BACK

「兄様!」
「兄様!」
 と。
 樹木の根元にもたれながら、意識が現実と夢の境界線を揺れ動く感覚に身を委ねていたその時。エルとシルが揺れる意識を現実の側へ一気に引き寄せる。
「む……」
 私はゆっくりと眠気を振り払うように重いまぶたをこじ開けると、エルとシルの声がしたすぐ頭上を見上げる。
「何やら妙な感じなんです」
「何やら妙な感じなんです」
 私達は今、クリムゾンサイズ陣営付近までやって来ていた。
 クリムゾンサイズは、聖都騎士団の駐屯基地から直線距離でおよそ二十キロメートルほどの地点に居を構えていた。通常、こういった反政府組織というものは人目につかぬよう様々なカモフラージュを施して潜伏しているものだが。昨夜の未明、ここに到着した私達がまず目にした彼らの拠点地は実に驚くものだった。
 およそ五百メートル四方に渡って森を切り開き、高さは十メートル近い塀で周囲をくまなく囲んでいる。その中には三つの二階建ての仮設的な建物と、各方角に向けられた見張り台が建てられている。クリムゾンサイズはおよそ二千人規模の組織という事らしいが、どうやらそれが全てこの地点に集中しているようだ。随分と不敵なものである。幾ら勝算があるとは言えこれほど堂々と構えられてしまうと、ああだこうだと一つの事を決めるだけでもとやかく議論する騎士団の方が遥かに矮小な存在に思えてくる。
「ふむ。とりあえず見てみるとするか」
 私はゆっくりと体を起こすと、脱いで体を覆うようにかけていた上着を着直す。こんな寒空の下で仮眠を取るなど、これまでの私では考えもつかなかった無謀な行為だ。だが、今ではこの程度の寒さなど身体機能には何ら影響を及ぼす事はない。
 少しでも休んでおいた方がいいだろうと仮眠を取ったのだが、やはり元々あまり寝つきの良くない体質が災いし、中途半端な睡眠がかえって頭を重くしている。油汚れのように粘着質な眠気がこびりついて離れない。これが覚めるにはまだ時間がかかりそうだ。
「あ、兄様。襟が曲がってます」
「あ、兄様。襟が曲がってます」
 そうエルとシルが私の襟へ手を伸ばして綺麗に整える。気がつかなかった、というよりも、元々私にはこういったことを注意する習慣がない。その分、エルとシルが人並以上に鋭く気づいて甲斐甲斐しく世話をしてくれるので何ら問題はないのだが。
 私は注意深く周囲に気を配りつつ、エルとシルに連れられて茂みを抜ける。
 我々は、丁度居住地帯が見渡せる断崖の奥に待機スペースを陣取っていた。地形的には少々変わっているが、おそらく太古の昔にこの森林地帯に何らかの要因で大規模な地殻変動が起きたために地層が断裂したのだろう。どれほど昔に起こったのかは、断崖の地層を調べれば判明するだろうが、あいにく今はそんな事を確かめている時ではない。
 鬱蒼とした森の奥に、鋭く突き刺さるような眩しい光が差し込んでくる。件の断崖が近い。私はそっと木々に自らの体が隠れるような位置取りを意識する。あそこには見張り台が四つ、それぞれには見張りが一人ないし二人立っているのだ。迂闊に接近して目に留まってしまったら、せっかく気づかれずにここまでやってきたのが水の泡になってしまう。私達はあくまでここには奇襲攻撃を仕掛けるために来ているのだから。
 が。
「大丈夫ですよ、兄様」
「大丈夫ですよ、兄様」
 エルとシルは見張りの事などまるで気にかけていないかのように、身を隠す事無く実に無防備に歩いている。相手には我々の存在を知られてはならない事ぐらいは知っているだろうに。一体どうしたというのだろうか。
「何故だ?」
「見張りが全然いないんです」
「それどころか、人気すら」
 そうエルとシルは、まるで理解が出来ないと言わんばかりに肩をすくめてみせる。
 我々はまだ、ハンターとしての経験は二年目に突入した程度の浅いものだ。この世界ではまだ新人と呼ばれても仕方がない段階である。アカデミーでは様々な事態に対応出来るように基本的な知識は学んだが、それはあくまで知識レベルの話だ。このように、実際には理解に苦しむ事態は必ず起こりうる。だが、そんな事態における対処法の判断ミスは情け容赦なく命を奪う。新人だからといって加減されるほど甘いものではないのだ。知識と現実の差を埋めるのは、何よりも経験を積むに他ない。これは、実力云々の問題だ。だからこそ、経験にない事の判断は細心の注意を払って慎重に行わなくてはいけない。
 はて。
 私は首を傾げながら道の真中へ戻る。
 仮眠する前、エルとシルと陣営様相を確認した際には確かに連中の姿はあったのだが。見張りもいないとは、一体どういう事だろう?
