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「くっ!」
 ロイアが拾い上げた赤と青の結晶のアクセサリーを見るなり、アレックスはすぐさま立ち上がると苦い表情を浮かべた。見られてはいけない物。アレックスの表情はそう物語っている。
「これは……」
「返して下さい!」
 アレックスはロイアの手から強引にそのアクセサリーを奪い取った。
『ウォオオオオオ!』
 オーガが怒りの咆哮を上げながら、仕留め損ねた二人の元へずんずんと石畳を揺らして歩み寄ってくる。「下がって」
 短くロイアに指示すると、アレックスは逃げるどころか逆にオーガの正面へ立ちはだかった。常識で考えれば、非戦闘員が巨大な魔物の前にわざわざ躍り出るなんて正気の沙汰ではない。アレックスは戦闘の経験どころか、武器らしい武器さえ持っていないのだ。
 ……やっぱり。
 にも関わらず、アレックスの意外な行動にロイアは、それを止めるどころか逆に納得した表情を浮かべていた。ロイアはアレックスの持つアクセサリーが一体何であるのか、同じ物をアカデミー時代にテキストで読んだ事があるので知っているのである。
「鎮まれ!」
 アレックスはアクセサリーにつけられている結晶の内、青い結晶の方を握り締めながらオーガに向かって叫んだ。
『グ……グルルル』
 すると、自分よりも遥かに小さなアレックスの声に、オーガはギクッとその場に立ち止まった。まるで自分よりも強い者に何か命令されたかのような反応だ。
「よし、いいぞ。そのまま動くな」
 これまでの暴れようがまるで嘘のように、オーガはアレックスに言われた通りその場におとなしく立ち尽くす。
「魔獣使役……ですね」
 一連の流れを見ていたロイアは、侮蔑とも取れる乾いた声をアレックスの背中に浴びせた。
 アレックスはその問いには答えず、ただそのまま押し黙って背中を見せていた。ロイアはアレックスのそんな態度を、自分の問いに対して肯定の返答と受け止めた。
 アレックスの手にしている赤と青の結晶のついたアクセサリーは、魔物使いが誰にでも魔物を操れるように開発した、簡易型使役器具だ。結晶は自然界に存在する鉱石の類ではなく、ある一定の波長を放つ性質を持つように錬金術で作り出された人工の宝石である。この結晶から放たれた特殊な波長が、使役している魔物に行動命令として伝わる。原理的にはもっと複雑だが、概要は大体このようになっている。後は使役する魔物に合わせて命令体系を合わせていく。このオーガの場合、赤の結晶は”動け” や”暴れろ”などのアクティブな命令を、青の結晶は”止まれ”といった制止命令を与える。オーガは知能レベルが低いため、この程度の命令しか理解出来ないのだ。
「何故です? 何故、こんな事を……」
 あのアレックスが、どうしてこんな事をしたのか理解出来なかった。世界的に非合法とされる魔物使いの技術でオーガを駆使し、町を破壊させるなんて。これまでのアレックスの行動振りからは結びつかない凶行だ。しかも、おそらくかなりの大金を要したであろうそのオーガを、わざわざ狩猟団を雇って殺させようとした。アレックスは町を壊したいのか、それとも守りたいのか。それはロイアの理解を超えた、あまりに矛盾した行動である。
「あなたが僕を追い詰めたんだ……」
 アレックスは震える声でそう静かに答える。
「私が?」
 自分がアレックスを追い詰め、そしてこんな凶行に走らせたというのだろうか?
