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 それは唐突な目覚めだった。
 瞼がまるで弾けたかのように激しく開いた。ほぼ同時に覚醒した意識は驚くほどはっきりとしており、やけに冷静に状況を把握しようとする事が出来た。本当に、まるでほんの一瞬の間に目を閉じてすぐに開いただけかのようだ。
 ぼんやりともしない意識はすぐに記憶を思い起こし、自分が置かれている状況を推察し経緯を組み立てる事が出来た。とは言っても、さしてそれは難しい事では無かった。大切なのは二点、今日が定例演目の日であった事と、舞台でせつなの鎖に打たれて気絶した事、それさえ分かれば寝ていた間の成り行きを想像するには十分だった。
「そうか、あの時に……」
 俺は自室の布団の中に居た。息をすると胸骨の辺りがやたら痛む。痛みの範囲を手繰ってみると、丁度真っ正面から逆袈裟に打たれているのが分かった。御前試合で見せた、せつなの鎖の跡だ。きっとくっきりと痣が出来ているだろう。
 既に日は落ちているようで、部屋の中は真っ暗だった。にも関わらず、どこからか差し込んでくる明かりによって随分はっきりと見渡す事が出来た。火のようなオレンジ色の明かりではない。青白くて涼やかな落ち着いた感じのする明かりだ。
「くっ……」
 俺はゆっくりと歯を食いしばりながら布団から起き上がった。胸が刺すように痛み呼吸が苦しい。そっと起きなければ、再び気を失ってしまいそうである。
 ふと、痛みを無くすイメージを描こうと思ったが、やはり思い止どまった。前に先生に、身体の生理機能を著しく変化させるようなイメージは描いてはならない、と注意された事を思い出したからである。
 そういえば、なんだか体が熱っぽく感じる。もしかすると骨が折れているのかもしれない。
 無理も無いか。今思えば、随分と無謀な事をしたものだ。せつなの鎖をまともに受けるなんて、一歩間違えでもしたら死んだっておかしくないのだ。俺が死んだら裏家は、なんて事を心配する殊勝さとはそんなに縁深くはないが、自ら死にに行くような自虐的な趣味は無い。しかし、幾ら他に考え付かなかったとは言っても少々無謀過ぎた。思慮が足りない。
 部屋の中を這いながら柱を伝って何とか立ち上がると、そろそろと体に振動を与えないように気をつけながら歩き、障子を開けて部屋を出た。
 あ……。
 不意に、より眩しい明かりに照らされた俺は思わず夜空を仰いだ。群青色の夜空には青白い月が真円を描いていた。雲一つ無い晴れ渡った夜空に月の明かりが眩いばかりに映えている。
「そうか、今日は満月か……」
 夜だというのにあんなに明るかったのは、満月の明かりが入り込んで来ていたからなのだ。
 こんなに手元までがはっきりと見える月夜なんて随分珍しい。
 俺はそっと縁側に座った。腰を下ろした瞬間、びりっと胸に痛みが走り顔をしかめてしまう。打撲傷にしては随分と鋭い痛みだ。
 なんだか酒でも飲みたい気分だ、と俺はぼんやり思った。とは言っても酒なんて飲んだ事もないのだけれど、こんなに綺麗な夜空を眺めながら飲むと気分が良さそうに思うのだが、酒の味がどうこうという問題じゃなくて、その雰囲気を楽しむ事が重要である。普段味わえない情緒に対する感慨を深める儀式のようなものだ。
 そっと吹き付けてくる夜風が前髪を跳ね上げた。前髪をかきあげながら風の吹いてきた方角を確かめる。
 本当に心地良い夜だ。明るくて涼しく、何よりこの静寂が良い。誰にも喧騒という暴力で荒らされる事の無い、いわば聖域のようなもの。たった一夜限りの聖域とは言っても、俺にとっては何ヶ月にも匹敵する安らぎが得られる。一日二日熟睡するよりもずっと気分が安らぐのだ。
 そういえば。
 ふと、俺はある事を思い出した。先日、せつながあんな事を言ったから、まだそれは記憶の表層に留まっていたからである。
