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 その日も俺は日長いつもの裏山にいた。
 草むらに寝そべり、ただひたすら空ばかりを眺める。雲の数を数えては忘れ、そしてまた数える。意味などなく、ただ時間を潰せれば何でも良かった。ここ一週間、稽古もせずにずっとそんな日々を送っていた。
 何もする気力が無い。
 けれどそれは自分についている嘘だった。本当はいつもと変わらない自分である事を知っている。けれど訓練には普段以上に出たくなかった。精進する事に意味が無いと言った自分が訓練に出ては、まるで矛盾しているような気がしたからである。
 俺はずっと同じ事を考えていた。俺は、本当に強くなる事に興味が無いのか。それとも、ただ強さに興味の無い振りをしているだけなのか。強さに対する自身の在り方だ。
 自分が将来、頭目にならなければならない事には何の疑問も持ってはいない。忌小路家には元々若い人間がいないのだ。跡取りが壮年を踏み越えた人間に務まるはずがない。けれど、忌小路家は存続させなければならないのだ、俺がやらなければならない。しかし、俺が頭目になる事と俺自身が強くなる事は何の繋がりも無いのだが、どうして俺はこうも強さに対して悩むのだろう? 個人的な趣味でもない限り、稽古を受ける必要は無いと早く割り切ってしまえば良いはず。何故それが出来ないのか。考えるまでも無い、強さにまだ未練があるからだ。
 自分に嘘をつくのを止め、一切のこだわりを捨てた時、本当に心の底から自分の境遇に甘んじている訳ではないという事に気がついた。しかしそれをいつも押し殺している。何故か。納得していないのと同時に、病魔の如く根付いた陋習は自分の勝手でどうにか出来るはずはないと諦めているからだ。
 俺には可能性というものが許されていない。俺の自由の後ろには常に忌小路家が付きまとう。まるで影のように。
「……腹、減ったな」
 ふと俺は空腹感を思い出した。太陽は中天を回っている。丁度昼時だ。
 朝食を食べた後、真っ直ぐここへ来て寝転がり続けていたのだが、それでも腹は減るようだ。とにかくここ最近は幾ら食べても食べ足りない。成長期だから体がやたらエネルギーを求めているのだろう。
 街に行って何か食べて来ようか。そう思ったのだが、なんとなく起き上がるのが面倒だった。食欲はあるし、気力もそこまで欠如してしまっている訳ではない。なのに、立とうという気になれない。無気力を装っている内に、本当に無気力になってしまったのだろうか? それともあまりに自虐的な態度を取るから、自己破壊的な傾向に目覚めてしまったのか。
 もう少し、こうしていよう。本当に空腹に耐えられなくなったら嫌でも立ち上がるはずだ。そうならなければ、それはそれで別にいい。
 と。
「やっ! いい天気だね!」
 突然、寝そべる俺の顔にぬっと影が現れてかかった。
 寝転んだその体勢のまま、首だけを持ち上げて頭上を見上げるようにして影の主を確認する。すると案の定、そこにはせつなの姿があった。
 せつなは大きな正方形の箱を二つ、重ねて抱えていた。よく見ると角がじっとりと湿り、薄っすらと香ばしい香りが漂っている。
「なんかだれてるなあ。もしかしてお腹空いてたりする?」
「そうだなあ。空いてないって言ったら嘘になるな」
「良かった、じゃあいいタイミングだったみたいだね」
 俺はむっくりと上体を起こす。すると、思ったよりも空腹は酷く、頭が一瞬くらっと揺れた。空腹に付け加え、長時間寝そべったまま急に起き上がったからだろう。
「はい、この間のお返し。『翠華楼』の料理長の気まぐれ弁当、一日限定二十食」
