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 あくる日。
 俺は朝から南区に向かって歩を急いでいた。
 気分は最悪だった。それは歩くたびに痛む胸の傷のせいだけではない。
 とにかくあの屋敷から少しでも早く離れたかった。もしも体に傷を負っていなかったら、間違いなく全力で走っていた。今の俺はそれほどまで忌小路家に嫌悪感を感じていたのである。
 今朝、朝食を食べ終えた頃。食後のお茶を飲みながら腹をこなれさせていると、突然、長老衆の一人が訊ねて来た。裏家の仕来りで、家督者は何故か食事は専用の部屋で一人で取る事になっている。そこにわざわざ訪ねて来たのだ、俺は少なからず訝しんでいた。
 切り出しはさも無い事からだった。怪我の具合とか、いつ頃に全快しそうなのかとか、そんなどうでもいいお節介である。だがその後、やはり予想した通り嫌な話をされた。昨日の御前試合について関わる事である。
 あれは不幸な事故だから気にするな、俺の方が本当は実力で勝っている。
 そんな事だけだったならまだ我慢が出来た。しかし長老はそれに付け加え、先生を俺から外すなどと言って来たのである。俺が負けた責任を取らせるためと、俺が稽古に出ないことからの指導力不足を指摘しての決定だ。
 処分の可否を問われたが、俺は答えずに屋敷を後にした。と言うよりも、そこからしばらく記憶が欠落している。そのあまりの身勝手な処分に思わずカッとなってしまったのである。
 返答を態度で示したつもりだったが、確かめもしなかったのでどう受け取ったかは定かではない。ただとにかく、あの屋敷には居たくなかった。身内のあまりの醜悪さには吐き気すら込み上げてくる。
 本当にふざけてる。
 どこか自分の足取りが忌々しいものを踏みつけるかのような荒々しいものになっていた。俺は、自分では割と冷めた性格だと思っていたけれど、随分と感情を荒げ易いようだ。
 俺は別に先生を庇おうとか、そんな事は微塵も考えてはいない。ただ、昨日の御前試合の責任を先生に追及するのはお門違いじゃないのか、という事だ。先生が好きだろうと嫌いだろうと、そういう曲がった事は許せないのである。
 しかし、そんなに頭に来たのなら、何故すぐその場で言わなかったのか。
 単純に言えなかっただけなのだ。庇うつもりはなくとも、その場を擁護する言葉を思いつけなかったのである。下手な事を言ったためにその後自分の立場に窮するのではないか、という嫌らしい打算だ。
 やがて辿り付いた南区は、いつも通りの熱い活気に満ちあふれていた。朝から多くの人が行き交う大通りは、道の幅が分からなくなるほどの賑わいだ。北斗はヨツンヘイムでも唯一の自治都市、産業が栄えないはずはない。その上、最強の戦闘集団『北斗』の恩恵にも預かれるのだ、当然人は各地から集まって来る。
 行き交う人に従いながら、特に目的も持たず通りをゆっくりと歩いて行く。俺は群衆の流れに身を任せながら歩くのが好きだった。体の中に一定の周期があって、喧噪を好む時と静寂を好む時があり、静寂を好む時は裏山に、喧噪を好む時はこうして人の群れに身を浸すのである。
 喧噪の何が好きなのか、と問われると自分でも良く分からない。今でもこうして客寄せの声を聞いていると、なんて不必要に元気なんだろう、と呆れてしまいさえする。ただ一つ言えるのが、自分の傍に人の気配を感じる事で気持ちが落ち着くのだ。孤独癖のある俺だが、孤独感をはっきりと口に出す事は出来ない。だからこんな自己満足のような方法で自分を慰めているのだろう。
 いつの間にか更に広い通りに抜け出て、行き交う人達がより数を増す。
 周囲を見渡すと、俺と同じぐらいの人達が仲間同士で連んで歩いている姿がよく見られた。これからどこかへ遊びに行こうと画策しているのだろう。
 ふと俺は、自分にはあんな親しい友人が一人として居ない事に気がついた。誰かと親しくなりたければ、何気なく声をかけるなりして接点を作ればそれでいい。しかし、それが俺には出来なかった。俺自身の社交性の問題ではない。自分が忌小路家の人間であると知られた時、どんな反応をされるのかが恐いからである。
