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「先生は……よし、気づいていないな」
 俺は頭に描いたイメージと自分を同化させながら、出来る限り慎重に中庭を走った。描いたイメージは、影。何故なら影は、俺の知る限りで最も気配を感じさせないものだからだ。
 屋敷からの気配を気にしつつ、中庭の終端までようやく辿り着くと、俺は策に足をかけて跳躍し一気に飛び越えた。着地すると同時に新たなイメージを描いて自分を同一視、地面を力一杯蹴って最初の加速を得る。描いたイメージは、風。何かと思い描く事の多いイメージだ。昔、風は何者にも囚われない、なんてコピーをどこかで聞いたせいだろう。
 俺は風のように地面を駆けた。向かう先は北斗の南区だ。
 南区は一年ほど前に、流派『凍姫』の不始末で壊滅的な被害を受けた所だ。そのせいか真新しい建物が数多く見受けられるのだが、それ以上に再出発の意味で実に様々な店が軒並みを連ねている。良く言えば前衛的だが、中には思わず笑ってしまうようなイロモノも平然と営んでいたりするのが面白い。南区は一番近いという事もあって物心ついた時から俺にとっての遊び場だった。だから一年前の事件には非常に衝撃的で、たとえ再建されても受け入れられるのかどうか不安で仕方なかった。しかし、どれだけ変わろうともここは慣れ親しんだあの場所には違いなく、むしろ変わらずに残っている場所を見つけるとより懐かしい気持ちに浸る事が出来た。
「ふう、さすがにもういいだろ
 俺は足を止めて大きく呼吸をし、再度周囲の気配を伺う。俺を追って来る人間はいない。もっとも、これまでに捕まった事などほとんどないのだから当然である。
 描いたイメージを破棄し、緩やかな歩調でゆっくりと残りの道程を歩いた。
 時刻は昼時。だからだろう、南区は食事を取る人で溢れ返っていた。今からどこかの店に入る事は無理である。ピークが過ぎるのを待つにしても腹の虫は俺とは違って辛抱が足りないのだ。こんな事になるならば、せめて昼食ぐらいは食べてくれば良かった、と俺は思ったが、よくよく考えてみればそれが嫌だったからいつも抜け出している事を思い出した。家での食事はいつもだだっ広い部屋で一人で取る。食事は毎度大きなお膳に寸分の狂い無く器が並んでいるのだが、その料理が良くない。忌小路家の料理は代々薄味と決まっており、しかも出てくるのは山菜や魚といった、いわゆる健康食、精進料理ばかりだ。おまけに量が圧倒的に足りない。前から思っていたのだが、未だに俺の背があまり伸びないのは栄養が不足しているせいではないかと疑われるのだ。百歩譲って、仮にも家督を継ぐ人間である以上、食事はそういう寂しい形式にならざるを得ないと妥協しよう。しかしあの淡白過ぎる食事の内容には我慢がならない。食べ物ぐらい好きなものを食べさせろ、という話だ。
 店が無理ならば露店にしよう。
 幸いにも北斗には屋台店舗が数多く存在する。大部分が食べ物で、しかも持ち帰れるように専用の容器まで用意している。味そのものも普通の店舗と遜色は無い。むしろ個人経営でやっている分、創意工夫が光るのだ。それに、本当に旨い店というのは露店だろうと店舗経営だろうと人は嗅ぎつけるし並ぶのだ。北斗では経営法と等しく味が重要視されるのである。
 人込みを掻き分けて進むのは、体の小さい俺には技術を要した。普通に突き進んでいくと人にぶつかって跳ね飛ばされ、その先でまた誰かに跳ね飛ばされるからである。しかし、逆に小柄さを生かせば誰にもぶつからずするすると進んでいける。障害物をかわしながら進むステップは、忌小路伝統の舞に似たものがあった。元来、舞踏と武道は共通するものがあるらしいが、きっとそうなのだろう。