 せつなが大きな弁当箱を俺に差し出す。受け取ると見た目に反してそれほど重くはなかった。量はそれほどある訳ではないようだ。見た目重視とか、素材重視のヤツだろう。良い食材を使えば旨くて当然だが総じて値段も高くなる。俺があげたのは大して高いものじゃなかったのに。文字通り海老で鯛を釣ってしまった。
「へえ、それは凄いや。ありがとう。でも、よく手に入ったな。朝から並んだのか?」
「まさか、そんな訳ないじゃん。前日に連絡したのよ。忌小路家です、って。そしたらさっき親切に届けてくれたの」
 そうせつなは笑いながら切り株の上に腰掛けると、早速弁当の蓋を開けさもおいしそうに手を合わせて擦った。そんなに凄いのか、と俺も弁当の蓋を開けてみる。するととても弁当とは思えない、数々の飾りつけの施された如何にも豪華そうな料理が並んでいた。香りもよく見た目にも鮮やかだが、いまいち俺の趣味とは合わない。もっと雑然としたもので、腹一杯食べられるようなものがいいのだ。
 それにしても、せつなは羨ましい。俺は忌小路家の名を出すのは出来るだけ避けているのだが、せつなは逆に使えるものは使おうとでも言わんばかりに忌小路家の威光を使っている。俺とせつなの違いは、忌小路家の名をさして重く思っていない事だ。運命を受け入れているのは俺のはず。何故、抗うせつなはこれほど気楽なのだろうか。もしくは、だからこそなのか。
「ねえ茜君さ、最近ずっと訓練サボってるんだって?」
「あ? 誰から聞いたよ」
「茜君の先生よ。今日、うちにまで探しに来たわよ」
「探してた? まさか、ここの事は言ってないだろうな?」
「失礼ねえ。私はそんなに口は軽くないわよ」
 ならいいんだ、と俺は再び弁当に向き直る。
 先生が俺を探してるなんて。
 少なからず俺は動揺を隠せなかった。今まで何度訓練をサボっても、先生は決して俺を探そうとはしなかった。それは単に、意欲の無い人間に無理強はしない、という先生のやり方があるからだ。わざわざ探し出したとしても、訓練そのものに集中していないのであれば幾ら教えた所で意味は無い。けれど思い出してみると、これまで先生は俺に無理やり稽古をつけた事が何度かある。先生は見た目通り自分の意思は曲げない頑なな人だ。にも関わらず俺に限ってそういう事をしたのはどうしてなのか。そう、どうして俺にそんな固執するのか疑問でならないのだ。
「いい加減、サボってばっかりは良くないよ。人間が駄目になるからね」
「ああ、その内な。今はまだ駄目だ」
 せつなに対し、自分でも驚くほどそっけなく答えてしまった。それが茶化せない空気だと悟らせたのか、急にせつなはぴたりと口を閉ざして話しかけて来なくなった。
 俺は、何を苛立っているのか。
 そんなに未練があるのなら、いっそ素直に訓練を受ければいいものを。どうして俺は迷いを振り切れないのだ。自分の内だけで留められるならまだしも、外に向けて発散するのはあまりにみっともない。
 お互い黙々と弁当に向かって食べ続ける。不自然な沈黙が無視出来ない違和感を作り出し、居心地の悪さを感じさせた。おそらくせつなも同じように思っているだろう。会話のきっかけがまるでないのだから。
「ごちそうさま。あー、お腹いっぱい」
 やがて、せつなはわざとらしくさえ思う明るさで弁当の蓋を閉じた。丁度同じ頃、俺もまた弁当を食べ終わっていた。せっかくの貴重な弁当だったが、気まずい空気が気掛かりでほとんど味わう事など出来なかった。しかもその上、量が俺にとっては十分じゃない。若干小腹が空いた感は否めないが、まずは一心地つけた。俺も空になった弁当の中に箸を入れて蓋を閉める。
「ねえ茜君。もしかして何か悩んでるの? そんな顔してるよ」
「まあな」