 確かあの夜も、こんな月夜だった。
 お互い夢中になって貪りあい、気がつくとそのまま眠り込んでしまっていた。目が覚めた時はすっかり日も暮れて、慌てて二人で夜道を駆けて帰ったのだ。山の夜道は足元も覚束なく危ないのだけれど、その時ばかりは満月の明かりに助けられたのである。
 月は、特に満月は人を狂わせると言う。満月の夜だけ現れる殺人鬼といった怪談もその類から来ているのだと思う。もしも事実ならば、忌小路の血も満月の明かりに反応したのだろう。ただこうして眺める分には美しく情緒的で趣があるけれど、そんなもう一つの顔を知ると、月の美しさがあまりに神秘的過ぎて時折魔性めいたものすら感じてしまう。
 今度、月のイメージでも描いて使ってみようか。ふとそんな事を俺は思った。月が人を狂わせるのならば、狂った血族である忌小路の頭目の象徴として相応しい。物言わず主張もせず、夜の間だけ人目を忍ぶように鎮座する。まさに、忌小路家の誇る二派の一つ、流派『源武』の頭目を現しているかのようだ。
 いや、そんな自虐的な事を考えるのはよそう。無理なイメージを描いたって心身に無意味な負担がかかるだけだ。そんな事で自分の寿命を縮めるのは馬鹿馬鹿しい。
 不意に、どこからかざわめくような音が聞こえてきた。吹き付ける風が少し勢いを増している。きっと木々が夜風に吹かれてざわめいているのだろう。
 夜風はあまり体に良くないから、そろそろ布団に戻ろうか。
 縁側に手をついて体を持ち上げようとしたが、やはり怪我をした胸がずんと痛んだ。まだ肌寒くはないし、むしろ熱っぽくてこうしている方が楽だからもう少しこうしていようか。それに、風邪を引いたとしてもどうせ当分は怪我の療養をしなくてはならないのだ。大した問題は無い。
 怪我のせいか、普通に座っているだけでも体が緊張して体勢を維持するのが辛い。俺は腰の位置だけをずらして柱に寄りかかった。柱は思っていたよりも冷たく、背筋がぶるっと震え胸に要らぬ刺激を与える。
 俺はこれからどうなるのだろう。
 ぼんやりと月を眺めながら俺は小さく息をつく。
 いや、そうじゃない。これからどうしなければならないのか、それを考えるべきだ。もう、俺は分かっているはずだ。これまでのように黙って言われた事に従っていたら、自分を見失って忌小路家の伝統に飼い慣らされてしまう事を。
 俺は今日、定例演目で長老衆に抵抗した。けれどそれは、客観的に見ればただ慣わしに従っただけの事でしかなく、抵抗と呼ぶにはあまりに拙いものだ。こんな事を繰り返したって、ただこれまで通り両家の力関係が継続されるだけである。かと言って、長老衆がそそのかすような裏家の傲慢な発展を望む事もしない。表家と裏家の関係は停滞していながらも秩序が保たれていた。それを壊してしまおうというのだ、必ず軋轢は生じるだろうし忌小路家そのものの破綻にも繋がりかねない。破滅的な将来など、俺は望んではいないのだ。
 果たして俺は、どういった頭目にならなければならないのだろう?
 裏家の繁栄に徹する事が当たり前かもしれない。しかし、そんな模範的な回答の前には必ずせつなとの、表家との関係が立ちはだかる。裏家を真に繁栄させようとするには、表家を没落させなければならない。即ち、せつなの謀殺である。
 俺は裏家の望む頭目になろうと思っている。けれど、今の表家との関係を壊したくはない。ましてや、陰湿な謀略など持っての他だ。秩序を保てている現状を維持した上で、裏家を繁栄させたいのである。けれど、そのための具体的なビジョンというものを俺は持ち合わせていない。現状を壊さずに裏家を繁栄させようなど、今の時点では所詮夢物語、単なる抗弁でしかないのだ。
 俺は、俺の思う繁栄を築きたい。けれどそれは、俺の自己満足、価値観の押し付けなのだろうか?
 本当に裏家は、表家が没落しなければ幸福が訪れないのだろうか?