 ふと、昨夜のアレックスとのやりとりを思い出す。突然の求婚。だが自分は丁重に断った。しかしアレックスはすぐには退かず、なおも執拗に食い下がってきた。それでも私は最後まで受け入れなかった。
 私はアレックスが嫌いという訳ではない。むしろ好印象を持っている。だがそれと結婚の問題は別だ。普通、たとえそれがどれだけ好印象を持てる男性だったとしても、出会って二日で即結婚という訳にはいかない。結婚は一生の問題なのだ。互いを知り合った仲だとしても、ある程度の決断までの時間は必要なのだ。
 そしてもう一つ。私には決して人には言えない秘密がある。もし私と結婚するのであれば、相手の男性は私の背負うこれも一緒に背負わなくてはいけないのだ。だからこそ、私は出来るだけ人とは深入りしないように努めて来た。気持ちが深入りしてしまえば、きっといつか自分の秘密を弱音として吐き出したくなってしまう。そうすれば、その人は否応なく私の秘密を背負わされる事になる。背負い続けるのも投げ出すのも本人の自由だが、投げ出されたら私はきっと疎外感で胸が痛くなるだろうし、投げ出した人も私に負い目を感じるかもしれない。私の事はどうでもいいが、そんな思いを人にさせたくないのだ。
 だから、私はアレックスの求婚は受けなかった。恋愛の対象として意識するには、まだ時期が早過ぎる。そして必ず発展するという保証もない。彼は将来を有望視されている時期社長、私は一介のハンターだ。かならずどこかに不具合は生じるはずだ。その上、私はとんだ厄介事を抱え込んでいる。これらを総じれば、結論はもう一つしかない。無理に通すよりも、深入りする前に退くのが最も賢明な選択だ。
 では、その一つしか選択肢のなかった結論が、アレックスを傍若無人とも呼べるこんな凶行に走らせたのだというのだろうか? しかし、一体どんな意図があるというのだろう。
「あなたは確かに優秀なハンターかもしれません。こうして魔物の襲撃に、武器もないというのに勇敢にも止めにやってきたのですから。しかし、あなたは槍がなければ無力な一人の女性だ。現にあなたは、魔物に対して手も足も出ませんでした」
 そしてアレックスは振り返り、ゆっくりとロイアの元へ歩み寄る。その手にはしっかりとあのアクセサリーが握り締められており、今更ロイアにそれを隠そうとはしない。
 アレックスの言葉に、ロイアは思わずハッと表情を変えた。自分がセーウィアス家に戻った時、既に部屋の中から槍は持ち出されていた。だが、あの老執事もその事は私に言わなかった。つまり、槍が持ち出された事はまだ誰も知らなかったという事だ。にも関わらず、アレックスの態度は槍を持たずにここにやってきた自分を疑問に思うどころか、まるであらかじめ知っていたかのようなものだ。すなわち、アレックスが部屋から無断で槍が持ち出された事を既に知っていたという事になる。
 では、どうしてこうも平然としていられるのだろう? 普通、客人である自分の所有する物が無断で持ち出された事を知ったら、すぐさま何かしらの手を打つはず。少なくとも騒ぎにはなってもおかしくはない。それなのに、この落ち着きよう。まさか、部屋から槍を持ち出した犯人は―――。
「どうして槍の事を……まさか」
「僕にはあなたを守る力もある。全てはそれを証明するためです」
 ただただ唖然とするロイア。目前で悠然と立ったまま自分を見つめるアレックスの表情は、既に正気のものではない。身震いのするような、凄惨な薄ら笑みを浮かべたその表情。とても正視し難い。
 重ねて、ロイアには信じられなかった。魔物使いと契約し、使役した魔物に町を襲わせただけでも信じがたい事実だというのに。おそらく自分がその魔物を止めに向かう事をあらかじめ予測してか、まるで妨害工作のように槍を無断で持ち出すなんて。それも、あのアレックスがだ。
 見た目の印象には、脅迫などの第三者が介入している様子はない。明らかに全て自発的に行った行為のようだ。それと同時に、アレックスの一連の凶行への符合性が見えてきた。”そう”考えれば、アレックスが取った行動の真意も理解できる。
 しかし。
 ようやく導き出した答えに、ロイアの胸中は見る間に煮え繰り返るような思いに包まれていった。それでも僅かに残った理性で、体が怒りに支配されないように懸命に繋ぎ止める。
「そのためにこんな事を?」
「こんな事? 僕にとっては大切な事です。そんな言い方をされるのは心外ですね。僕はあなたの事を真剣に想っているからこそ―――」
 パアン!