 やがて森を抜けると、途端に周囲の見晴らしが広大に広がっていた。木々しかなかった先ほどまでの道からは大きく視界が開け、心なしか呼吸に開放感を感ずる。
 断崖の先に立って見下ろす。眼下にはクリムゾンサイズの居住陣営がのうのうとのさばるかのように広がっていた。一見すると、つい数時間前に確認した時と何ら変わりはないように思える。だが今は驚くほど空気が物静かで、まるで人の気配が感じられない。見張り台も二人の言う通り無人だ。建物はそのままに、人間だけが消失してしまったようである。
「どうしたんでしょうね?」
「逃げ出しちゃったかな?」
 ふむ……。
 連中の姿が見当たらないというならば、それはこの場を後にしたからに他ならない。ここに到着してから終始陣営を見張っていた訳ではないため、『いつの間に?』などという間の抜けた問いはさておき。一体どこへ向かったのか、そこからを考えよう。
 クリムゾンサイズの目的地は王都である。まず考え付くのは王都へ進軍した、という線だが、まさか彼らもこの程度の戦力で王都に辿り着けるとは思ってはいないだろう。このものものしい防衛体制の居住地から考えれば、おそらく今後はここを拠点として戦うつもりだったに違いない。だからこそ、進軍したという説はあまり考えにくい。
 ならば、今更になって騎士団を相手にする事に臆して逃亡した?
 いや、こういった組織に属する人間が逃げる場合、それは主に少人数でしか行われない。自分が抜ける事に残る人間への罪悪感があるため、行動に移すどころか仲間へ打ち明ける事すら躊躇ってしまうからだ。だからこそ、なかなかまとまった人数で一斉に行動に起こすという所まで踏み切ることが出来ない。それが二千人規模になれば尚更考えにくい。リーダーが組織の存続放棄を宣言すれば話は別かもしれないが、クリムゾンサイズを束ねるトップ3は神器の所有者だ。神器の力の凄まじさを知っているならば、余計にそれはありえない。神器は、種類によってはそれ一つで一国を相手にすら出来るのだ。聖都騎士団如き、恥を忍んで背を向けるほどの相手ではないはずだ。
「とりあえず、下に降りて確認してみる事にしよう」
 このままこうして推論を巡らせていても仕方がない。ひとまず下に降りて様子を実際に確認してみることにする。実質的判断はそれからでも遅くはない。
「は〜い」
「ほ〜い」
 そして、私達は崖を下り始めた。片足を断崖にかけ、右手は鉤爪のような形を持って速度を調節しながら滑る。傾斜角度はほぼ九十度。それは下りるというよりも落下するに近い。だが私達の身体能力を考えれば、どちらにせよあまり大差はない。常人が私と同じ方法で滑り降りようとすれば、足が速度を抑え切れないで落下するか、もしくは食い込ませた右手の爪が剥がれて同じく落下するかのどちらかだ。これは、人間にはありえない頑丈さを持つ私だからこそ出来る芸当である。
 ザッ、と着地の瞬間に余分な推力を地面との摩擦によって消し去る。僅かな反動が足の裏から体を逆送する。だがそれもすぐに何事もなかったように消える。当然だが、身体にはどこにも異常はない。
「やっと」
「よっと」
 エルとシルが私に僅かに遅れ、音もなく地面へ降り立つ。元々、運動神経には生まれつき非常に恵まれた二人だ。しかも、才能にかまをかけて磨く事を怠らず徹底的に鍛え上げている。私はやや強引に滑り降りたが、二人にしてみれば普通に飛び降りても問題ない高さだ。声を出さなければ、いつ着地したのかも分からないほど鮮やかな体技である。
