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 その日は珍しく、正午を過ぎても空腹感は訪れなかった。
 気分が落ち込んでいるせいだろうか。感情の起伏が食欲に直結している辺り、自分の気の弱さが窺える。
 一応、何か通りの良いものを少しぐらい食べておこうかと思ったが、やはりそんな気分にはなれなかった。俺にとって街に出てきての食事とは楽しむためのものであって、楽しめない気分なのであれば何を食べようが同じ事なのだ。食事を取らないと背が伸びないのでは、と思ったが、気分でもないのに取る食事は苦痛な作業だ。わざわざ辛い事を進んでするほど俺は自虐的では無い。
 昼時で賑わう通りを抜け、俺は再び忌小路家の屋敷がある方へ向かった。
 朝、来る時に通った道は憎々しいほど強く踏み締めて歩いたのだが、今は怒りも収まっているせいか足取りは驚くほど静かで柔らかくなっていた。それにしても妙な心境の変化だ。あれだけ頭に血を昇らせていながら、それが収まったかと思えば今度は意味も無く落ち込んでいる。何となく分かったのだが、俺は苛立っている時は喧騒を、そうでない時は静寂を求める傾向にあるようだ。今も、あれほど心地良かった喧騒が急に耳喧しく感じるようになったのでいつもの裏山に向かっている。
 裏山に近づいて行くに連れて、南区から聞こえてくる喧騒が背中から離れていく。それは丁度屋敷の屋根が見え始めた頃に遠ざかり、裏山まで来ると完全に聞こえなくなった。
 俺は周囲の音に耳を澄まし、慎重に不快感を催すような雑音が無いかを確かめる。聞こえてくるのは普段と同じ、木々のざわめきや小鳥の羽ばたきぐらいで、同じ北斗とは思えない静寂に包まれている。風も涼やかで心地良く、物思いに耽り過ぎて疲れた自分が体を休めるには最適の環境だ。
 いつも座る切り株の傍に、小石に気をつけながら寝転んだ。頭を組んだ手のひらを草むらとの間に挟み頭の位置を支える。そして目を細めながら晴れ渡った空を眺めた。
 今日は雲の流れが速いから、明日辺り天気が崩れそうだ。そうなると逃げ込む場所が無くなってしまう。まさか押入れの中に一日中隠れている訳にもいかないし、さてどうしようか。幾ら屋敷の中が広くてもそこは魔物の腹の中だ、俺がゆっくり出来る場所は無い。
 なんだか考え過ぎて疲れた。
 少し眠ろう。そう思って俺はゆっくり目を閉じた。
 視界を塞ぐと、周囲の音がよりはっきりと聞こえてきた。普段、人間がどれだけ視覚情報に頼り先入観だけで聴覚情報を改編しているのかがよく分かる。
 風は吹き付ける時と流れる時では音が違う。強く吹く時の方が音が大きくて低く、逆によそ風は小さくて高いのだ。普段の生活では決して気づく事の無い些細な事だけれど、知る事そのものが胸の中に心地よさを満たした。
 やがて意識が朧ぎ、思考が夢との間で途切れ途切れになり始めた。別にこのまま眠ってしまっても構わないのだけれど、どうしても意識が何かに行く手を阻まれているかのように眠りの深い所へ踏み込んで行く事が出来ない。その阻んでいるものこそが俺を悩ます種だ。これが取り除く事が出来れば、きっといつでも思う存分眠る事が出来るだろう。しかし、たとえ頭を開いて中を捜し回ってもその種は決して見つける事は出来ないだろう。それは俺にしか感じない、俺にしか作用しない種なのだから。
 と。
 ……ん?
