BACK

 長い緑の丘を僕は走った。
 息を切らせ、風のように、ただひたすら前へ前へと。
 走るたびに体中の傷が軋むように痛んだ。もう一週間も前の怪我にもなるのだけれど、傷そのものが深かったせいか、一見すると塞がったように見えても内側の方はまだ治り切っていないのだろう。
 走れば走るほど、両手の荷物が体を後ろへ引っ張る。けれど、そんな痛みなど気にも留めず、僕は尚も足を前に踏み出す。待ち切れない思いを胸に秘めながら。
 やがて見えてきた、一軒の古びた教会。その姿は何一つ変わってはいなかった。まるであの頃に戻ったかのようにすら思えて来る。
 息を切らせながら足を緩め、ゆっくりと敷地内へ。すると、どこからか子供の声が聞こえてきた。それも一人二人ではない。もっと大勢のはしゃぎ声が聞こえる。
 一体誰がいるのだろう。確かここに住むのは一人だけのはず。
 そっと中庭に入ってみる。お世辞にも綺麗とは呼べない風景だが、荒れ果てぬようまめに手入れをされているようだった。
 その時、僕の目の前に一つの人影が飛び出してきた。
 それは小さな男の子だった。友達を追い駆けっこでもしていたのだろう。突然出くわした僕を驚きの表情で見上げている。
「ねえ、誰か知らない人が来たよ」
 男の子はくるりと踵を返して走り出した。
「おや、お客さんかな。一体どちらだろう」
 そして。続いて聞こえ来たのは、懐かしいあの声だった。
 彼は僕を見て、一瞬戸惑いの色を浮かべる。だが、すぐに僕であると気が付いた。驚くのも無理も無い。
「少し、痩せましたね。白髪も随分増えた」
「君は見違えたよ。背が伸びて顔が凛々しくなった」
 そう、僕達は微笑み合った。まるで旧知の友人であるかのように。
「この人だれー?」
 やがて集まり出した子供達は、口々に僕を眺め指差す。見てみると、実に様々な年齢、人種の子供達が揃っている。それが僕を更に安堵させた。彼はあの頃から少しも変わっていないのだと思ったからである。
 僕は微笑み、一番年長の彼女の前にそっと近づいた。歳は僕よりも二つか三つほど下だろうか。雰囲気的に、子供達のまとめ役のように見える。
「ここをよく見てて」
 僕は指先を二本立てて、彼女の目の前に示す。言われた通り、彼女はじっとそこを見つめる。その仕草が誰かによく似ている。そう思った。
「いくよ」
 そして、僕は素早く指を下ろし、もう一度立てた。するとそこには、先ほどまでは無かったはずの小さな造花が咲いていた。
「これはお近づきの印」
 目を瞬かせ驚く彼女の髪にそっと花を差す。
「おー、すげー」
「魔術師だ、魔術師」
 子供達の目が一斉に輝き始めた。羨望の眼差しで僕を見つめるこの子達は、他所者であった僕を俄に受け入れてくれたように思えた。
「そろそろ食事にしようか。もう昼時だ」
 彼の言葉に子供達は元気良く返事をすると、一斉に教会の方へ向かって走り出した。それに遅れて、年長のあの娘が後を追いかける。あれだけ子供がいると、世話をするのも随分大変そうだ。
「あれから六年にもなるけど、ここは全然変わりませんね」
「いや、変わったさ」
 目を伏せながら口を綻ばせ首をゆっくり横に振る彼。
 どこが変わったんです?
 そう僕は更に問うた。
「私は信仰を捨てなかった。しかし、信念も捨てなかった。両方を選ぶ事は出来ないと思っていたのだけど、やれば出来るものさ。まずは行動すること。私はそれが大事なのだと思うよ」
 そして、僕達は教会の前の扉の前までやってきた。
 六年前、僕は真夜中に人知れずひっそりとここを後にした。やがて流れ着いたのは北斗、けれどそこでの生活の中でもここの事を忘れた日は一日たりともない。ここで短い暮らしの事も、時折夢で見る事があった。だがいつも見るのは教会の外での記憶だけで、扉の前まで来ても決してその扉が開かれる事は無かった。それは戻りたい気持ちと戻れない気持ちのジレンマの表れだったのかもしれない。
 だが、もうその夢は二度と見る事はないだろう。自分の気持ちへの決着と決心をつけてやって来た僕は、こうして現実に扉を目の前にして開こうとしている。これで僕の家出は最後だ。北斗での宴のような生活も、今日この瞬間に終止符が打たれる。北斗としてではない自分に生まれ変わるのだ。
 中に入ろうとした僕を、神父はそっと人差し指を立てて制止した。
 まだ、していない事がある。
 そう言いたげな仕草だ。
 僕は何をしなければいけないのかを知っていた。そしてすぐに息を吸い込んで口を開く。ずっと胸の内に押し込み、けれどどこかで口にする事を待ち望んでいた言葉だ。
「ただいま」
「お帰り」
 彼の笑顔も変わらなかった。
 深く皺の刻まれた顔に僕は安らぎを感じた。
 こんな気持ちになれたのは、きっと生まれて初めての事だ。



To For Life