 その刹那、雨の音を切り裂き鋭い音が辺りに響いた。
 アレックスは唖然として目の前のロイアを見ていた。頬がじんわりと痛む。目の前には右の手のひらを構えたロイアの姿。終始穏やかだったその表情は、静かながらまるで烈火のような荒ぶる感情を内に秘めている。それに伴って目つきは険しく、言葉にならない感覚的な圧迫感が心臓を鷲掴みにする。その姿からは想像もつかない圧倒的な迫力だ。
「いい加減にして下さい! そんな下らない事のために!」
 そして、ロイアは声を荒げて怒鳴った。アレックスは一瞬、自分が使役していた魔物よりも遥かに獰猛な存在と対峙したかのような錯覚に捕らわれた。一気に気持ちは萎縮し、ロイアの放つ雰囲気に圧倒されてしまう。しかし、そのままアレックスは黙り込みはしなかった。一度は萎縮した自分を再度奮い立たせると、固くこぶしを握り締めて己を鼓舞し反撃に転じる。
「下らない!? 僕は本気だ! 昨夜だってあんなに真剣に説得したというのに、あなたははぐらかすばかりでまともに聞いてくれなかったではないですか! あなたこそ、一体何を考えているんです!? あなたにとっての僕は何なのですか!?」
 まるで嘆き悲しむかのように叫ぶアレックスのその言葉は、今のロイアには実に耳痛かった。元々ロイアにはアレックスに限らず一つの場所に長居するつもりはなかったのだ。それが結果的に人を傷つけると知っていながら、あえて気づかない振りを今まで自分にさせていたのである。
 けれど、今はそんな自分への後悔を遥かに上回る激しい怒りが胸に渦巻いている。
 ロイアは魔物使いというものを違法性云々とは全く別に心から嫌悪していた。その理由は、魔物といえど同じこの世に生まれた尊い生命である、というロイアの自論から来ている。同じ生命である魔物をまるで自分の手足として操り、用がなくなればゴミのように使い捨てる。そんな道徳観念に背を向ける行為を当然のように行う魔物使いの存在自体、ロイアは許せないのだ。最も、憎むべきは魔物を行使する人間ではなく、魔物を使役する技術そのものであると頭の中では理解しているのだが。生命の価値のというものを身を持って実感しているロイアは、生命を冒涜するものに対して熱くならずにはいられないのだ。
 荒ぶる気持ちを必死に抑え、冷静さを取り戻すように自分に言い聞かせる。それでも感情の波は激しく、覆い潰されなかった理性はほんの僅かだ。
「昨夜の私の態度がお気に召さないというのなら謝ります。けど、これは私達の問題であって、何も町を巻き込むいわれはないでしょう? それに、たったこれだけの事で殺されなければいけない魔物の事も考えて下さい。私は人間として恥ずべき行為だと思います」
「魔物の事? たかが魔物の事を、どうしてそこまで考える必要があるというのですか。魔物は人間にとって有害な存在以外の何物でもない。幾ら殺そうと誰も咎めませんよ。第一、ハンターであるあなたこそ、我々よりも多くの魔物を殺しているのではないのですか?」
 まるで体を射抜くような鋭い言葉。一瞬、ロイアは反論の言葉を失う。しかし、それでも引き下がらなかった。たとえ自分も同じように魔物を殺しているとしても、圧倒的にアレックスとは違うものがあるのだ。
「違います! 私が言いたいのは、個々の命に対しての姿勢です! どうしてそんなに軽々しく命を奪えるのですか!? 魔物でも、あなたに利用されて殺されるためにこの世に生まれ出でたのではありません!」
 アレックスにはロイアの考えている事が理解出来なかった。どうしてハンターのクセにそこまで魔物の肩を持つのだろうか。ロイアの背負う架を知らないアレックスには分かりえない考え方だ。
 全ての命を尊ぶ者と、同じ種族を尊ぶ者。どちらも同じ人間でありながら、考え方にはこれほどの差異がある。人類の意識を一意に統べるという事は、過去に幾人も挑んだ英雄英傑が存在する。しかし、土地土地の環境や文化思想の違いは根強く、結局皆断念せざるを得なかったのだ。人は同族でありながら決して同じ者は居ず、時には同族とは思えぬほどの価値観の格差が存在する。
 互いに言葉を失い、沈黙したまま見つめあう。それは決して温かなものではなく、相手を説き伏す、論破する、といった刺々しい感情に包まれている。
