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 冷静さと深い集中は似ているようで異なる。俺は今、まさにその間を紙一重で維持していた。
 定例演目、御前試合。その日、舞台を挟んだ両家の長老衆はいつものように自分達の頭目に対して視線を注いでいた。しかし俺は、今回ばかりは浴びせられる視線の質が異なっている事を感じていた。敗北を強制された御前試合に挑む俺に対し、普段の哀れみと悔恨に満ちたそれではなく、不気味に燃え上がる期待の眼差しが注がれているのだ。色で例えるならば、紫。妄執と狂喜に満ちた紫炎だ。
 黒い礼装束に身を包む俺は、舞台に上がる前に既に仮面を被っていた。普段ならば必ず舞台に上がるまで被らないのだが、今日ばかりは違った。少しでも集中力を完璧な形で保っておきたかったのだ。俺は仮面をつけて戦う事に慣れてしまったせいか、戦う時の素顔を見られるのが苦手なのである。
 舞台上のせつなは俺を意外そうな目で見ている。その理由は二つ、一つは俺が仮面を被って舞台に上がった事、そしてもう一つは手にした装飾刀だ。これまでの御前試合で、俺が一度たりとも仮面を被って舞台に上がった事が無いことをせつなは知っている。更に、携帯する武器が常に飾り気の無い短刀である事もだ。
 素顔が見えず普段とは違う武器を持つ俺の姿は、まるで別人のように映っている事だろう。たとえ俺だという確信があっても動揺は決して拭い切れないはず。身近な人間の、突然の心境の変化が外面に現れると、人は足元を掬われたかのように必ず驚きに捕らわれてしまうのだ。
 左腕に巻き付けた鈍銀色の鎖、その重さを何度も確かめながら舞台中央へと進んで行く。
 心の針を決して揺らさず、頭の中にフィルターをかけたかのように自分自身の客観視を徹底し、必要最低限の情報だけを機械的に思考へ取り入れて行く。
 ただ、氷のように冷静に。否、冷徹にだ。
 自分を名工の刀の如く、何度も何度も繰り返し研ぎ澄ます。刃のイメージは俺を鋭く研ぎ澄まし、余計な思考が入り込むのを一切拒絶した。恐ろしいほどに、ただ殺気をまとわせる事に没頭出来た。
 表家の長老衆は、初めこそせつなの勝利を当然のように確信しながら笑みをこぼしていたのだが、いつしか緊迫していく空気の変化と共に口数を減らして行き、その顔には漠然とした不安を浮かべるようになっていった。
 みしりみしりと、今にも張り裂けそうなほど空気が緊張する。黒いもやのようなものが俺の体には纏わり付き、誰しもに抗い難い沈黙を強制させられる。既にいつもの御前試合ではない事を感じ取った一同、表家の長老衆は土気色の顔で黙りこくり、裏家は俺のただならぬ様子に誰しもが期待を噛み締めた表情を浮かべている。
「茜……君?」
 驚きと不安に満ちたせつなの声が、仮面一枚隔てて聞こえて来る。けれど俺はまるで聞こうともせずに流す。
 俺はゆっくりと装飾刀を抜き放った。無造作に鞘を投げ捨てると、刀を描いたイメージと共に空へ繰り出す。一呼吸で五度繰り出される高速の斬撃は一瞬で無数の断層を空気の中に作り出し、一斉に戻ろうとする空気は奔流となってぶつかり合い鋭い音を鳴らした。
 緊張と期待の奔流がそこでぶつかり合っている気がした。その交点で、俺の刀に切り裂かれた空気が悲鳴を上げているかのようだ。
 刃先をせつなに定めて大上段に構える。
 その時、はっきりとせつなの顔には恐怖が浮かんだ。俺の殺気に飲み込まれたのである。
 いつまで経っても開始の合図は無い。この雰囲気に気圧された進行役は喉を詰まらせているのだ。だが、俺にはわざわざ合図を待つ理由は無かった。舞台上でこうも殺気を剥き出しにしたという事は、御前試合における習わしの束縛から解き放たれた事を意味するからである。
 俺はゆっくりと体重を前へ移して行く。左手を添えた刃先はせつなの体の中心線をなぞり、脳裏に描き出されるイメージへ冷たい刺激を与えた。
