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 朝。
 冷たい井戸水に幾ら顔を浸しても、はっきりと目が覚める事はなかった。
 睡魔が額の奥で渦巻いている。重い瞼は少しでも気を抜けばすぐに降りて視界を塞いだ。しかし、これはいつもの事だ。目覚めの良かった朝なんて、未だかつて経験した事が無い。けれど、かといって二度寝した所でぐっすり眠れるはずもなく、またいつものように眠ったり起きたりを繰り返すだけである。
 半分意識が朦朧とした状態で朝食を取る。ほとんど代わり映えのしない食事、話し相手もいれば幾らかは目も覚めようが、頭目は代々食事は一人で静かに取るものらしい。仮に誰かが部屋の中にいたとしても、俺と話の合う人間なんざ一人もいない。みんな俺を見上げるような視点でしか物事を口にしないため、まともな会話が成立しないのだ。
 食事が終わり、縁側に座ってお茶を飲みながら人心地つく。だが程無くして、そんな俺の元に近づく足音が聞こえてきた。
 足音だけでも分かる、その主。まるで刃のように鋭い雰囲気がひしひしと肌に突き刺さり、俺は思わず、しまった、と眉を潜めてしまった。
「修練の時間だ。いつまで茶を飲んでいる」
 俺のすぐ横に立って見下ろす彼は、そう朴訥な口調で語りかけてきた。有無を言わさぬ迫力に満ちた声にはまるで、逃げられるものならば逃げてみろ、と言わんばかりの威圧が込められている。既に首根っこを掴まれた気分だ。
 そっと振り向いて見上げたその先、壮年の深い皺を刻んだ一人の男の無表情がじっと俺を見ている。背は高いが細身で無駄の無い体格をしており、目はまるで鷹か梟のように鋭い。今の朴訥な喋りが如何にも似合いそうな容姿だ。
 彼が武芸一般の教育を担当する先生だ。性格は見ての通りで非常に取っ付き難く、けれど普通に強く自分の意見を貫き通すから、俺にとっては最も苦手なタイプの人間だ。
「あ、先生。今日はちょっと体調悪いんで」
「行くぞ」
 すると先生は、今度は本当に首根っこを掴むと、俺を無理やり立たせた。細い腕からはまるで想像もつかない力で俺の体を持ち上げると、強引に縁側へ立たせられる。今日は機嫌が悪い。そう悟った俺は、再び開きかけた口をつぐんだ。わざわざこれ以上機嫌を損ねさせる事もあるまい。
 先生が機嫌を悪くしているのは当然の事だった。もう三日も続けて稽古をサボっているのだから。
 俺は後ろ襟を掴まれたまま、道場に向かって引き摺られていく。先生が手を離さないのは、俺が途中で逃げ出すと思っているからだ。事実、俺も今どうやって逃げ出そうか算段を立てているのだが。
「一日の遅れを取り戻すのには三日を要する。お前は一体何日遊んでいたのだ?」
「いや、別に休みたくて休んだんじゃないですよ。ほら、先週の定例演舞の傷が治らなくて」
「あの程度の遊戯で負傷するならば、己の至らなさを深く恥じ入り休む間も惜しんで精進しろ」
 先生の口調は明らかに俺の嘘を見抜いているものだった。考えても見れば、あの時の演目も先生はちゃんと見ている訳だし、俺がしっかりとせつなの鎖撃を術式で受け止めていたのも知っていて当然だ。むしろ、こんな言い訳をするのは見苦しい。
 やがて道場にやってくると、俺は中に放り投げられ否応無く着替えさせられた。本当に逃げる間も無く、服や履物、財布も全て取り上げられてしまった。たとえ逃げたとしても、これではどこにも行く事が出来ない。
「始めるぞ。まずは準備運動だ」
 広い道場には俺と先生の二人きりである。嫌でも互いの気配を意識するのだ、先生の尋常ではない巨大な気迫には息が詰まる思いだ。互いに道着に木刀の脇差を腰に差して向き合う。普段から緩く構えている俺だが、さすがにこの瞬間ばかりは緊張せざるを得ない。少しでも気を抜けば、たちまち先生の木刀に打たれてしまうのだ。しかも先生は大怪我にならないよう加減するから始末におけない。
 俺は脇差を逆手に構え体を半身に向ける。腰を落として重心を低く、体の中心線をぶらさぬようしっかりと床に体を固定する。重心が安定すると、自然と頭の中もクリアになる。そしてイメージを静かに描き始める。俺の好きな、穏やかな風のイメージだ。