 きっとあるはずだ。相家が歩み寄って納得し合いながら繁栄する方法が。今はただ、俺が見つけられていないだけで。
 再び、涼やかな夜風に頬を打たれる。それが加速する俺の思考に歯止めをかけた。
 所詮、俺の主張など頭の中だけで繰り広げられる夢物語にしか過ぎない。考えても実行に移すだけの行動力、何より意欲がないのだ、結局は何もしていないのと同じである。
 そもそも、忌小路家に未来なんてあるのだろうか。
 代々近親婚を繰り返した結果、子供が生まれなくなり、生まれてもまともに育つのは十人に一人にも満たない。種として行き詰まりつつある忌小路家、退廃的な現状で見据える先とはどんなものなのだろう。
 頭目になるべき人間がこんな事を考えてはならないと思う。だが、いつも頭の片隅にそれはあった。
 忌小路家がこれ以上狂気に支配される前に、血族そのものを全て断つべきだと。
 戦闘集団『北斗』という組織の単位で考えれば、忌小路家のように閉鎖的な流派は不安要素にしかならない。流派はそれぞれ主義主張は異なってはいるものの、北斗の理念を厳守するという根本的な所は共通し、対外的にもはっきりと意思表示しているのだ。だが、忌小路家はそれを拒み、北斗の理念と着かず離れずの所で独善的な姿勢を続けている。そう、忌小路家だけなのだ。自分達を北斗の一部とは考えず、忌小路家だけに帰結してしまっているのは。
 いつからだろう? 親戚を忌小路家として考え、表家裏家の構図に自分の態度を反映させるようになったのは。
 それが、視点の変化、子供から大人へ成長するという事だ。成長の階段は否応無く登らされる。それに連れて少しずつ大人の世界というものを知る事になった。だが、忌小路家の世界はあまりに汚過ぎた。その中で上澄みだけをすくって生きて来た事に気がついた俺は、汚泥の底をしっかりと見据える事に尻込みをしている。そればかりか、目を背け逃げ出そうとする事すら辞さない心積もりだ。
 俺に何が出来るのだろう?
 何かをやろうとしても、全て忌小路家の狂気の渦に飲み込まれてしまう。俺は忌小路家の狂気に敗北を認めてしまっている。一度心が折れてしまった以上、少なくとも忌小路家よりも自分の人生を優先させようとする事はないだろう。
 幼少時代のなんて無邪気な事か。自分の将来や忌小路家内で起こる表家と裏家の軋轢などまるで考えず、先生の戦闘術の教えに一喜一憂し、頭目になる事を義務付けられた自分を漠然とながらも誇らしく思っていた時代。一言で言うならば、無知が故に幸福だった時代だ。
 あの無知なままで生きていられたらどんなに幸せだっただろうか。けれど、もし実現できたとしても、それは時の流れに逆らった停滞だ。とてもまともとは言えない。つまり、正気のままで生きていくには時の流れに倣って自らを常に変化させていかなければならないのだ。それは人間として当然の営み、けれど俺に与えられた土壌はあまりに酷過ぎる。息をするだけでも噎せ返るような腐臭が漂っているのだ。今、自分がどれだけ正気を保っていられているのかすら自信が持てない。既に手の施しようが無いほど内側から腐ってしまっているかもしれない危惧すらあるのだから。
 しかし、俺は正気だ。少なくともそう信じ、自分に課せられた使命がどれだけ重いものか理解している。俺はこれから頭目という肩書きを背負わされるだろう。けれど、その重さに潰れてしまう事は決して許されない。俺に求められているのは、良くも悪くも裏家の繁栄に繋がる頭目、寝ても覚めてもただ一心に裏家の事だけを考えなければならないのだ。そう、たとえ忌小路家がどれだけ汚らわしく思えても、自分の命よりも大切にしなければならない。
 本当に今夜は月が綺麗だ。出来る事なら、そのままの姿でどこかに留めておきたいとすら思う。自分の胸の内では駄目だ。俺の胸の中はやがて狂気に蝕まれるだろうから。
 もうあの頃のままではない、と思い、ふと切ない気持ちになった。
 月の美しさを、深遠な神秘性と魔性に震える事なく、ただありのままに受け入れられたであろうあの頃。
 そんな自分の幼さが、酷く懐かしい。



TO BE CONTINUED...