 俺はまず当面の腹ごしらえに、豚肉とトマトソースの生地焼きを買った。普通、こういったパイ料理は皿の上で食べるものだが、屋台で売っているものはわざわざ片手で持てる大きさに焼かれているのである。そこは俺がよく行く屋台で、店主のおばさんとも顔見知りである。ただ、さすがに俺の身分までは明かしていない。北斗の制服も着ていないのだから、きっと近所の子供ぐらいに思っている事だろう。
 俺がこういったものを食べていると長老衆が知ったら、きっと卒倒するに違いない。おばさんにしてみれば豚肉とトマトは栄養が豊富で、生地焼きは最も栄養損失の少ない料理の一つだから体にも良いのだが、あの連中に言わせると北斗の街で売っている食べ物は須らく毒物の塊だ。偏見とかそれ以前のレベルの考え方だが、本気でそうと信じているものをたった一人の家督後継者が食べているとなれば固執するのは無理も無いだろう。
 それから俺は幾つかの古物商を見て回った。別段、骨董品に興味がある訳ではないのだが、今日買おうと思っていたものは割とこういう所にしかないのだ。それに、一見しただけではピンと来ない店ほど実はかなりのお宝を信じられない底値で売りに出していたりするものである。
 やがて五軒目に回った店で、俺は腕一本ほどの古木を買った。なんでも、古い名家の屋敷を取り壊した時の柱の一部が流れたものだそうだ。出所の信憑性はともかく、色艶と手触りが非常に気に入ったからそれを選んだ。自分を目が利く方だとは思わないが、少なくとも今までこれと決めて買った物で自分が後悔した事はない。
 さて、そろそろ戻るとしようか。
 俺は最後にたまたま通りかかった屋台で肉団子がたっぷり入ったスープを買った。見た目にもボリュームのある香辛料の利いてそうなスープだ。一応育ち盛りにある俺だから、無論さっき食べた程度では満腹には程遠い。これを食べてようやく八分目といった所だろう。
 そしておまけに、燻製肉をスライスし、炒めたタマネギのみじん切りとチーズを挟んだサンドイッチを一ボックス買う。それでも足りなかった時の控えだ。足りたら足りたでおやつにすればいい。
 南区を後にした俺は屋敷には戻らず、屋敷を通り過ぎた向こう側の裏山に向かった。そのおよそ中腹に、まるで木々が避けているかのような草むらがぽつりと広がっていた。丁度真ん中には随分昔に切り倒されたものと思われる古い切り株があった。それが俺の専用席である。俺はいつものようにその上に腰掛けた。
 さて、スープが冷める前に。
 俺は傍らに買った木片を置くと、スープの大きな器を持ち上げて早速すすり始めた。肉団子は見た目以上に大きく、一口では頬張り切れないほどだった。スープも香辛料がいいのか冷めているように感じさせず、飲めば飲むほど体がカーッと熱くなる。しかし塩加減は薄いため、決して喉が渇く事が無い。滲み出している肉団子の油も丁度良いコクを与え、実にバランスの良いスープだ。
 あっという間に飲み干してしまうと、脹れた腹をさすりながらしばし買ってきた古木を眺め始めた。どこからどのように削り出すのか、まずは頭の中で設計図を組み立てるのである。
「よし、こんな感じでいこう」
 大体のイメージが固まった俺は、それがぼやけない内に切り出し作業にかかる。
 まずは懐から頭巾に包んだ鞘の無い短刀を取り出した。昨日、せつなに鞘を壊されたあの短刀である。壊れた鞘は跡形も残っていないため、修理のしようがないのだ。だけど鞘は必ず必要なものだから新しく作るしか無い。
 短刀にイメージを込める。木を断つイメージだ。
 この術式は忌小路家に代々伝わるもので、刃物に断つイメージを込める事でありとあらゆる物を斬る事が出来るのである。しかし、たった一つだけ斬る事が出来ないものが存在する。それは技術的な問題ではなく、強迫観念に似たようなものを意図的に術式へ設けた制限だ。理屈ではそんな制限など無視する事も出来るのだろうが、精霊術法とは何より術者の意思に効果を左右されるもの、制限を持った形で完成されてしまったこの術式を今更変える事など不可能に近い。それに、この制限は忌小路家の人間全てに、それこそ遺伝子にまで刻まれているかのように奥深くへ根付いた観念である。忌小路家の人間でなければ使えない術式だが、忌小路家の人間である以上この制約からは逃れる事が出来ないのだ。