 自分の呼吸が驚くほど静かになっていく。その緩慢な呼吸はたった一度で肺一杯に空気を溜め込み、全身へ必要以上の酸素を巡らせる。そのせいか、やけに体の芯が熱く落ち着きを無くしているのを感じた。
 せつなはまだ構えるどころか仮面も被ってはいない。俺の様子に、それほど長く放心するほど驚いているのだろうか。だが、どのみち関係ない。今の俺に相手の出方を待つほどのゆとりは存在しないのだから。
 さあ、行くぞ。
 一度自分の体重を足の裏で確かめ、後ろ足で強く体を蹴り踏み出した。
 脳裏に描くイメージは、やはり冷たい刃。風のような生ぬるいイメージは必要としていない。俺が求めるのは、純粋な冷酷さだ。
 俺の体は重力の鎖を断ち切れず、普段よりも加速が鈍い。しかし周囲の動作はそれ以上に緩慢に感じる。集中力が高まっているためか、周囲の光景が実際の時間の流れよりも一瞬早く見えるのだ。
 踏み込みながら緩やかに刀を腰に納める位置で刀を下段に構え直す。
 せつなの体を両断する自分。
 俺は何度もそのイメージを描いた。繰り返し繰り返し、執拗に、せつなに叩きつけ脳裏に焼き付けてやらんばかりに。
 と。
 遂にせつなが動き始めた。長く逡巡しているようにも、ただ俺が加速し過ぎているだけにも思えるタイミングだ。
 せつなは表情を隠すように仮面を被る。そして腰に携える装飾の施された短刀を抜き放った。
 そんな一挙一動が、俺の目には酷く緩慢に映った。同時に、俺の体もまるで水の中にいるかのように緩慢に感じてならなかった。そこでようやく加速しているのは自分の思考だけであると気づいた。
 刃のイメージと自分を同一視するとこんな事が起こるのか。
 考えてみれば、刃なんて露骨に戦闘的なイメージを描いたのは初めての事だ。幾ら鋭利な刃のイメージを明確に描いたとしても、自分の体が本当に刃そのものになる事は無い。そもそもイメージの同一視とは、自分が描いたイメージに対する客観的な印象に大きく左右されるのだ。同じ風をイメージしても、人によって効果が変わる事があるのはそのためである。
 俺にとって刃の印象とは、人のような心を持たず切る事だけを存在意義に持つ存在、というものだ。つまり刃と同一視した今の俺は、ただ目の前の敵を切る事だけに集中する存在になったのである。余計な事を考えることが出来なくなった分、一つの事に思考を集中させられるようになったため、時間の感覚に過敏化する現象が起こったのだ。
 ゆらりとせつなは左腕を肘から持ち上げて前方へ掲げる。そして肘を起点にし手首から先までを一気に跳ね上げる。すると左腕に撒きついていた鈍銀色の鎖が生き物のように放れ、自らの意思で獲物を捕らえるかのように繰り出された。
 さすがだ。
 繰り出された鎖を見た俺は、そう素直に思った。
 せつなは何のイメージも描いていない。にも関わらず、これほどしなやかで力強く鎖を操れるのだ。俺はどちらかと言えば鎖の扱いは不得手である。だからせつなの技術にはいつも目を見張らされる。
 とは言え、たとえどれだけ優れた技術を持っていたとしても、俺は少しも恐れなかった。それは刃のイメージの影響によるためだけではない。せつなの鎖は数え切れないほど目にしている。つまり、見慣れてしまっているのだ。鎖の速度、入射角、軌道、そして微細な癖の一つ一つまでもが俺の目にはしっかりと焼きついているのだ。言ってしまえば、初動さえ見てしまえば後は音と空気の流れを頼りにし、目を瞑ってでも避ける事が出来るのである。
 だから、俺には分かるのだ。どう立ち回れば安全に回避でき、また、どう立ち回るのが一番危険なのかを。
 加速する視界がせつなの鎖の軌道をはっきりと捕捉する。平素では閃光のようなその動きも、獲物に歩み寄る蛇のようにゆったりとした緩慢な動きにしか見えない。たとえ俺の動きも同じように緩慢なものであっても、軌道さえ分かれば必要最小限の動作だけで捉える事が可能である。
