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「はふぅ……」
「はふぅ……」
 翌朝。
 いつものように私の両腕にそれぞれ絡み付いているエルとシルは、そっくり同じ仕草とタイミングで大きなあくびをする。どうやら昨夜のベッドはあまり合わなかったらしく、それほど深い眠りは得られなかったようだ。起床は普段と同じ時間だったが、今朝からこんなあくびを繰り返している。多少睡眠時間が足りなくとも日常の生活には支障ないが、眠気を感じない理由にはならない。
「眠いなら、午前だけでも眠った方がいいんじゃないか?」
「大丈夫でぇす」
「大丈夫でぇす」
 そう、慌ててすぐさまあくびを噛み殺し、まるで何事もなかったかのように取り繕っては普段通りの明るく軽快な口調で答える二人。人生という長い目で見れば、時間はまだまだたっぷりとあるというのに。それでも今日という日に遊ぶことを執拗にこだわる二人に、私はこらえきれずに笑みを浮かべてしまう。一度決めたらがんとして譲らない。まるで、幼いながら頑なに意思を貫き通す、子供そのもののようである。
 午前中の街は閑散とした印象を拭えない。昨晩行き交っていた人々は皆仕事を始め、商人は既に次の街へ出発、ハンターはギルドから受けた賞金首を探して出かけている。人々は皆日々の生活の糧を得るため、各々が多種多様の生業に励んでいるのだ。そのため、私達のように遊びがどうこうと街路を歩く人間などはいるはずがないのだ。
 朝の空気は実に澄み渡って心地良い。夜の間に空気中の埃が地面に沈滞していくからだろう。
 かつて私の体が病弱だった頃、私は空気が僅かに淀んでいるだけでも咳き込みがちだった。そのため思い切り深呼吸が出来たのは、今のような日が昇って間もない時間帯だけだったのである。今は空気に気をつけながら呼吸する必要はないのだが、その頃の気持ち良さを体は憶えているのだろう、この時間帯は心なしか体の調子も気分もいい。
「ねえ兄様、どこに行きましょうか?」
「ねえ兄様、どこに行きましょうか?」
「そうだな……。む、そういえば、この街の名物となっている『五菜焼き』なるものをまだ食べていなかったな」
 この近辺で採れる五種類の野草を小麦と卵で作った生地に練り込み焼いたものだ。なんでも、一度口にすれば寿命が十年延びる逸話があるそうだ。真に受けている訳ではないが、私自身、そういったことに藁をも掴んでいた時期があり、習慣とでも言おうかどうしても食いつかずにはいられないのである。
「もう、朝ご飯は先ほど食べたばかりじゃないですか」
「もう、朝ご飯は先ほど食べたばかりじゃないですか」
 だったな、と肩をすくめて微苦笑。私はともかく、二人にはまだまだ間食は早すぎる時間帯だ。私は身に付けた神器の副作用で尋常ならぬ食欲を持っているが、エルとシルはごく普通の、それもスタイル等を気にする年頃の女性だ。
 まだ時刻も早いためか、開店準備に追われている店がぽつりぽつりと目に入る。特に営業時は華やかな印象を振りまいている服やアクセサリー等を扱う店は驚くほど準備時の姿は地味で暗く、意識しなければそれがそうであると目に止まらない。
「やっぱり、まだ早いみたいですね」
「やっぱり、まだどこも準備中ですね」
 エルやシルが目的としていた店、アクセサリーや化粧品関連を取り扱っている店だが、それらは皆軒並み準備中だ。他の店に比べてこういった店は開店が比較的遅い。ターゲットとしている客層が午前中よりも夕方からそれ以降に店を訪れるからだ。こんな時間に店を開けても訪れる客など皆無と言っていいだろう。そういった意味で我々ハンターは、一般的な職で生計を立てている人間に比べてかなり特殊な人種という事になる。勤務時間も不定、住居も不定、仕事内容も大まかには不定。挙句には収入すら不定なのだから。
「ほら。だから、先に五菜焼きを食べに行こう」
「む〜、でもエルはお腹は空いてません」
「む〜、でもシルもお腹は空いてません」
「分かったよ。それじゃあ、しばしこうして歩いてみるとするか」
「はぁい」
「はぁい」
 再びぴったりとくっついたまま、私達は閑散とした歩道を歩いて行く。まあ、こうして歩いているのも悪くはない。ただ歩くだけでも広い街並みは十分過ぎるほど目を楽しませてくれるからだ。
 そういえば、最近はあまり魔術書を読んでいない。特別忙しかった訳ではなかったのだが、どうにも魔学誌を見かけても手に取る気にはなれなかったのだ。一週間前のあの時、私は不覚にも魔素をコントロールしきれずに自らを暴走させてしまった。それからしばらくの間、魔術を使う事を本能的に一度躊躇う期間が続いた。もしかするとそれと同じように、魔術に関連するものを体が本能的に避けたのかも知れない。