 まずは大まかに全体の角を切り落とす。そして一つの直方体型に切り出した。案の定、外見はいまいちぱっとしなかったものの、芯の方は綺麗な光沢を放ち心地よい触感である。しかも仄かに良い香りがする。古木独特の香りだ。
 次はこれを大小四つのパーツに切り分ける。内側を刳り貫き、一組は鞘に、もう一組は柄になるのである。
 と。
「茜君、はっけーん!」
 突然背後から浴びせられる声。慌てて振り向いたその先には、黒髪の少女が悪戯っぽく笑っていた。
 体格は俺以上に小柄であるが、決して痩せ過ぎている訳ではなく、俺と同様発育途上にある小柄さだ。髪は顎のラインよりやや下ほどのボブカット、髪質のせいか綺麗にまとまって流れているものの、毛先はカットでわざと自然な形に散らせている。それが表情と相俟って活動的な雰囲気を醸し出している。
「なんだ、せつなかよ」
「なんだはないでしょ、なんだは。また稽古サボリ? あー、俗物食べてるー」
 せつなは俺が食べ終えたスープの器をつついた。その口調は非難と言うよりも羨ましそうなそれである。せつなも俺と同様、なんだかんだ言って忌小路家の伝統料理は淡泊すぎて物足りないのだ。
「いつもの事だ。それに、そっちだってサボリだろ」
「まあね。茜君みたいに逃げ上手じゃないから、なかなかうまく抜け出せなかったんだけど」
 せつなはにっこりと笑いながら照れたポーズをして頭をかいた。
「あ、サンドイッチだ。私、まだお昼御飯食べてないんだよなあ」
「食べたいんならそう言えよ。そんな遠回しに言わないでさ」
「分かってないわねえ、茜君は。そもそも女の子に言わせちゃ駄目なの、こういう事は」
「さいですか」
 せつなは俺が買ってきたサンドイッチボックスを持ち上げると、俺の座る切り株の反対側に背中合わせに座った。そしてボックスを膝の上に乗せて早速蓋を開ける。そのまま大口を開けて噛むのと飲み込むのとが同じではないかと思えるほどの勢いで食べ始める。背中合わせだというのにそうと分かるのは、せつなの立てる遠慮の無い音だ。蓋はともかく、食べる時まで背中越しの相手に聞こえる程の音を立てるのは、女性だとか以前の問題だ。普段、表家の屋敷では窮屈な思いをしているせいなのだろうか、こういった大人達のいない空間にやってくると抑圧されていたものが一気に弾けるのだろう。
「ところで、なにしてるの?」
 あっという間にサンドイッチを食べ尽くし人心地ついたせつなが、指を舐めながらひょいと肩越しに俺の手元を見た。
「ああ、昨日の演目の時のあれだよ。さっきなかなかいい木が見つかったんだ。今、それを削り出している」
「修理なんて他の誰かに頼めばいいじゃない。めんどくさそー」
「俺は自分でやりたいの。ここの家の奴らは情緒とか趣きってものが欠落してるからな。その内、お前のも作ってやろうか? 悪趣味だぞ、そんなごてごてしたやつ」
 俺にそう言われたせつなは、はっと自分の腰に差した短刀を手に取って見た。鋼を基盤にした軽い合金で作られた鞘と柄は、元の地味な色が分からぬよう色を塗って絹で包み、幾重にも束ねた飾り糸で豪奢な見た目に仕上げている。まるでどこかの国の王族が持っていてもおかしくはないような絢爛さだ。しかしお世辞にも、少なくとも俺の目にはせつなに相応しいデザインには見えない。まるで、馬子にも衣装、を再現しているようなものだ。俺らの年頃でこれほどごてごてしたものを持つのは
「確かに趣味は良いとは言えないけど、キミのもあんまり良い趣味とは思えないなあ。古いものを愛でるのは若者の感覚ではありません」
「そういうのって偏見って言うんだぞ。良いものに古いも新しいも無い」