「どうした、いつでも来い。全力でだ」
 あーあ、やる気満々だよ。
 正直、俺は肩をすくめたかった。準備運動から全力を求めるのも無茶だし、俺を相手に本気を出してくるのも偏執的だ。そして執拗な稽古は、必ず俺が自分で立てなくなるまで続く。だから俺は稽古が嫌なのだ。それに本音を言えば、こんな稽古なんてどれだけ意味があるのか疑問なのだ。
 とりあえず、さっさと終わらせよう。それなりに稽古して、後は疲れた振りでもすれば先生も諦めてくれるはずだ。多分。
 俺はイメージと自分を重ね合わせ、床を蹴った。
 先生との間合いが一気に詰まる。しかし先生は手を出さない。あえて俺を自分の懐に誘い入れたのだ。
 まずは左脇腹を目掛けて木刀を走らせる。先生の利き手は右腕だから、そんな単純な理由での選択だ。
 しかし、先生は右腕の木刀を左側へ垂直に構えると、難無く俺の木刀を受け止めてしまった。こっちは疾風のイメージに合わせた速さで放っているにも関わらず、先生は眉一つ動かしていない。俺の攻撃の一挙一動が見えているかのようだ。
 自分が実力で遥かに及ばない事は分かっている。正攻法で先生から一本取るのはほぼ不可能だ。だから、先生が予想だにしない方法、即ち奇道を持って対するしかない。そう、俺が最も得意とするものだ。
 俺は空かさず同一視するイメージを切り替える。描いたイメージは羽。すると、俺の体から体重が消えて重力の鎖から解き放たれた。
 俺は自分の体を蹴り上げた。そのまま木刀と木刀がぶつかるそのポイントを支点に、空中でくるりと体の天地を入れ替える。そして振り上げた右足を真っ直ぐ先生の後頭部目掛けて振り下ろす。
「甘い」
 しかし、先生はまるで背中に目でもあるかのように、繰り出した俺の蹴りを難無く受け止めると、そのまま足首を掴んで無造作に放り投げた。俺は空中で天地の向きを把握しバランスを取り戻すと、床にきちんと足の裏から着地する。
 やはりこの程度では無理だ。もっと、先生の裏を欠くような奇道でなければ。
 新しいイメージを描いて自分と重ね合わせる。描いたイメージは、鉄よりも強固な鋼。
 俺は木刀を低く構えて突進する。そして先程と同じように、左脇腹を狙って放つ姿勢を見せる。だが、俺は間合いに入っても木刀を放たなかった。本当の狙いは、硬化した体を用いた体当たりだ。
 低く下げた左肩を急激に突き上げ、先生の胸を狙う。先生は木刀を振り上げると、それを真っ直ぐ俺の肩に繰り出してきた。しかし、本来なら骨の一つも折れるものだが鋼のように硬化した俺の体は微動だにしない。
 だが、振り下ろした木刀に更に力が込められる。すると先生はそこを支点にして宙を舞うと、そのまま俺の体当たりをかわして体位を入れ替わるように俺の背後を取った。
「イメージを作るのが早い」
 その言葉と同時に両腕の手首を掴まれる。次の瞬間、手首を捻られるとそのまま肩を稼動域以上に曲げられて腕を極められてしまった。体は鋼のように硬くとも、関節まではそうはいかない。予め決められた稼動域以上に曲げると、当然関節に無理が生じるため滲むような痛みが走った。
 これもバレてたか。
 そう思った俺は再びイメージを作り直す。描いたイメージは、柔らかい護謨。北斗では馴染みの薄いものだ。
「むっ?」
 瞬間、俺の全身が脱力したかのように緊張感を失う。それにより、手首を掴まれた事で圧迫された肩に遊びが出来る。すかさず俺は先生に掴まれた手首を逆に支点とし、前に屈みながら体を後ろから前へ蹴り上げ半回転する。中空に両足が天を仰いだまま俺の視界が天地逆さまになる。視界には逆さまに背後の先生の姿が映った。俺はその一瞬で狙いを絞る。
 一呼吸間を起き、俺の体が逆上がるよりも鋭く右踵を振り下ろす。踵の走る先は先生の顎。
 自分と同一視している護謨のイメージの特性も合わさり、重力に逆らう形で蹴り上げる不自然な体勢からとは思えないほど鋭く走る俺の蹴りは、まるで弩のように加速的且つ正確に先生の顎に向かっていく。
 しかし。
 チッ!