 ふと意識が浅く浮かび上がったその時、俺の耳がある音を聞き止めた。
 それは明らかな人の足音だった。草むらを踏み締めながらゆっくりとこちらへ近づいてくるのが分かる。
 草を踏む足の音が軽い。俺以外でこの場所を知っているのは唯一人だけである。そう、この足音は間違いなくせつなだ。
 せっかくいい気分で眠っていたというのに、またちょっかいを出しに来たのか。
 初めは感じたままそう安易に思った。せつなも俺と同じで時折稽古をサボる癖がある。その時は見つけられぬよう誰にも知られていないこの裏山へやって来るのだ。だから今日もまたいつものそれだろうと俺は思ったのだ。
 しかし。
 俺はゆっくりと目を開いた。
 何かが普段と違っている。うまく言えないのだが、明らかに質の違う空気が流れ込んできたような気がしたのだ。
 きっと天気の変わり目に入ったからそう感じただけなのだろう。俺は違和感を振り払った。
「やっぱりここに居たね」
 そして聞こえてきたのは、やはり予想通りせつなの声だった。
 俺は両腕で突っ張りながらゆっくりと体を起こすと、せつなの方を振り向いた。せつなは稽古用の黒装束を身に纏い、腰には真っ赤な漆塗りの短刀、左腕には鈍銀色の鎖を巻きつけた出で立ちだ。また短刀の鞘と柄を変えたようだ。前よりもけばけばしさが抜けたとは思うものの、やはり漆は黒の拭き漆がいい。赤はあまりに目を引き過ぎて短刀には向かないのだ。
「なんだ、今日は弁当無しか?」
 わざとおどけた口調で話しかける。しかし、せつなはにこりともしなかった。普段はもっところころと忙しく表情を変え、むしろ俺の方が表情に乏しいぐらいなのだが。
 なんだ、今日は随分と無愛想だな。何か嫌な事でもあったのだろうか。
 そう思い、もう少しからかってやろうとした次の瞬間、
「ッ!?」
 せつなは突然、腰に差した短刀に手をかけると、それを何の躊躇いも無く一気に抜き放った。そして切っ先を真っ直ぐ俺の喉元に向ける。微かに太陽光を浴びた刀身はきらりと美しく乱反射する。刃の焼付けが施されてなければならない、独特の反射だ。
「何のつもりだよ」
「私と戦って。勿論、本気で。出来るよね? ここには私達しかいないんだから」
 一体何を言い出すのか。
 唐突な出来事に驚いた俺だったが、せつなの眼差しは真っ直ぐ俺を見据えている。そのあまりに冷たい視線に思わずぞくりと背筋を震わせた。せつなの眼差しは何かしらの覚悟を決めた人間のそれに違いなかったからである。
「何の為だ。俺はいつも本気で戦っている。昨日だってそうだ。それでもお前は勝ったんだから、お前が俺よりも強いのは明らかのはずだ。それを今更なんだってんだよ」
 俺もまたせつなの揺ぎ無い視線に対し真っ向から睨み返した。
 せつなの言う事を俺は到底理解出来なかった。俺とせつなが本気で戦う事に何の意味があるのか。ましてや、俺達は元々忌小路家の仕来りに縛られている。そのため個々の絶対的な力量を測る必要など無く、裏家が絶対に逆らう事の出来ない表家が、わざわざ対等な条件を提示し裏家に勝負を挑むなど、まさしく忌小路家への反抗だ。
 どうしてこんな事をするのか。
 すると、
 ピッ!
 あまりに突然の事でそれが何なのかを、すぐに理解する事は出来なかった。
 せつなの鎖が俺の鼻先を掠めたのだ。しかも、俺にいつ鎖を抜いたのかを気づかせぬ内に。
「私はね、君の同情で生きる事が苦痛なの。私が勝つのは私の実力、それをはっきりさせたいの。伝統とか格式とか、そんなこと知った事じゃないわ」
 左腕の鎖がするすると生き物のように巻き付く。せつなは短刀の刀身を俺に向けたまま、少しずつ歩を進めてくる。俺達の間合いはゆっくりと狭まっていき、やがて互いの短刀の射程範囲に入るのも時間の問題だ。
「早く抜いて。これは表家と裏家の戦争じゃないわ。私達同士の問題。だから私は本気でやるわよ」
 気がつくと俺はそこはかとなく息苦しさを感じていた。
 その時、俺はこの空気の異質さが何なのかをようやく理解した。
 そう、これは殺気だ。紛れも無い、本物の。
 どうしてそんな事をしなくちゃならないんだ。
 俺は未だに納得が出来なかった。納得もせず戦えるほど俺は割り切った考え方は出来ない。戦いとは、少なからず相手の人格を踏みにじるものだと先生に教えられた。だから双方の合意と納得がいく理由が無い限り、それは単なる略奪だというイメージが俺には根付いている。
 たとえせつなに理由があろうとも、俺に理由は無い。だから戦う訳にはいかなかった。大義も理由も無しに刀を抜く事は鬼畜にも劣る行為だからである。
 せつなは左手でそっと顔を撫でた。するといつの間に携えていたのか、現れたのは素顔ではなく白木の無表情な能面だった。その直後、急にせつなの放つ存在感の雰囲気が変わった。それは脳裏に描いた何らかのイメージを自分と同一視させたためである。
 本気だ。
 せつなは本気で俺を殺そうとしている。
 ならば、俺には自分の生命を守るという正当な理由が出来る。不本意な成り行きの出来ではあるが。
 やるしかないのか……。
 俺は躊躇いながらも腰に差した短刀の柄に手をかけた。



TO BE CONTINUED...