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「馬車が来ました!」
 バタバタと慌しく駆けながらそう伝えるメイドの女性。しかし、それを受ける老執事の表情はやけに神妙で感情の起伏が感じられなかった。
「先に避難しなさい。私は所用を片付けてから向かう」
「え? ですが、もうすぐそこまで魔物は来ているんですよ!?」
 凄まじい倒壊音が雨の音を切り裂いて重く響く。今、この音の発信地で魔物が暴れているのだ。これほどはっきりと音が聞こえるという事は、よほど近くまで魔物は迫ってきている事の現れだ。
「いいから急ぎなさい。私の事は構わず、早く避難を」
「そ、そうですか……」
 使用人の間にも上下関係というものが存在する。この老執事は、セーウィアス家に仕えて四十年にもなる。使用人の中では一番の古株で、まだ若い彼女にとって老執事の言う事はどんなに不可解でも絶対なのである。
「それでは、お先に失礼します」
 最後にぺこりと頭を下げると、メイドの女性は再びバタバタと屋敷の外へ駆けて行ってしまった。
 屋敷の中は不気味なまでの静けさに包まれている。今、この屋敷の住人は自分を除き全て出払っている。主人であるアレックスの父親は会社で仕事をしている。おそらくこの騒ぎを聞きつけ、既に避難しているだろう。自分以外の使用人は先ほど全て馬車にて避難した。自分もすぐに避難しなければいけない。
 だが。
 老執事をこの場に足止めている理由は、今はいないアレックスにあった。
 つい何時間か前に仕事から帰ってきたアレックスは、あらかじめ老執事に無断で持ち出して来るように命じておいたロイアの槍を受け取ると、それに重りをつけて中庭の池の底に沈めた。それから間もなく、アレックスは行き先も告げずにまた出かけていってしまった。
 老執事はアレックスのこんな凶行を目の当たりにしたのは初めての事だった。いや、そもそも幼年の頃からアレックスは、ほとんど母親の愛情というものを知らずに育ったにも関わらず、非常に温厚で理知的な性格だった。そのアレックスが理性を失い、自分の思うがままに振舞う事はおそらく生まれて初めてのはず。
 しかし老執事はアレックスを凶行に走らせた原因よりも、今現在、どこで何をしているのかが心配でたまらなかった。町の中では凶暴な魔物が暴れ回っているというのに。アレックスにもしもの事があったとしたら、主人に申し訳が立たない。
 すぐにでもアレックスを探し出さなくてはいけない。それも、可能な限り穏便にだ。出来る事ならば、アレックスの凶行は自分以外の誰にも知られないように配慮したい。今後の彼の事も考えればこそ。一連の凶行も、単なる一時の気の迷いに決まっている。これまでのアレックスが完璧過ぎたのだ。そのため鬱屈していたものが一度に噴出し、こういった形となって現れたのだ。老執事は、たった一度の過ちでアレックスの将来までを潰してしまいたくはないのだ。
 そんな老執事の想いとは裏腹に、アレックスの行方はようとして知れない。探すにも、何の手がかりもなしに魔物が徘徊する町を歩き回るのは危険極まりない。
 この突然の魔物の襲撃に、客人であるロイアは事体を解決しようと先ほど町へ飛び出していった。武器であるはずの槍も持たずにだ。勇敢と言えなくはない行動だが、無謀、もしくは無慮との紙一重でもある。しかし、ロイアをそうせざるを得なかった原因を作ったのはアレックスだ。一体どんな意図があって自分にあんな事をさせたのか。とにかく今は不穏な気持ちで一杯だ。