 俺はわざとせつなの方には振り向かず、草むらの上に寝転がり視線を晴れ渡る大空へ投げかける。せつなは切り株の上に腰掛けたままだ。
「せつなは頭目になりたくないか?」
「そんなの決まってるわよ。なりたくなんかないわ。でもさ、結局やらなきゃいけないでしょ? 他にやれる人がいないんだもの」
「だから諦めるか?」
「まさか。私は諦めないわよ。お互い歩み寄って妥協点を探すの。重たい尻を蹴り飛ばしてでもね。あー、誰かステキな人が私をさらってくれないかなあ」
 可笑しそうにせつなは笑う。
 ふと俺は、本当に納得していないのはせつなじゃなくて俺、受け入れているのは俺じゃなくてせつなの方ではないのかと思った。俺は自分の運命からいつもうつむいて、仕方が無いと嫌々受け入れている。それに慣れ過ぎて自棄的になっているのだ。自棄になるのは、つまり共存の意思が無いという事。俺は運命の受け入れを本当は拒否しているも、諦めることでバランスを保っているのだ。
「諦めてるのは茜君の方じゃない。いっつも言われた事に従っててさ」
「そんな事はないさ。訓練なんかまともに受けた事なんか無いし」
 そうか。
 俺に足りないもの。それは行動力だ。
 向き合う力も大事だ。立ち向かう力もそうだ。けど何よりも、行動する意思が無ければ何も変わりはしない。それに、本当に変わるのかどうかは誰も知らないのだ。知らなくとも、せつなは立ち向かっている。
 せつなは強い。
 素直にそう思った。ここまで分かっていながら、俺はどうしても立ち向かおうとかいう気にはなれないのだ。どうせこうだから、という気持ちの方が未だに強い。せつなの努力がまるで対岸の火事にしか見えて仕方ないのだ。
「俺達は、一生忌小路家に縛り付けられて生きていくんだな」
「そうね。この鎖だって、本当はそういう意味なのかも。お前達は一生家から逃げられないんだぞ、ってね」
 するとせつなはおもむろに左腕を前へ伸ばした。その腕には鈍銀色の鎖が巻きつけられている。訓練後、そのままここへ来たようだ。
 せつなはくるりと手首を回し、するすると鎖を下へ垂らしていく。そして俺に意味ありげな視線を向けてきた。俺はその意味するところを感じ取り、体を起こして懐へ手を入れそれを取り出す。鞘と柄を削り出したばかりの短刀だ。
 短刀を抜き、じっと刀身を見つめながらイメージを描いて込めていく。描いたのは鎖を断つイメージだ。
 流派『幻舞』と『源武』が使える術式はたった二つしか無い。一つは自己暗示により自らに特性を付加するもの、そしてもう一つが、目標を分断した姿をイメージして行使するこの切断の術式だ。
 俺はせつなの鎖を掴んで押さえると、ぼうっと輝く刀身を鎖に目がけて繰り出した。しかし刀身は描いたイメージに反し、刃が鎖に食い込む事すら無く弾かれてしまった。
 これは当然の結果だ。切断の術式はイメージが正確であれば力を込めた刃は如何なるものをも切断する。だが例外的に切る事が出来ないものも存在する。それは、表家は裏家の、裏家は表家の鎖だ。
「やっぱり駄目、か」
「そうだな」
 鎖を切れないという事は、互いに表家と裏家という観念に縛られている表れだ。事実、正気を失った人間が行使する切断の術式は表家も裏家も関係なく鎖を切ったそうだ。表家も裏家も区別が付かなくなっているからである。
 俺は術式を解放し短刀を鞘に納めて懐にしまい込む。せつなもまた鎖を手首の動きで引き寄せ、生き物のように左腕に巻き付けた。
「お互い鎖が切れないなんて皮肉だね。自分を救う事は出来ても、他の誰かを救う事は出来ないんだから」
「表家は裏家を、裏家は表家を忌小路家に縛り付けなければならない、か。足の引っ張り合いだな」