 尚も前足を踏み込み加速する。思考が加速している分、全身の力を繊細に配分する事が出来た。体重の負荷が最もかかる場所に力を込める事で効率良く加速出来る。しかしどれだけ走ろうとも風を切る涼やかな感覚はなく、ただ冷たい風がねっとりと絡み付いてくるだけだ。
 大きな幾つもの曲線を描きながらせつなの鎖が、正面から突っ込んでくる俺を迎え撃つ形で襲い掛かる。俺を真っ向から打ち据えようとする軌道だ。唸りをあげながらのたうつ様は、鞭というよりも獲物を前にした大蛇そのものだ。藪に潜む蛇とは違い、獰猛な大蛇の前に人間は驚くほど無力だ。直接的な力の行使ですら物ともしないばかりか、逆に大蛇は易々と全身の骨を砕く事が出来るのである。せつなの鎖は見掛け倒しではない。名実共に、大蛇という表現が正しいのだ。
 これがもしも普段の状態であれば、相対速度の関係でまともに鎖など見る事が出来ずあっさりと打ち据えられるだろう。反応と反射だけで回避するには、既にこの構図では手遅れなのである。だが、今は思考が異常に加速している。どれだけ加速しようとも視界が狭まる事は無く、はっきりと鎖の姿や動きを見る事が出来る。
 しかし、俺は鎖の軌道を目視しておきながら、更に前へ踏み込んだ。そして、その最後に踏み締めた一歩が致命的な結果をもたらす。
 そして。
 がんっ、と火花が目の前で散ったような気がした。
 みしりと骨が軋む音を聞いた瞬間、まるで跳躍するような浮遊感を俺は味わった。目の前が明かりを消されたように真っ暗になり、すぐに上下の方向感覚を失った。それは暗い夜の海に沈んでいく様に似ている。
 あれほど鈍重な体が恐ろしく軽くなり、一定の方向へ向かっていくのが分かった。あ、と声を上げる自分の思考が鈍化している事に気がついた。実際の時間の流れと思考の早さとが、いつの間にか入れ替わってしまっていたのだ。
 そこへ不意に襲ってきたもう一つの衝撃。
 鈍化した思考でそれが、背中から舞台に叩きつけられたものだとぼんやり分かった。そうしている間にも俺の体は舞台の上を滑走していく。やがて行き着いた舞台の袖、力を失っていく俺の右手がだらりと垂れ、ぶつかった土の感触が伝わってきた。
 鎖を受けた瞬間に鋼のイメージは描いて防御するような事はしていない。そのため、せつなの本気の鎖を真っ向から受けた痛みは尋常ではなく、あまりに強烈な激痛で指一本動かす事が出来なかった。それどころか呼吸すら苦しく、普段何気なく作り出している呼吸のリズムが大きく乱れ、自分の意思で息を吸って吐く事が出来なかった。けれど、俺は少しも悔やむどころか、むしろ清々しささえ覚えていた。それは、何もかもが自分の思う通りに運んだからである。
 ざまあみろ、ジジイ共。誰がお前らの言いなりになるものか。
 激痛で今にも叫び出しそうなのに、自然と口元に笑みが浮かんだ。だがその表情も仮面に覆われているため誰にも分からないだろう。結局、俺はそんな自己主張しか出来ないのだ。
 俺はお前らの人形じゃない。ある程度は従ってやるが、全部が全部思い通りになるなんて思うなよ。
 本当は正面を切ってそう言ってやれば良かったのだ。しかし臆病者の俺はどうしても波風を立てたくは無いから、誰にも迷惑のかからない穏便な手段を用いるしか出来ない。せつなを殺す事も出来なければ、裏家の存在を蔑ろにする事も出来ない。だから考え出した最善の手段とはこれ、俺は俺なりに頑張っているという誠意を形だけでも見せる、なんてくだらないものだ。結局、俺のする事は半端なのだ。頭目という肩書に対する姿勢と同じように。
 すーっと意識が薄れ落ちていく。眠りに落ちるのとは違った、血の気が引いていくような不快な感覚だ。そういえば、ここ数日はまともに寝れてなかったっけ。
 誰かが何かを叫んだらしく、空気の振動が耳に伝わった。しかし、それを確認する間もなく意識が暗闇へすとんと落ちてしまった。
 所詮、こんなものだ。
 臆病者の俺に出来る抵抗なんて。



TO BE CONTINUED...