 顎を捉えようとした直前、先生の顔の位置が僅かに横にそれる。俺の放った踵は先生の顎を捕らえられず、頬を掠めただけに終わる。しかし、今の奇襲が功を奏したのかのか、手首を掴む先生の手が僅かに緩んだ。その機を逃さず、俺は蹴り上げた勢いを利用しながら両腕をしならせ、強引に振り解いた。
「ふむ、思っていたほど鈍ってはいないようだ」
 そう先生は手の甲で自分の頬を拭った。拭った頬は薄っすらと血が滲んでいる。俺の蹴りがつけた傷だ。
「では、今度はこちらも手を出すとしよう」
 すると先生はゆっくりと木刀を下段に構え重心を落とした。
 うわあ、ちょっとやり過ぎちゃったか。余計に火を点けてしまったみたいだ。
 もう、なるようになる。
 俺は半ば自棄気味になって、先生に応じ構えを取り直す。
 半身の姿勢で木刀を逆手に持って更に下段に構える。それが俺の普段のスタイルだが、今回は木刀を順手に持った。無論、先生には気づかれぬよう体の後ろに隠しながらである。俺の戦闘法は先生の指導によって確立された部分が多い。だから先生に見破れないようにするには、心理の裏を突くしかないのである。
 新たにイメージを描いて自分と重ねる。描いたイメージは、決して穏やかさの無い疾風だ。
 だん、と強く後ろ足を蹴って、体勢を低く保ったまま体を打ち出す。一直線に先生に向かっていく俺。疾風のイメージは、俺の中でも最速のイメージだ。常人には目にも映らない速さを実現させる。けれど、先生は瞬き一つせずじっと俺を見据えている。その落ち着きは、高速で移動する事による増えた死角を狙っているのではないかと危惧させるほどだ。しかし、少なくとも木刀では、俺の身のこなしよりも速く攻撃を繰り出す事は出来ないと知っている。注意しなくてはならないのは、先生がどんなイメージを描いているかだ。
 間合いは先生の歩幅で凡そ四歩半。
 ここで仕掛けるとしよう。
 俺は疾風のイメージを残したまま、右足で最後の踏み込みを行う。同時に左足を真っ直ぐ持ち上げた。そしてその足を、一変し真横に蹴る。顔を打つ風の向きが変わる。直進していた俺の体がいきなりほぼ直角に軌道を折り曲げた。
 着地と同時に次の行動に移るための体勢を整え、先生の方を向き直る。すると先生の視線は未だ俺が居たはずの場所、真正面に釘付けになったままだった。人間の目は精確な機能性を揃えているが、割と単純な事に弱い。縦の運動に目が慣れると、横の運動にはすぐについていけないのである。先生の状態がまさにそれだった。下手に目が良い分、人並以上に目を眩まされてしまったのだ。
 俺は順手に持っていた木刀を正眼に構え、左手を添えると体勢を低くし再び床を蹴った。
 狙いは先生の脇腹。この位置ならば急所の一つである脇の下を狙えるのだが、わざわざそうする必要性は無い。真剣勝負ならともかく、先生から一本取るだけならそれで十分なのだ。
 最後の踏み込みと同時に木刀を真っ直ぐ突き出す。
 だが。
 あ。
 完全に腕が伸びようとしたその時、俺の突然目の前から先生の姿が消えた。それからどこへ行ったのか、認識するよりも先に先生が俺の横を通り過ぎた。
 もしかして誘われてたのかな?
