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 それは、俺の人生で指折りの最悪な目覚めだった。
 俺の眠りは常に浅く、朝方になると何度も覚醒と半覚醒を繰り返す。丁度、夢を見ながらも自分の周囲の状況が把握できる状態だ。だから彼が部屋に入ってくる僅かな音にも敏感に反応し、俺は加速度的に眠りの淵から飛び出した。
 一体誰が入ってきたのか。いや、そもそも何の断りも無く入ってくるなんて失礼ではないか。こういう事をするのは長老衆に決まっている。俺を子供だと思って侮ってるのだろうが、一度強く言ってやるべきだろう。文字通り名ばかりの頭目になるのはあまりにみっともない。
 そんな事を思った俺に向けて声が放たれた。
「起きろ」
 俺は驚き、布団を跳ね除けて一気に飛び起きた。その声は長老衆の誰かのものではなく、ここにいる事が最も意外な人物のものだったからである。
 寝惚け霞んだ頭で見上げると、そこに立っていたのは先生だった。見慣れた仮面をつけたような気難しい無表情で俺を見下ろしている。この人は戦う時に仮面なんか要らないよなあ、といつも思う。
「あ、おはようございます……」
 周囲を見やると未だに薄暗く夜明け前である事が窺えた。空気も薄っすらと肌寒い。起きるにはどう考えても早過ぎる時間だ。
 ふと、嫌な予感が頭を過ぎる。
 先生が俺の事を探してるのは知っていたが、わざわざ寝込みを襲って来たという事は、まさかこのまま早朝訓練なんてなりはしないだろうか? 先生は柄にも無く俺に対してだけは訓練が執拗になっている。決して有り得ない話ではない。そんな危惧間に血の気が引かずにはいられなかった。
 すると。
「長老衆が呼んでいる」
「え? あ、はい。分かりました。今、行きます」
「急げ」
 すると先生はそのまま何も言わず部屋を後にした。本当に呼びに来ただけのようだ。あまりのあっけなさに、ほっと息をつく。けれどすぐに先生の態度に対する不信感が込み上げてきた。
 なんだ、俺の事はもうどうでも良くなったのか?
 先生から解放されるのはありがたいが、逆に素っ気無くされるのもなんだか物寂しく思った。先生に束縛される事を喜んでいた訳じゃないが、構ってくれる内が花なんだなあ、と不覚にも実感してしまう。
 それにしても、あのクソジジイ共め。朝から何を考えてんだ。
 そして俺は先生の事を頭から離すべく、長老衆の面々を頭に思い浮かべながら愚痴をこぼした。布団をたたみ服を着替えながら、徐々にはっきりしてくる頭で事態を把握していくに連れて、この異常さに気がついていった。まだ太陽も昇らぬ時間に眠っている人間を平気で呼びつける神経、俺は仮にも家督後継者だというのにどうかしてる。別に権威を振りかざすつもりは無いが、仮にも俺をそう思い敬うのならば、もう少し気を使うべきだ。即ち、連中が尊んでいるのは俺ではなく、次期後継者という肩書きである事の現れである。
 ま、老人は朝が早いからしょうがないけどさ。でも、もう少し付き合わされる方も考えろよな……。
 眠い目を擦りながらぶつぶつと文句を呟き、俺は部屋を出た。
 朝方のほの暗さが足元を夜とはまた違った闇のベールで包んだ。年季の入った忌小路裏家の屋敷だが、不思議と深夜に漂うおどろおどろしさは感じられなかった。朝方は最も肌寒く感じる時間帯なのだが、その分空気が澄んでいるせいか、苛立った気分に清涼剤のような清々しさを与えてくれた。だが僅かに得られた落ち着きで考えられたのは、あいつらが鬼籍に入ってしまえば後は俺のやりたい放題だ、程度の下劣な想像範囲の妥協だった。
 冷たい澄んだ空気を吸い込みながら、苛立つ気持ちを落ち着けつつ長老衆の集会場所へ向かう。廊下の冷たい床板が足の裏には辛く、自然と足が急いでしまった。考えてみれば、こんな時間に目を覚ますのはよくある事だが、布団から起きた事は随分久し振りだ。幾ら眠りが浅いとは言っても、決して早起きの習慣がある訳ではない。それに、昨夜は寝つきが悪くて眠りに入るまで随分遅くなってしまったのだ、こんな時間に呼びつけられて機嫌が悪くならざるを得ない。とりあえず眠れなかった分、昼間に昼寝して取り返す事にしよう。
