍とは勝手の違う剣であるだけに、何もかもこれまでと同じと考えてはいけない。
 オーガの大きな拳が石畳にめり込んだ瞬間を狙い、ロイアは軸足を強く踏み前進。剣を霞上段に構えて突進。狙うは、右腕を振り抜き無防備になったオーガの右脇の下。
 命までは奪いませんから許して下さいね。
 腰から手首にかけてのラインを激しくしならせながら、剣を槍に見立てた突きを繰り出す。剣先は狙い通りオーガの右脇の下へ吸い込まれるように突進する。
 衝撃。
 が。
「キャッ!?」
 直後、ロイアは右腕を激しく弾かれた。その拍子に、一瞬の間柄を握る握力が失われ、手の中から離れた剣はくるくると回転しながら虚空を舞い遥か後方へ飛んで行く。右腕は肩を支点に後方に弾かれた衝撃でじんと痺れている。自分が繰り出した攻撃の衝撃をそのまま受けてしまったせいだ。
「そんな……」
 ロイアは思わず愕然とした。オーガの耐久力は相当のものだと知ってはいたが、まさかこれほどとは思いもしなかった。幾ら自分の得意とする武器ではなかったとしても、その肉厚にまるで歯が立たなかったのだ。
 オーガは右拳を石畳の中から引っこ抜くと、ゆっくりロイアの方を向き直る。
 まずい。
 その一言が頭の中に浮かんだきり、何も考えられなくなっていた。思っていたよりも精神的なダメージが大きかったのだ。
 とにかく回避しなければ。あんな太く大きな腕で殴られてしまったら、それこそひとたまりもない。
 気持ちは落ち着いてはいなかったが、なんとか体に回避行動を強制させる事には成功する。まずは相手の攻撃に神経を集中させて攻撃軌道を推測、そしてその軌道上から追撃を受けない範囲に移動するのだ。
 突然、ひゅっ、という空気を切り裂く鋭い音が無数に辺りに響き渡る。ハッと思った次の瞬間、オーガの左半身には何本も矢が突き刺さっていた。
「御怪我はありませんか?」
 そして、雨の音の中に凛と響き渡る聞き覚えのある声。
 振り向くと、その先には。黒いマントに身を包んだ者が数名、フォーメーションを組んでボウガンを構えている。そしてその中心には、雨に打たれながらも毅然とした態度で立ちはだかっているアレックスの姿があった。
「ロイアさんは下がっていてください」