 そう思った瞬間、まるで思い出したように衝撃が腹を襲った。
「ぐっ……」
 一気に全身から力の抜けた俺は自分で踏み込んだ勢いに体を支える事が出来ず、木刀を投げ出しつんのめる様に転倒した。
 重い振動が何度も何度も腹の中を反響する。もはや吐くのを堪えるだけで精一杯だった。全身から冷たい汗が一気に噴出し、苦痛という苦痛が俺の思考を鮮やかに彩った。描いていた疾風のイメージなどとっくに消え去ってしまっていた。
「私も知らぬ素材を知っているようだな。なるほど、イメージの幅はそれなりに広いようだ。しかし、詰めを誤ったな」
 そんな俺の前に歩み寄った先生は、しれっとした口調で言い放った。
「先生、準備体操って言ったじゃないですか……」
「お前は戦場でも同じセリフを敵に吐くつもりか?」
 そりゃ確かに正論ですけどさ……。
 いきなり初っ端から、幾らなんでもこれは飛ばし過ぎだと思う。俺はある程度時間が過ぎたら立てなくなった振りをしようと思っていたけど、演技ではなく本当に、しかもこんな早くに立たなくさせられるとは思ってもみなかった。先生、まさか久しぶりの稽古だからってはしゃいでやいやしないだろうか。
「お前の独創性は認めよう。だが、小手先の技にばかり頼ってばかりせず、たまには正攻法で真っ向から挑んだらどうだ。策士は策に溺れるものだぞ」
「まともにやっても勝てないんですから、小手先に頼るしか無いでしょう」
「それを、未熟と呼ぶのだ」
 まあ先生に比べたらね。俺よりも二回りも歳食ってんだから、経験も習練の量も違っていて当然だ。俺が先生と対等にやり合えたとしたら、先生自身が積み上げてきたこれまでの習練は全く無意味だった事になるし。
「私は、お前が類稀な才能に溢れていると確信している。事実、今も私の意表を二度も突いた。しかし、宝石が磨かねば価値が付かない事と同様に、才能もまた磨かねば光らん。何故、己を磨く努力をしない? 強くなりたいとは思わんのか?」
「別に考えた事もないですよ。それに、努力して強くなったとしてもしょうがないじゃないですか。どうせ強くなったって何か変わる訳じゃ無いんだし」
「それはお前の境遇を言っているのか?」
 先生の意外な返答。
 こういう投げやりな態度は、必ず先生の逆鱗に触れると思っていた。しかし、先生は怒るどころか、より静かな面持ちで俺の方を見ている。
 とは言え、今日は随分と絡んで来る。普段ならこんな事を言ったら瞬く間に木刀で殴られるというのに。
 そんなに俺が稽古をサボる事が気に食わないのだろうか。だったら、こっちも本音を漏らしてやる。如何に過剰とも思えるこの訓練が無意味なのかを。
「そうです。俺が何を主張したって、一人の人間の意志よりも伝統とかの方がずっと重いんですから」
「現状を不満に思うならば、何故覆そうとしない? お前ほど力のある人間が誰彼にも素直に頭を垂れるのか?」
「先生こそどうなんですか。俺は先生にすら敵わないのに、その先生は伝統と格式に従ってる。強さじゃ何も変わらないって、本当は先生も分かってるんじゃないですか?」
 確かに。
 そう頷いた先生の表情はいつものものだったが、どこか悲しそうな光を湛えているような気がしてならなかった。瞬間、反射的に俺は、しまった、と息を飲み、直後に自分の反応を不思議に思った。一体何を後悔しているのだろうか。俺はただ、ありのままの現実を語っただけにしか過ぎないというのに。
 そんな戸惑いを覚える俺に、先生は更に言葉を投げかける。
「ならば、何故お前は勝とうとするのだ? 本当に強くなろうとする意思がないのなら、創意工夫を凝らしてまで戦う必要は無い。黙って打たれれば良いのだ。所詮、お前は逃げているだけにしか過ぎない。頭目や家督を理由に」
 逃げている……だけ?
 俺は先生の言葉に愕然とした。
 改めて自分の姿勢を省みる。俺は先生だけでなく、長老衆も含めて周囲から常々、戦いの才能があると言われている。その自覚はないが、もしもそれが正しいのなら、確かに修練を重ね磨き抜く事で強い戦士に完成するだろう。努力する価値はあるかもしれない。しかし、俺の地位は既に決定されているのだ。強さを求めるのは、より高い地位を築き上げるためである。つまり俺はどれだけ自分を磨き上げようとも、もしくは磨かなくとも、流派『源武』頭目以外は決して有り得ないのだ。課程に何の魅力も持てなければ必然とこうなるはずだ。努力なんてする意味は無い、と。これは決して逃げている訳じゃない。見据えているのだ。自分の運命を真っ向から現実的な視点で。
 じゃあ、俺はどうして勝とうとしているのか。何の事はない、ただ黙って打たれるのが嫌なだけだ。誰だって痛いのは好きじゃない。たった、それだけの事だ。
「俺は……俺にとって強くなるという事は、さほど重要な事じゃないんです。先生の言う通り、俺は逃げているだけかもしれない。でも、現実は一緒ですよ。強くても弱くても俺は、将来流派『源武』の頭目になるんですから」



TO BE CONTINUED...