 やがて長老衆の集会部屋に辿り着いた。時刻も時刻であるため、襖からはぼんやりとオレンジ色の明かりが漏れている。
 俺は襖を開けて中に入った。そこには長老衆の面々がずらりと並んでいた。狭い部屋にこれだけの面子、集まった理由に関係なく頭痛のしそうな光景だ。
「茜様、私共大切なお話がございます」
 空かさず俺は一番奥の上座へ促される。
 来て早々これかよ。少しは申し訳ないとか思えよな。
 文句の一つも言ってやりたかったが、いきなり癇癪を起こすのも憚られる。それに、いきなり感情を荒げるのはとても常人のそれではない。俺には忌小路家の血が流れているだけに、余計にそう思ってしまう。
 席に着くなり、すぐさま話は切り出された。無論、問われるのは俺一人で、周囲の長老衆が交互に問い訊ねる形である。
「まずお聞きしたいのが、この所、訓練に出られていないのはどういった所存でしょうか?」
「別に大した事じゃない。スランプみたいなもんだよ。最近伸び悩んでて、気持ちを整理している」
「左様ですか。てっきり俗物に現を抜かしているのかと思うておりましたが、どうやら杞憂でしたな」
 くだらない小言を言いやがって。
 思わず顔を歪めそうになったが、なんとか平常心の崇高さを己に言い聞かせる事で留まった。だが、どの道こんな調子では俺の平静はそう長くは持たない。未だ薄っすらと残る眠気が疳の虫を刺激しているのだ。
 長老衆はざわざわと潜めた声で何かを確認し合っている。本当に杞憂で良いのか、とかそんな事を言っているのだろう。いちいち煩くしつこい連中だ。いい加減にしろ、と怒鳴りつけてやりたい衝動をぐっと堪える。
 やがて何か結論が出たのか、ぴたりと静まった。どこかにスイッチがあるのではないのかと疑いたくなるほどの切り替わりの早さだ。あきれる俺を尻目に、また別の長老が前に出た。
「もう一つございます。表家の後継者、せつな様の事ですが」
 うわ、今度はそっちか。
 今の気持ちが表情に出なかったか、自分でも不安になってしまうほどの衝撃を受けたのは間違いない。しかしそれでも平静さを取り繕うよう努める。裏家は当然表家とは内心敵対関係に近いものがある。たとえ幼馴染とは言えども、せつなの話に何かしら反応するのは良くない傾向とされてしまうのだ。
「茜様はせつな様に対してどういった御心象をお持ちでしょう?」
「なんだよ、それ。別に関係ないだろ、そんな事は」
「差し出がましいのは重々承知ですが、万が一もありますから」
 どきっ、と胸が高鳴る。
 まさか俺とせつなのあれが知られてしまったのだろうか? だが、あの場所を知っているのは俺達だけのはずだが……。
「茜様がせつな様に対してどう言ったお気持ちであられるのか、それが重要なのでございます」
「俺はそういう回りくどいのは嫌いなんだよ。わざわざこんな時間に呼び出したんだ、初めから誰にも聞かれたくない話をしたいんだろ? 特に表家には聞かれたくない」
 だから早く言え。
 そんな気持ちを込めて長老を睨み返す。
「では本題に入りましょう。明日の定例演舞の事についてです」
 定例演舞。
 月に一度、忌小路家を束ねる宗家の最長老を招き、表家裏家の両頭目が試合を行う行事だ。しかし試合と言っても必ず表家の頭目が勝利する習わしになっており、裏家の頭目は意図的にであろうと敗北しなくてはならないのである。つまりは茶番劇だ。だがこんな茶番劇でも宗家の最長老を初めとした連中には喜びと生き甲斐を感じている。代々続いてきた忌小路家の武力の素晴らしさに浸る、自己満足みたいなものだ。
 あ、もうそんな時期か。
 前回の演舞は先週ぐらいにやったばかりのように思える。だが、負ける事に慣れたとは言っても相変わらず面倒には変わりない。こんなもの、早く止めてしまえばいいのにといつも願って止まない。
 だが、その定例演舞が一体なんだと言うのだ。
 すると、
「これをお受け取り下さい」
 長老が差し出したのは、一振りの豪奢な飾り付けのされた刀だった。
 何の真似だ?