 まず、私は三つある建物の内の一番小さなものから始める事にした。
 入り口から一歩中へ入る。そこはまるでホールのようにただただ延々とスペースが続き、奥には二階へと続く階段があった。建物自体は基本に乗っ取った、非常に耐久性に優れた建築様式となっている。だが純粋に居住するためだけに建てたようであり、内部には調度品と呼べるものが一切存在していない。実に殺風景な光景である。
 人の気配は一切感じられない。私よりも感覚の鋭いエルとシルも、この建物内には人の気配を感じていないようだ。おそらく二階もこんな様子だろう。私達は軽く室内を見渡しただけで外へ出た。
「ねえ、兄様。やっぱりここには誰もいないのでは?」
「ねえ、兄様。やっぱりここには誰もいないのでは?」
 そうエルとシルが、周囲をきょろきょろと見渡しながら言う。
 まだ全てを細かく調べた訳ではないのだが、この様子ではおそらく二人の言う通りに考えていいようである。やはりクリムゾンサイズは私達がここへ到着したその直後、進軍か逃亡のどちらかの理由でここを後にしたと考えて間違いはない。となれば、次なる目的は彼らの足取りの手がかりを見つける事だ。
「そうだな。とりあえず、トップ3のいずれかの私室辺りから何か有力情報になりそうなものを探し出そう。ここを後にするのはそれからだ」
「おお、家捜しですね」
「おお、家捜しですね」
 そんな所だ。何やら楽しげに目を輝かせる二人に、そう私は苦笑する。
 おそらくは、あの一番大きな建物が彼らの私室、もしくはそれに相当する物があるだろう。もしも出陣していたのであれば、そういった重要証拠は前もって処分されている可能性は高い。まあ、なければないでそれでいい。こちらとしては、出来れば手がかりがあった方がいいので、相手が間抜けである事を祈るが。
 すぐさま私達そこへ足を運ぶ。のらりくらりと、まるで平和な街中を散策するかのように。
 私達は今、敵陣の真っ只中へ踏み込んでいるのだが。この静けさのせいだろうか、まるでそんな実感が湧いてこなかった。緊張感の欠片もない。あるとするならば、どこか拍子抜けしたような心の穴のようなものだ。
 三つあるクリムゾンサイズの建物。その中で最も大きいそれは、三つ並ぶ中の真ん中に位置している。他二つと同じように、外観はあまりに簡素で飾り気がない。とにかく住居として機能していればいい。そう言わんばかりの殺伐としたものである。
 観音開きの大きな扉を開けて建物の中へ。
 ―――と。
「兄様」
「兄様」
 これまで普段のリラックスした口調だったエルとシルが、急に真剣味を帯びた緊張感のある口調に変わる。そしてそれぞれの右手が左腰に携えられた刀の柄に触れる。私もまたその理由に気がついていた。これまでの腑抜けた気持ちを正し、いつ戦闘が起こっても対応出来るように周囲に油断なく注意網を張る。
「ああ……」
 私もまたそう短く答え、右手のひらをパキッと握り締め、そして開く。
 建物へ足を一歩踏み入れたその瞬間、私の神経が何か鋭いものを感じ取った。それは殺気にも似た、武人特有の気配、しかも明らかに私達の存在に気づいているものだ。
 誰かいる。しかもそれは、ほぼ間違いなくクリムゾンサイズのトップ3のいずれか……おそらく三人共だろう。残りの二千人ほどの構成員はどこへ行ったのかは知らないが、どうやら彼らだけはここにいるようである。
「もしかすると、我々は招待されたのかもしれないな」
 そう、私は僅かに口元を歪めた。