 体を打つ雨の感触は二人に届いていなかった。互いに全身ずぶ濡れになり、酷く寒気を感じているにも関わらず、それを一向に口にはしない。
 ―――と。
『オオオオオオ!』
 突然二人の沈黙を破り、辺りにオーガの咆哮が響き渡った。
「ッ!?」
 自分は”動け”という命令をした憶えはないのに。アレックスは驚いて背後のオーガの方を振り向く。
『グ……オオオオオオ!』
 オーガは苦しげに胸を強く掻き毟っていた。あの太い指先を守る鋭利な爪にさらされたオーガの胸は見る間に血で赤く染まる。
「止まれ! 誰が動けと言った! 止まるんだ!」
 アレックスは制止命令を送るための青い結晶を握り締め、そうオーガに叫ぶ。オーガは結晶から発せられた波長を受けて僅かにたじろぐも、またすぐに苦しげに胸を掻き毟る。
「まさか、先ほどの毒矢のせいで……?」
 アレックスのその予感は的中していた。オーガにとって、その結晶から発せられる波長の命令は絶対だが、強力な毒に体を侵され極度の生命の危機に立たされたため、生まれ持った防衛本能が命令を凌駕してしまったのだ。
『オオオオオオ!』
 制御を離れ暴走を始めたオーガが右腕を高々と振り上げた。
「危ない!」
 即座にロイアは飛び出した。瞬間的に取り込んでいた魔素を体に循環させて筋力を強化すると、背中からアレックスの体を抱え上げてその場から飛び退く。
 凄まじい破壊音が後ろからビリビリと鳴り響いた。その直後、まるで魔術のような爆風が後ろから襲い掛かり二人を吹き飛ばしていく。
 濡れた石畳の上を、二人は折り重なりながら二度三度バウンドし、転がっていく。オーガは吹き飛ばした二人など確認もせず、再び、これまでよりも更に激しく暴れ始めた。今のオーガには微塵の理性も感じられなかった。もはや、全ては死への苦しみから逃れるための足掻きにしか過ぎない。だがその足掻きは、人間の作った町を容易に破壊していく。
 くっ……。
 転がりながらもなんとか体勢を立て直すロイア。抱えていたアレックスの無事を確認しようと目を向けると、アレックスはぐったりとしたまま動かなくなっている。呼吸はしており、体に外傷は見当たらない。どうやら今の拍子に頭を打ちつけたらしく気絶してしまったようだ。
 オーガは怒り狂うというよりも、生きるために必死に抵抗しているように思えた。その死に物狂いの力で自分に向かってくる。今の自分に、それを受け止めるだけの力はない。
 アレックスの言う通り、自分は槍がなければただの一般人と変わらない。志だけでは何も為しえない事は、ハンターになってから今までの間に嫌と言うほど思い知らされてきた。何かを成すには、理屈や主義思想よりも絶対的な力がなければいけないのだ。力のない正義は正義と呼べない。そんな苦い言葉が頭を過ぎる。
 アレックスの手を見ると、あのアクセサリーの姿はなかった。気絶した時にどこかへ放り出されてしまったようだ。これでアレックスの制御を離れたオーガを止める手段は、もはや一つになってしまった。しかしそれは、今の自分には絶対に不可能な手段だ。体は動く。体力の余裕もある。だが、肝心の武器がないのだ。
 槍さえ、ブリューナクさえ居てくれたら……。
 武器さえあれば、あのオーガを止める事が出来る。しかし、それがない今、自分に出来る事は何一つない。このまま、オーガの体の毒が回りきり絶命するまで待つしかないというのだろうか?
 と。
 突然、鼓膜を引き裂くかのような鋭い音が耳に飛び込んでくる。ハッと上を見上げた瞬間、目の前が眩しい光に包まれる。反射的にロイアは腕で目をかばった。
 直後、先ほどのオーガの一撃とは比べ物にならないほどの破壊音と、肌を焼き焦がしそうなほどの熱が辺りに充満する。
 ゆっくりと手を除けて前を見る。すると、自分とオーガとの間に巨大なクレーター状のくぼみが出来上がっていた。しかし、その様子は明らかに尋常ではなかった。えぐれた石畳の破片の姿は周囲にはなく、そしてくぼみの縁の石畳は真っ赤になっている。周囲にはもうもうと水蒸気が立ち込めており、状況から察するに何か常識を外れた高熱が落下してきたかのようだった。
 豪雨に打たれて徐々に水蒸気が晴れていく。そしてゆっくりとくぼみの中心が見えてきた。
 そこには、一本の黒い柄を持った槍が突き刺さっていた。
「ブリュー……ナク?」