 そう目で告げると、長老は不気味なほどの無表情で俺を見据えてきた。俺に刀を受け取れ、と強要している事がひしひしと伝わってきた。その眼力はとても痩せ細った押せば倒れるような老人のものとは思えない。
「これは亡き先代の御佩刀にございます」
「父さんの……? でも、これがなんで?」
「明日の定例演舞、この刀を持ってせつな様を亡き者にして頂きたい」
 俺は我が耳を疑わずにはいられなかった。
 初めは俺の聞き間違いかと思った。しかしこの場にいる長老全ての異様に燃え滾った眼光が、言葉よりも遥かに雄弁にそれを突きつけてくる。聞き違いでも幻聴でもない。長老は確かに、俺に対して『せつなを殺せ』と言った。
「は? 口を慎め。冗談でも済まされないぞ。そんな事、出来る訳がないだろう」
「せつな様の御力など、茜様の足元にも及びませぬ。問題はなかろうと存じ上げますが」
「そういう意味じゃない。もしもせつなを殺してしまったら、表家も宗家も黙っちゃいないって事だ。せつなは表家の後継者だぞ」
 すると、長老は突然片膝を上げると、ずいっと俺に向かって顔を近づけてきた。
「不幸な事故に何を問われましょう。そもそも、表家は裏家よりも優れているのです。負ける事は有り得ないのですから」
 ああ、なるほどな。
 酷く冷めた頭で、俺は長老衆の言いたい事を理解した。定例演舞で裏家が表家に負けるには昔からの慣わし。それは、あくまで表家が流派『幻舞』として北斗十二衆の一派に君臨するため、裏家流派『源武』を影に押しやるパワーバランスの強制的な再認識だ。理屈から言えば、表家が表舞台に立たなければならない理由は無い。ただ、昔から表家がそうだったから今もなぞっているだけに過ぎず、それを勘違いして増長する表家が裏家としては気に入らないのだ。だから、表家の頭目であるせつなを殺す事で慣例に従っているだけのパワーバランスを突き崩す。そして裏家流派『源武』が成り代わって表舞台に立つのだ。
 しかし、これは忌小路家の歴史にとって重大な事件となるだろう。表家と裏家のパワーバランスを覆す事は、これまでの両家の関係そのものを根本から引っ繰り返してしまう事になる。そのきっかけを作り出した俺もただでは済まない。謀殺されてもおかしくはないし、総括部からの査察も入るだろう。だが、北斗十二衆の頭目席に空席を作る訳にはいかない。済し崩し的に俺が頭目として任命される可能性はかなり高いだろう。その済し崩しが、長老衆の狙いだ。
「明らかに意図して殺したとしても、あくまで事故か?」
「そう、事故でございます。茜様は後々の事をご心配される必要はありませぬ。我々が引き受けます故」
 事故にしなければ、表家の面目が立たないからな。
 長老の言葉に胸の中で、そんな言葉を勝手に補足した。信じられない話、表家の長老衆の中には本気で定例演目のパワーバランスが現実のパワーバランスと等しいと信じている人間がいる。そんな連中を納得させるには、やはり事故という不運をこれ以上無く分かりやすく表現した一言しかないのである。
「言いたい事は分かった。だけど何の意味があるんだよ。裏家が表家に成り代わる事に、それほど重要な意味があるとは思えない」
「裏家の為でございます。かつてこの裏家に、茜様ほど武の神に愛された者はおりませぬ。これは裏家を日の当たる場所へ導かれるという御神託でございます」
「神託なんて戯言だ。受け止め方の問題だろ? そんな事でわざわざ取り返しのつかない事件を起こすなんて馬鹿げてる」
 これ以上付き合い切れない。
 我慢の限界が来た以前に留まる理由を失った俺は、一方的に立ち上がると長老達を押しのけるようにして襖へと向かう。やはりこいつらはみんな狂ってる。相手にしていたら俺までああなってしまう。そんなのは死んでもごめんだ。俺は出来るだけ長く正気を保っていたいのである。
 だが。
「お待ち下さい、茜様。貴方様には裏家の人間全てに等しく幸を与える義務がございます」
 長老衆の誰かがそんな言葉を俺の背中に投げかけた。
 義務、という言葉にはたと足を止める。俺は義務や約束は必ず果たす事を信条にしていた。たとえ強制された義務とは言えども、自分の都合で投げ出す訳にはいかなかったのである。
「何が義務だ。俺を共犯者にするための都合の良い解釈じゃないか」
「上に立つ者は矢面に立って当然、それでも下の者を思いやるのが務めかと存じます。茜様がせつな様を手にかける事で、表家には非難されましょう。ですが日の目を見た裏家は、茜様に対し生涯感謝と尊敬の念を忘れず、心から忠誠を誓うでしょう。逆に茜様が現在の境遇に甘んじれば、裏家は茜様の代に希望は無しと項垂れ不信感を募らせようとも無理はございませぬ」
 俺がせつなを手にかける事で、裏家の人間全てが幸せになる。
 それは頭目という責務の全うに少なからず不安を覚えている俺にとって、心が揺れなかったと言えば嘘になる。たとえ強制されたとしても、良い頭目であったと喜ばれるよう務めたい気持ちがあるからだ。だがすぐに、心揺れた自分を俺は軽蔑した。人を犠牲にしなければ何かを成せないのは偽善的な責任の転嫁だからである。
「お願い致します、茜様。今こそ裏家の未来のため、何卒御英断を」
 長老衆の視線が、一斉に俺に集まり答えを強要する。
 その時、俺は初めて自分の矮小さに気がついた。長老衆を老いぼれ連中だと罵っておきながら、この状況で彼らに逆らう事が出来なくなっていたからである。
「……分かったよ。やるだけやるさ」
 俺の言葉に、一同の顔が同時ににんまりとほくそえんだ。その悪夢のような光景に思わず吐き気が込み上げてきた。



TO BE CONTINUED...