 私には分かりません。
 せつなはそう言ってわざとらしく肩をすくめて見せる。そして空になったサンドイッチボックスをくしゃくしゃと丸めると、俺が食べたスープの容器の中へ押し込んだ。ゴミは俺が始末しろ、という事らしい。まあ、いつも大概はそうなのだが。
「ゴチソウサマ。ところでさ本題なんだけど」
 すると、せつなは俺の後ろで膝立ちになると、ぎゅっと肩を掴んできた。それも頚動脈に沿った部分に親指が添えられ、握られると痛みを伴う嫌なツボに指を押し込む握り込み方だ。
「昨日のあれ。また手ぇ抜いたでしょ?」
「まさか。俺はいつも本気さ」
「じゃあ、どうして鞘なんか投げたのよ。短刀の方を投げたら良かったのに」
 俺の肩を掴んでいた手が首の方に移動する。これでは単なる絞首だ。
 放っておくと本当に窒息させられかねない。俺はせつなが更に手に力を入れる前にその手を取って振り解いた。首を絞めて殺すのに必要な握力は、実はコップを持ち上げる程度あれば良いのだ。つまり首を絞めるという事はそれだけリアルに死へ直結するのだ、たとえせつなが本気でなくとも確実に俺の苦痛は増す。
「あのな。お前さ、そんな事をしたらどうなるのか分かってるだろうが」
「はいはい、分かってますよ。あれは真剣勝負じゃなくて、そういう儀式だからね。でも、少しは悔しいと思わないの? わざと負けさせられる事にさ」
「はあ? いいんだよ、俺は。このままこうしてたって、将来は決定してるんだから。何年かすれば正式に総括部から頭目として認められるだろうし、どっかの良家の娘とお見合いして、やがては子供に跡目を譲って隠居しゆっくりと余生を過ごす。俺の人生はそういう風に決まってるんだよ」
「キミは会うたび会うたび年取ってくね」
 ぽんぽんと、まるで馬鹿にしたようにせつなは俺の頭を叩いた。
 数え年でも俺とせつなは同じ歳で、辛うじて一週間ほど先に俺が生まれた。俺とせつなの年齢差をあえて議論するならば、俺がそれぐらいの年上だ。だが、世間一般ではそれほど年齢差を重要視しないように、俺達もあまり意識した事は無い。幼なじみとはそういうものなのだろう。
 俺達は同じ忌小路家の人間だが、兄弟という関係ではない。血縁には違いないが、そういった考え方で行くと流派『幻舞』と流派『源武』の人間は全て親戚兄弟という事になる。特に忌小路家は代々頭目に就任し続けてきた家柄だ。その血を限りなく純粋に保つため、近親婚を繰り返してきている。だから家系図なんてものは存在しない。外から別な血が混じる事は決して有り得ないから必要ないのだ。
 幼なじみ、という言葉は俺達にとって都合が良かった。血縁者だけど兄弟や親戚でもなく、友人よりは他人行儀っぽくない。俺達の関係は他の言葉で言い表す事が出来なかった。だから消去法でたまたま近かったその表現を用いているだけなのである。そして、他に表現する言葉の無い違和感を互いに感じ取っていながらも口にしないのは暗黙の了解だ。
「そもそも悪いのはお前だぞ。表家の頭目は裏家の頭目よりも必ず強くなきゃならない習わしだろ? なんで俺に余計な気遣いさせるかな」
「弱くて悪うございました。これでも表家では、稀に見る逸材って言われてるんですけどね。茜君が強過ぎるだけなんだよ」
「稽古サボってばっかりの俺が強い訳ないだろ」
「天然って事なんでしょ? まあ、今の内はそれでもいいかもね。どうせ幾ら強くなったって私に勝つ事は許されないんだもの。あ、それと。私は茜君に気を使えなんて言った覚えはありませんからね」
「ああ、そうかよ」
「だけど、そういうさりげなく優しい茜君が好きだよ」
 せつなは本気かどうか区別のつかない普段の笑みをぱっと輝かせる。その臆面の無い仕草に俺は言葉が出ず、気難しそうに眉を潜めてわざとらしく溜め息をついた。
 いつもそうだ。
 そうやって俺はごまかされる。



TO BE CONTINUED...