 私達は世界各地を転々とする生活を送っているため、本のようなあまり実用性のない嗜好品を持ち歩く事は出来ない。そのため滅多に本を買う事はなく、買ったとしても読み終えるなりしかるべき場所や人物に譲渡するなどして処分してしまう。私は一度憶えた事柄は二度と忘れない。そのため本を繰り返し読む必要性はないのだ。そして本を一冊読み終えれば、そこに記載されていた情報や知識は私の武器の一部となり、いつ何時かまでは分からないが、必ずや何らかの役に立つ。本はいわば情報という武器の断片なのである。読書は私にとっては趣味の他にも、自らの武器をより強固にする意味もあるのだ。
 よほど大きな街でなければないのだが、図書館があれば私は読書のためだけに数日間予定を割く事がある。普段はあまりじっくりと取り組めない読書に思う存分浸るという事もあるが、図書館には数多くの書物が分かりやすく分類されているため、効率のいい知識の貯蓄が出来るのである。私は生まれてから数え切れない冊数の本を読破してきたが、未だに本の集まる場所に立ち寄るとこれまでに読んだ事のない本を数多く見つける事が出来る。しかも記載されている情報はほとんど重複していない。
 と。
「あ、兄様。あれを見てください」
「あ、兄様。あれを見てください」
 ふとその時、エルとシルが私の腕を引っ張りながら前方を指差す。私はその方へ視線を送ると、そこには数名の人だかりが出来ていた。普段の通行量ならば気がつかなかったであろう小さな溜まりだが、この閑散とした今の時間帯では嫌でも目に付く。
「少し見てみるか」
 あまり野次馬根性を旺盛にするのは品性的にも好ましくないのだが、かといってこういった身近な物事の変化にあまりに無関心になるのもいけない。少なくとも、いつ、どこで、どんな事があったのか、その客観的な事実だけでも押さえておくことが肝要である。それが後にどのような大事の引き金になるか、現時点では必要となる情報を選択する事が出来ないからだ。
「可哀想になあ……」
「まだ、こんなに小さいのに」
 人々はそうしきりに囁きあっている。周囲が静かな事を意識しているのか、やけに声のトーンが抑えられている。
 一体、彼らは何を囲んでいるのか。
 私は人々の間からそっと中心を覗き見た。
 ―――!
 そこで見たもの。それは、路上に転がる二つの小さな子供の体だった。男の子には体中に殴打されたような痣が浮かび上がっている。しかしそれでも妹を守ろうと、しっかりかばうような体勢を取っている。だが、その妹もまた兄の腕に守られつつも事切れている。
 路上に転がるその二人は、昨夜私が金貨袋を投げ与えたあの子供だった。きっと私との一部始終を偶然に目撃し、そして奪い取って行ったのだろう。たかが子供、金貨袋を奪い取るなど大人ならば造作もない事だ。力の差は歴然としている。文字通り、赤子の手を捻るようなもの。それに街の人間も、自分の子供ならばともかく、身寄りのない浮浪児の一人や二人、往来でのたれ死んだ所で大して騒ぎなどはしない。
「それにしても自警団はまだか? ったく、誰の金で食っていると思ってるんだ」
「まったく物騒な世の中だな」
 子供の死体を囲みながら、そう愚痴をこぼす群集。
 だが、一人として子供達に手を差し伸べる人間はいなかった。そう、ただただ哀れみの言葉をかけるだけだ。怒りの矛先は漠然と犯人に向けられてはいるが、そんなもの、所詮は儀礼的なものにしか過ぎない。本当は怒りも悲しみもなく、ただ自分は浮浪児の死にこう思っているんだと第三者に意識される事を前提にして、そんな感情を演じているだけなのだ。下らん、偽善にすら劣る行為だ。これがごく当たり前の事として日常的に行われている。それはつまり、世の中にはそれだけ下劣な人間が多くのさばっているのだ。いや、そもそも人間という種自体が下劣なのだろう。
「行くぞ」
 私は腕に絡むエルとシルを引き、その場を足早に後にする。
 二人もまた、群集が何を囲んでいるのかを目の当たりにしていた。子供が死んでいる事実にいささかのショックを感じたのだろう。あれだけはしゃいでいたのに、今ではそれがまるで見る影もない。
 私は、あの子供達に同情の念こそ抱きはしたが、それ以上の感情は芽生えてこなかった。当然だ。弱い者は死ぬ。それがこの世の絶対の摂理なのだ。守ってくれる存在の登場は期待するだけ無駄だ。自分を守るのは自分だけ。生き延びたければ、より強くなるしか他ない。
 非情?
 だが私達は、そうやって生きてきた。忌子として両親にすら忌み嫌われてきた私達は、自分自身の力でしか自分達を守る以外なかったのだ。
 そして私達は力を求めた。如何なる存在にも屈しない絶対的な力を。力は決して裏切らない。強大な力は必ず私達を守ってくれる。私にとっては、エルとシルに次いで信用できるものである。力が私と、大切な二人の妹、そして私達の自由な意思を守ってくれる。これは揺るぎ様のない事実であり、異を唱えては詭弁を弄した所で私達の意思は少しも変わりはしない。
 全ては生きていくためだ。
 生きていくため。
 力を求めるとは、そういう事なのだ。