 切断の術式がこんな仕組みになったのは、きっと表家と裏家の力の均衡を本質的には同一に保つためだろう。どれだけ表家が強くなろうとも、裏家の鎖に縛られてしまえばそれで終わる。その逆も然りだ。だが俺にはもう一つの理由があるように思えてならなかった。どちらかが忌小路家から離れようとしても、鎖の呪縛は一生付きまとうだろう。それはまるで呪いのように忌小路家を思い出させるのだ。極めて陰湿な束縛である。
 頭目になる事を宿命付けられた生まれ、その身に忌小路の呪縛を纏った俺達。意思も自由も束縛され、一体どんな未来があるというのか。生まれながらに決定された未来があるのならば、生きていく事そのものに価値が見出す事が出来ない。変化を求める事を禁じられているのだ。同じ事を繰り返し敷かれたレールを進む人生など一体何の意味があるだろう。
 かつては幼いながらも抗った時期はあった。しかし、結局は水泡と同じ儚いものだと気づかされるばかりだった。だから俺は諦めたんだ。どう抗っても、跳ね除ける事の出来ない現実がある事。そして、忌小路家の宿命と呪縛は絶対である事。その存在に気づく事が出来たから。
「そういえば、アレの時も同じ事したよね。本当に私達は表家と裏家の人間かって確かめるためにさ」
「アレ? アレってなんだよ」
「あー、もう忘れちゃったんだ。あれは痛かったんだけどなあ」
 せつながじとっとした目で俺を見る。少なからず非難の色が混じった目だ。俺に適当な返事をしていないで思い出せというサインである。仕方なく、たっぷり三呼吸の間に俺は記憶を探った。そして運良く、同じ状況が混じったエピソードを引き出す事に成功する。
「ああ、あれか。割とあっけなかったよな。こんなもんか、ってさ」
「本人を目の前にしてそんなこと言うかフツー」
 せつなは頬を膨らまして俺の背中を蹴った。遠慮の無い蹴りに俺は思わず咽返る。
 俺は前に一度だけ、せつなと寝た事がある。別に好き合ってのそれじゃない。俺はせつなに恋愛感情はないし、せつなも同じだ。ただ、それが一体どういうものかという好奇心と、忌小路家では決して有り得ない表家と裏家の家督を継ぐ者同士の交わりをあえてやってしまおうという禁忌を犯す意思が、たまたま互いにあっただけだ。しかし、結局何が変わったと言えば何も変わらない。ただ、青臭いエピソードが一つ増えてしまっただけだ。
「おかしかったよね。なんか急にそんな雰囲気になってさ。今までそんな話なんて一度もなかったのに」
「血だよ、それは。俺達に流れる血のせいだ」
 血?
 せつなが語尾に疑問の色を含めた口調でそう問い返す。俺は湿っぽい空気にしたくなかったから、わざとおどけて肩をすくめて見せた。
「忌小路家は狂ってるのさ。忌小路の血が狂わせるんだ」
「あの時の事が血のせいって言いたいの?」
「そうさ。俺達も狂ってるんだ。やっちゃいけない交わりを、ずっと繰り返してきたのが忌小路家だ。あんな事だってあるさ」
 あの抗い難い衝動は、全て自分達の体に流れる忌小路の血に突き動かされたからだ。禁忌を犯してはならない、そんな当たり前の価値観は人並みに与えられて育ったはずだ。にもかかわらず踏み止まれなかったのは、忌小路家のあえて禁忌を犯して来た黒い歴史がそうさせたからだ。そして、年を経るにつれて忌小路の支配は力を強めて行き、最後は理性そのものを奪われる。そう、一言で言い表すのなら、狂う、だ。俺達忌小路の一族は、狂気の種が植え付けられてこの世に生を受けるのである。
「忌小路家の人達はどんどんおかしくなっていくんだね」
「だから俺達は仮面を被るんだ。自分を偽り、演じたいからな。平穏や愛情、そして正気の自分を」
「私達は家に縛られてるんじゃないんだね。本当に縛られてるのは……」
「血さ。忌小路家のな」



TO BE CONTINUED...