 老執事は廊下の窓からそっと外の様子を覗いた。相変わらず、ずんと響く地鳴りのような破壊音が途切れる事無く聞こえてくる。音が響くたびに窓ガラスが震え、肌に振動が伝わる。それが、どれほどの怪物が町に現れたのかを何よりも雄弁に物語っている。それを、ロイアは一人で抑えに向かったのだ。幾ら彼女が戦闘のプロフェッショナルであるハンターだとしても、使い慣れた武器なくしては普通の女性と代わりはない。しかし彼女は、ただ、被害を最小限に食い止めようという使命感だけで向かって行ったのだ。
 素手で魔物を抑えられるはずがない。もしかすると、もう最悪の事態が起きているかもしれない。
 全てはあの槍さえあれば解決するというのに。
 どうしてアレックスはロイアから槍を奪わせたのだろう? 理由を考えれば考えるほど、額の奥と、そして胸が痛んだ。
「……アレックス様、私はもう耐えられません」
 と、老執事は屋敷の中から飛び出した。
 玄関から出て一歩天蓋から踏み出せば、すぐさま容赦ない雨が老執事に降りつけてくる。だがそれも構わず、老執事は走りながら途中で上着を脱ぎ捨て、尚も前へ前へと踏み出す。
 向かう先は、アレックスが槍を沈めたあの人工池だ。
 老執事はとにかく走った。水に濡れた芝に足を取られそうになっても、構わず前に突き進んでバランスを無理やり修正する。今、自分がしなければいけないこと。それは、ロイアに一分一秒でも早く槍を届けてやる事だ。
 程なくして老執事はあの人工池のほとりに到着した。
 専門の建築士に作らせたその池は大きくも優雅さを欠く事のないデザインだ。その水深は軽く10メートルはある。それはたとえ泳げるものだったとしても、溺れ死ぬ可能性が十分ある水深だ。老執事はまだまだ現役で執務をこなしてはいるが、体力の圧倒的な衰えは否めない。ただでさえここまで全力で駆けたため息切れをしているのだ。池の中に潜った所で、必ずしも槍を拾う事が出来るとは限らない。
 しかし、かといって躊躇っている暇はない。考える時間さえ今は惜しいのだ。
 老執事は池の淵に立ち、飛び込む位置を見定めようと池の中を覗き込む。
「む……?」
 その時、ふと老執事は踏み切りかけた足を止めて、そのまま池の周囲を見やった。
 池の淵が出っ張って黒ずんでいる。どうやら庭師が掃除を怠ったのだろうか? いや、違う。これは淵が出っ張っているのではなく、池の水かさが下がっているのだ。
 老執事は思わず首をかしげた。この雨だ。水かさが増す事こそあっても、減る事はありえない。
 そっと手を入れてみる。
「っつ……!?」
 咄嗟に手を引っ込める老執事。
 熱い。まるで池の水が熱湯になってしまったかのような温度だ。よく見渡せば、池からは僅かに湯気が立っている。
「これは一体……」
 徐々に立つ湯気が勢いを増す。すると目に見えて水かさが減っていった。あまりの事に慄いた老執事は、一歩、二歩と後退る。
 老執事は、一体何が起こっているのか全く見当もつかなかった。この国は確かに気温が高く、直射日光もあっという間に水を温めてしまうほど強い。しかし、これは幾らなんでも異常だ。太陽はどんよりとした濃い雨雲に隠れて姿が見えない。にも関わらず、まるで池の底で強い火を焚いているかのような勢いで水は温められ、凄まじい勢いで蒸発していく。どう考えてもありえる状況ではない。
 もう一度そっと身を乗り出して池の中を覗きこむ。すると、すっかり水深の下がった池の中心がぼんやりと光っているのが見えた。
「なっ―――!?」
 これは一体何なのだ!?
 思わず目を見張る老執事。
 その直後、
「うっ!」
 突然、辺り一帯を凄まじい閃光が包み込んだ。老執事は咄嗟に目を閉じ腕で顔をかばう。その閃光と同時に、まるで鼓膜を貫き通すような鋭い轟音が一瞬響いた。その音は耳を塞ぐ間もなく、あっという間に天高く飛び去っていった。
 恐る恐る腕を除けながら目を開く老執事。
 一体、今のは何だったのだろう?
 しかし、老執事の目の前には完全に干上がってしまった池が無残な池底をさらしているだけだった。