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 アレックスは、倒れたオーガの巨体が起こした地震により、ふと意識を取り戻した。
 自分の体を冷たい雨が容赦なく打ち付けている。寒い。何故、自分はこんな雨の中、外で眠っているのだろうか。意識が酷く混濁していて、うまく記憶の前後の辻褄が合わない。
 ゆっくりと雨に濡れて冷え切った体を起こして立ち上がる。と、急に後頭部に鋭い痛みが走り思わず顔を歪める。恐る恐る痛みの走った個所へ指を伸ばして触れてみる。するとそこは僅かに膨れ上がっていた。どこかにぶつけたのだろう。
 冷え切った体は節々が軋んで痛み、カタカタと自分の意志を無視して震える。一刻も早く温かい場所に行って濡れた服を着替え、何か温かいものでも飲んで体を温めたかった。しかし、今の状況が分からぬ以上、律儀にもアレックスは状況把握を優先させ、その場に立ち尽くしたまま頭を悩ます。
「気がつきましたか?」
 と、ざあざあと石畳を打つ雨の音の中に女性の声が凛と響いた。視線を向けると、その先には一人の女性が自分と同じように雨に濡れた姿で立っていた。長く伸びた美しい金髪は振り乱れていて、あのつややかな面影は見当たらない。
「あ……ロイア……さん?」
 その金髪に、アレックスは彼女の名を思い出してうめくように呟いた。
 彼女を見るなり、その刺激によって記憶が急速的に蘇ってくる。自分と彼女は何時どうやって出会った事から、こんな雨の日に傘も差さず石畳の上で二人立ち尽くしている所までの経緯を断片的ではあるが思い出していく。それをゆっくりと繋げる暇はなく、ただただ自分の置かれている立場というものを受け止めるのに精一杯だった。
 と―――。
 突然、空気を切り裂く鋭い音が辺りに響き渡った。鼓膜に突き刺さるようなその音に、アレックスは思わず苦い表情で耳を塞ぐ。
 ロイアは平然とした表情のままゆっくりと中空に右手を抱え上げた。そして、まるで何かを掴もうとしているかのように手のひらを開く。その次の瞬間、アレックスの視界を目映い光が包み込んだ。反射的に腕で顔をかばうアレックス。
 一体何が起こったのだろうか?
 そんな疑問が頭を過ぎったが、何時まで経っても何の物音も聞こえては来ない。数秒間その体勢のまま、これ以上待ち続けても何も起こらないと判断すると、恐る恐る腕を退けて前を見やる。すると、天に掲げられたロイアの右腕にはいつの間にか一本の黒い槍が握り締められていた。
 それは、槍闘士であるロイアが得物とする武器、魔槍ブリューナクである。その槍をアレックスは、ロイアにとって、ハンターとして生計を立てていくには必要不可欠で、何より自身の強さの証明であると認識していた。しかし、その両者が見当外れである事をアレックスは知らない。ロイアは自分の強さを証明するものは必要とせず何の誇りも抱いていない。大半の戦士がそうであるように、武の道を歩む者は終わりのない求道者だ。その命題には辿り着けない事を知っていながらも、何かを感じるために突き進んでいくのである。大事な事は力や名声よりも、自分が成し得た事なのである。
 ロイアにとってのブリューナクは、自分の体を保つだけに留まらぬ存在である。それはある種の憐憫や同情でもあり、また、周囲と交われないという共通の境遇を持つ互いへの近親感でもある。だからブリューナクが姿を消したあの時、ロイアが抱いた感情とは自分が戦えないという恐怖よりも、仲間を失ってしまったという喪失感の方がより近いのだ。
「それは―――!」
 槍を見た途端、アレックスただでさえ雨に打たれて体温を奪われた色の悪い顔色を更に青ざめさせた。アレックスはロイアの留守中に部屋から槍をこっそり持ち出させ、自ら重りを縛りつけ庭の池の底に沈めたのだ。その事実を知るのは、自分とあの老執事だけである。いやしかし、たとえ老執事がロイアにその事を打ち明けたとしても、あの深い池の底からそう安々と引き上げられるはずはない。池の底全てを捜索するには、池の広さを考えてもかなりの時間を要するのだから。