 あの忌小路家なんだと知るならばいいだろう、しかし逆に、全く知らないとなれば説明しなければならない苦痛に苛まれる。忌小路家を説明するのに狂気の二文字は決して欠かせないからだ。
 それでも俺を受け入れてくれる人は中にはいるかもしれない。だが、拒絶される苦しみを味わう事の方が圧倒的に多いくて当然なのだ。誰だって厄介な事は避ける。俺には差し引いた上でそれ以上にプラスになる魅力が自分にあるとは思わない。
 そして最後に。
 忌小路家の人間は、歳月を経ると突然狂い始める。近年に生まれた者ほど早く、重く狂うのだ。俺もいずれ必ず狂うだろう。そんな姿を、忌小路家の狂気を理解してくれた人になど見せられるはずも無い。
 だけど、これも言い訳なのかも知れない。俺はどこかで忌小路家とは何の関わりもない普通の人と接する事に恐れを抱いているのだ。いつ、自分が忌小路家の人間かと気づかれ拒絶されるかと、怯えて過ごす事が嫌で嫌でたまらなくて。
 忌小路家は社会には決して交われない。
 ただ、忌小路家に生を受けただけで、俺は一生忌小路の姓に縛られるのだ。社会的にも、そして本質的にも。俺にとって忌小路家とは解ける事の無い呪いだ。若しくは、決して抜け出せない鎖か。
 これほどの群集の中に居ながらも、俺はどこか拭いきれない孤独を感じていた。
 それは、俺が自分で一般人の中に溶け込めていないと思っているからだ。真実の程は定かではない。単に俺が自意識過剰になり過ぎているだけで、本当は誰もそれほど気に留めてはいないのかも知れない。けれど、俺自身が自分を常人とは決定的に違う異質な存在である事を自覚しているのは揺ぎ無い事実だ。俺は白鳥の中に紛れ込んだアヒル、そんな劣等感を常に抱き続けている。
 と。
 不意に喧騒の中から随分と語気を荒げた声を聞きつけた。声のした方を見やると、母親らしき女性が子供に対して叱りつけている光景を発見した。子供は丁度物心がついたぐらいだろうか。母親に怒鳴りつけられるものの、何やら言い分があるらしく必死で弁解しようとしている。しかし母親はそれをまるで意に介さず、そればかりか素直にならない子供の態度までをも叱り付ける。
 普段、重ね重ね思うのだが。
 長老衆や裏家にとって、俺はさほど重要な存在ではないと思う。本当に重要なのは頭目という記号であって、俺はたまたまその記号に選ばれただけなのである。だから、互いの間に横たわった深い溝を埋められ無いのは必然であって。
 嘆くべきは、この意識差だ。俺がどれだけ近代的な調和を作りたくても、裏家は意固地になって旧態依然の習わしにこだわる。皆が同じ方向を向かずして、どうしてより良く裏家を改善していけるだろうか。もう忌小路家は時代の流れから大きく取り残されてしまったのだ、早く追いつくためには要らぬ荷物は切り捨てなければいけないというのに。
 そして、取り残されると知りながらも忌小路家の習わしに従う俺もどうかしている。
 俺は宿木が無ければ生きていけないちっぽけな存在なのだ。だがその宿木は、忌小路という呪われた血族だ。留まれば留まるほど体を狂気に蝕まれる。かと言って、宿木から離れて生きていく術を俺は持ち合わせていない。
 俺は一生離れる事は出来ない。忌小路家という宿木からは。
 たとえ離れようとしても、決して断ち切ることの出来ない鎖が俺の足を繋いでいる。
 所詮、忌小路家の種畜にしか過ぎないのか。
 やがて。
 叱られていた子供が母親と手を繋ぎながらどこかへ向かい始めた。二人の顔には共に笑みが浮かんでいる。諍いの理由はどうあれ、何らかの形で和解する事が出来たようだ。親子とはそんなものだ。怒る時は他人以上に激しく怒るものの、理解する時は氷が溶けるよりも遥かに早い。そこへ辿り着くまでに何かしら絡まる事があるかも知れないが、どこか理屈じゃない所で理解し合えているのだ。
 俺も、いつかは忌小路家を裏家を理解し受け入れる事が出来るのだろうか。
 いや、きっと済し崩しにそうせざるを得なくなるのだろう。出来なければ、狂うのが早まるだけだ。



TO BE CONTINUED...