 しかし、一体いつの間に現れたのだろう? 確かに先ほどまではロイアの手の中には何もなく、周辺にも槍の姿はなかったはずなのに。
「あなたでしたか」
 こんなに雨に濡れているにも拘わらず、酷く乾いた眼差しを浮かべてこちらを見つめるロイア。だがアレックスは、ロイアの視線の痛みに耐え兼ねて顔を下へ背けた。
「どうしてそれがここに……」
 信じられないと言いたげな口調のアレックス。自分が犯人である事を自白し肯定する発言である。だが、それを受けるロイアの態度は実に淡々としていた。怒りの色も悲しみの色もなく、ただ淡色だけがありありと浮かんでいる。
「この槍も、そして私も。普通ではありませんから」
 仮面のような無表情だった。しかし、その眼差しにはどこか自嘲めいた悲しい色が見え隠れしている。厭世的な雰囲気を、アレックスはロイアから感じ取った。正確には自己嫌悪なのだが、ロイアの事情をほとんどを理解出来ないアレックスはそう錯覚してしまったのである。
 ロイアはアレックスに背を向けると、静かに石畳の上に伏す巨躯の元へ向かった。その巨躯は人間と似た四肢を持っていながら、肩から上が綺麗に切り取られたように消え失せている。切断面はあまりに鋭利で未だに一滴の血も流れてこない。
 その、本来首があるべき所へロイアは歩み寄ると、一度ブリューナクを石畳の上に突き刺して両手を自由にし上着を脱ぐ。そして脱いだ上着をオーガの肩付近へ静かに被せた。隠すものなどそこには存在していないのだが、まるで存在していない事を隠すかのような行為に見えた。
「これは一体……」
 アレックスは頭の痛みにこらえながら、額に張り付く前髪を後ろへ掻き上げる。
 確かあの巨体は、自分が魔物使いと契約して買った魔物の体だ。しかし、今はどういう訳か頭を失って動かなくなっている。ロイアがいつの間にやら槍を取り戻している事から、まさか魔物を仕留めたのはロイア自身なのだろうか?
「見て下さい。あなたは何も感じませんか?」
 ロイアは背を向けたままアレックスにそう問い掛ける。
「この魔物は、私達人間の都合でこういう末路を辿る事になったのですよ? この魔物に罪はありません。悪いのは私達人間です。それなのに、誰一人として殺された魔物には哀れみの気持ちも抱かないのですよ? その事実をどう思うのですか?」
 淡々としたロイアの口調。それは怒りを押し殺すが故にそうなってしまっているのだ。
 しかし、アレックスはそれでもロイアの怒りを理解出来なかった。低能な魔物なんて、所詮は家畜と大して変わりはない。それが法律で禁止されているか否か、そして使用目的はどうなのか、といった程度の違いしかないのだ。
 自分は大金を払う事で魔物使いと正式な契約をし、この魔物を手に入れた。よってこの魔物は自分の所有物であり、どう扱おうが全て自分の勝手だ。食肉用の動物を飼育する酪農家が、ある程度育った動物を殺しても誰からも文句を言われないのと同じように。
「僕には……僕には分からない! どうしてあなたはそこまでするのですか!? 魔物なんて、人間にとってはどうでもいい存在なのに!」
 ロイアの問いかけに対し、アレックスはそう逆に問い返した。更に積み重ねられたロイアからの理解に苦しい言葉に、アレックスはまたも感情を爆発させた。これまで、アレックスの周囲を取り巻いていた言葉は実に明瞭としていた。それが資本主義思想に染まり、全てが利益という単体で理由づけられるからだ。だからこそ、ロイアの感情論をアレックスは理解する事が出来なかったのである。
 だが、
「あなたにとってどうでもいい存在とは、自分に益ではない存在全てが当てはまるのですか?」
 思わぬロイアの言葉に不意を突かれ、アレックスはその場にたじろいだ。だがすぐに自らを鼓舞し、なおも反論を続ける。
「だから……だからどうしたというんですか? 僕はこれまでそのように教育されてきたんです。だからそれが正しいと思っているし、今でもそれは変わりません」
「変わらない事は、幸せですか?」
「企業は安定した利益を得るために存在します。変わらないのは当然でしょう?」
 しかし、ロイアはゆっくりと首を横に振った。
「あなたは、そういった正しい論理や物事のあり方を導き出される結果だけを理解しているにしか過ぎないのです。あなたは全ての筋道も理解していますか? 間違いへ辿り着く筋道を知らなければ、正道は見極められないのですよ? 多くの間違った答えを知っている人こそが、本当に正しい答えを知っているのですよ」
「だったら、あなたの言う正道とはなんですか!?」
「分かりません。分からないから私は求め続けるのです。何度も行き当たり、挫折しかけたりの繰り返しです。私は全てを理解し、正しい道に導く事が出来る聖人君主ではありません。けれど、これだけは言えます。あなたの犯した行為は、絶対に間違っています」
 そこでロイアの言葉は途切れた。
 雨に打たれながらロイアは、ただじっと石畳の上に伏すオーガを見つめていた。それは一体どのような表情で見ているのだろうか。アレックスはそんな疑問を浮かべたが、今の自分の立ち位置からはロイアの表情は見る事が出来ない。
 やがて。
 そっとロイアは右手を自らの目元へ伸ばした。その仕草に、アレックスはより大きく肥大した罪悪感に打たれ、思わず胸を押さえる。
 ロイアの言う、自分の過ちというものはまだ理解する事が出来なかった。けれど、その過ちの存在が決して幻想ではない事に、確実にアレックスの理性は気づき始めている。これまで同じ場所を巡回していた自分の価値観のレールが、今、僅かだが確かに歪んだ。
「……泣いているのですか?」
 恐る恐る、アレックスはそう問い掛ける。
「いえ……雨が目に入っただけです」
 ロイアは小さな声でそう答えた。しかし、こちらは決して振り向こうとはしない。今の返事はきっと嘘だろう。そうアレックスは思ったが、それ以上口に出す事はしなかった。
 何故、彼女は涙を流すのだろう?
 僕があまりに理解に乏しいから?
 大切な槍を隠したりしたから?
 魔物を殺してしまった事を悔やんでいるから?
 軋み始めた価値観の中で、再度自らにそう詰問する。しかしアレックスにはロイアの涙の理由に辿り着く事は出来なかった。答えは薄っすらと微かに自分の奥にはある。だが、これまでの価値観による固執と、理解してしまう事への恐怖がその行く手を阻んでいる。
 ロイアはただ純粋に悲しんでいた。それは、大半の人間による心ない考え方により、同じ生命が蹂躙される事を当然とする風潮に対しての悲しみだ。
 自分は決して生き物を殺さない訳ではない。どんな人間でも、何かしら他の命を犠牲にして生活しているのだ。けれど、戯れに命を奪った事など一度もない。全ては自分の糧とするために奪った命だ。そしてそれら多くの命の上に自分が成り立っている事も忘れた事はない。そんな当たり前の事が、今の世の中は何故か軽視されがちになっている。その原因の一つとして、流通業の発展が上げられる。これまで自給自足の生活をしていた人類だが、商業が確立した時、金さえあれば自分が動物を仕留めずとも肉を手に入れられるのだ。それにより、動物の命を奪う事がどういうことかを目の当たりにする機会が失われ、命そのものを数字でしか考えられなくなっているのである。
 生命とは不変でありながら決して不滅になりえないものだ。だからこそロイアは、今一度森羅万象に息づく生命に対しての人類側の姿勢を見直させたいのである。無論、人類の意識を一意に統一する事など不可能だと分かっている。けれど、最低でも自分の周囲だけではそんな事を起こしたくはなかった。今のように自分の力が及ばず、蹂躙されて無念の内に死んでいく命を見届けるのは、自分の果てしない無力さを目の当たりにさせられているようであまりに辛い。
「今すぐに考え方を改めろと言っているのではありません。ただ、ほんの少しだけ。自分の価値観の庭から足を踏み出してください。そうすれば私の言った事も理解できます」
 そして、すうっと一度大きく息を吸い、吐く。まるで自らを落ち着けるように。
「ほんの少しでいいんです。魔物にも、哀れみを持ってあげて下さい。同じ世界に生きる、同じ生命なのですから」