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 はあ、はあ、はあ。
 ぽつりぽつりと何度も途切れながら、せわしなく繰り返される吐息。
 その様を、俺はただただ放心したかのように見つめるだけだった。
 せつなは草むらに両手両膝をつき肩を激しく上下させている。それはあたかも屈服しているかのようにも見えた。
 俺の手にはせつなが被っていたはずの白木の能面があった。そう、俺が攻撃の代わりに剥ぎ取ったものだ。
「もうよせよ」
「まだよ……まだ!」
 顔を上げてキッと俺を見据えると、草むらを掻き毟りながら体を蹴り出して向かってくる。その勢いを乗せたまま、低く構えた朱漆の短刀を真っ直ぐ突き出してきた。しかしそれは、もはや何の技巧も無いただ繰り出しただけのものだった。繰り出された短刀もあまりに単純な軌道で、踏み込み自体も何のイメージも描いていないせいか精細さを欠いている。目を閉じていたとしても、空気の流れだけで十分把握出来ただろう。
 俺はゆらりと構えたまま、空気の流れを辿る。それだけで刃の入射角と速度が読み取れる。
 切っ先は真っ直ぐ俺の心臓を狙っている。セオリー通りの戦い方だ。
 忌小路家の術式は肋骨のような障害物を物ともしない。そのため人間の急所を幾つも知る必要はない。生命を維持する器官を狙えばそれでいいのだ。
 短刀が俺の手合いに入る。その瞬間、俺はせつなの手首を上から押さえつけるように掴んだ。下から抉り上げようとする動作に対し、上から押さえつける動作は圧倒的に有利だ。単純に重力の恩恵もあるのだが、実際は人間の身体的な構造の理由が大半を占める。せつながどれだけ必死に突き上げようとしても、俺は手のひらに少し力を込めるだけで難無く押さえ込む事が出来るのだ。
 その膠着状態を維持したまま、せつなに限界まで力を引き出させる。コツは少しずつこちらも力を抜いていく事だ。すると自分の力が及んでいると勘違いし、更に力を込めてくる。
 十分に力を出したと判断した俺は、突然押さえつけていた手の力を抜きせつなを引き寄せる。同時に掴んだ腕を引っ張りながら体の位置を入れ替え、擦れ違い様に足をかける。人間の心理とは実に面白いもので、普段は幾つかの物事を同時に考えられる人でも、突然の事態に遭遇するといとも簡単に思考が単純化する。せつなは足をかけられバランスを崩した事で、短刀を握っている方の腕から注意を失った。空かさず俺はその腕を捻り上げると、反対の手で腕の付け根を後ろから押して地面に押し付けるようにして組み伏せた。
「いい加減にしろ。何度やったって同じだ」
 その体勢から、尚もせつなは組み伏せる俺を振り払おうと必死で抵抗を続ける。しかし強引に上から強く押さえ込むと、ようやく圧倒的に不利なこの体勢から状況を打開する手段は無い事を理解したのか、やがて抵抗する事を諦めておとなしくなった。それを確認した俺はゆっくりと手を離して立ち上がる。
 これで気は済んだだろうか。
 覇気を失ったせつなは驚くほど静かで大人しく、まるで子供のように小さく見えた。先程までむき出しの殺気を露わにしながら短刀と鎖を繰り出してきたのと同じ人物とは思えなかった。
 せつなはむっくりと静かに起き上がると、手にした短刀をそっと腰の鞘に納めた。そしてそのまま服の汚れを払おうともせず、ただじっと草むらの上に座り込んだままうつむいている。
 少しやり過ぎてしまっただろうか。しかし、これも仕方が無いのだ。あそこまで本気で向かってこられたら、ちょっとやそっとの生ぬるいやり方では本当に殺されてしまいかねないのである。幾らなんでも、わざわざ殺されてやる事なんざ俺には出来ない。
 正直、どう声をかけたらいいのか分からなかった。
 優しい言葉は下手な同情と捉えられ、かえって傷つけてしまう。かと言って、死体に鞭を打つような蔑みの言葉なんか論外だ。
 気まずい沈黙が続く。無言の圧迫感は何よりも耐え難く、苛立ちにもにた焦燥感に身を焦がされる。逡巡する時間が長ければ長いほど、次に口を開いた時の不自然さが強調される。けれど、何も考えず先ず口を開くなんて芸当の出来ない俺にとって、言葉は予め受け答えの内容を予測し考慮してからでなければ迂闊に出す事が出来ない。そう、この沈黙を作り出しているのはそんな自分の慎重さだ。
 しかし、慎重になればなるほど状況が悪くなり、より慎重にならざるを得なくなる。そんな悪循環に陥り立往生していたその時、不意にこの沈黙をせつなが自ら破ってきた。
「茜君……本気出してないよね。刀、抜かなかったじゃない」
 そう言われ、思わず俺は腰に携えた短刀を押さえた。
 抜かなかった訳ではなかった。抜こうにも抜く事が出来なかったのである。刀を抜いてしまったら、本気で挑むせつなに対し傷つけずに済ます自信がなかったからである。
「君は卑怯よ……。どうしてそんなに強いの? なのに、どうして自分じゃ何もしようとしないの……」
 聞き取るだけでやっとの程のか細い声で切々と語るせつな。その声は涙交じりで、普段のころころと表情を変える姿しか知らない俺は思わず悪い意味ではっと目を覚めるような思いだった。
 それは、俺の忌小路家に対する姿勢を言っているのだろうか?だが、それを論ずるならばせつなの指摘はお門違いもいい所だ。俺はそういう意味での強さは無い。忌小路家との関係を断ち切れるような力は。
 俺は無性にせつなの言葉が我慢ならなかった。今、どう扱えばいいのか分からないと憐憫の情に駆られていたはずだというのに。しかし、そんな哀れみ以上にせつなの考え方が俺の神経を逆撫でるのだ。
「忌小路の血からは決して逃れられないんだ。どうしてこの現実から目を背ける? 背けてどうなる? 俺達は一生この束縛からは抜け出せないんだぞ」
「そんなの本当かどうか分からないじゃない。第一、茜君は素直過ぎるよ。どうしてそんな簡単に受け入れて、自分を枠に押し込めるの? そんな人生、楽しい? もっと精一杯生きようよ」
「お前は俺の何を評価してるか知らないが、俺達の敵は忌小路家じゃない。忌小路家の血だ。幾ら強くたって血には勝てないんだよ。だから、少しでも楽しい人生を送りたいなら、せいぜい自分が狂うのを先延ばしにする努力を怠らないようにするだけだ」
 まさか、俺が時間の停滞した忌小路家をどうにか変えてくれるとでも思っているのだろうか?
 有り得ない。
 俺にはそんな大それた野心もなければ、一族を統括する器も持ち合わせてはいない。そもそも俺は面倒事は出来る限り回避して生きる人間だ。わざわざ保証も無い事に波風を立てて掻き回すなんて、とても正気の沙汰とは思えない。
「俺に期待するな。俺には何も無い。力も人望も、ましてや意欲もだ。何も出来ない俺に期待するよりも、自分で自分が納得する方法を探した方が早いぞ。いや、そもそもお前の方こそ妥協点を見つけるつもりじゃなかったのか?」
「私が言いたいのはそんなんじゃないよ! そんなんじゃ……」
 じゃあ何が言いたいんだ。
 俺は苛立つ気持ちを抑えながら、そうせつなを睨み返す。
 せつなの目には薄っすらと涙が浮かび、縁が赤く腫れ出している。俺に負けた事がそこまで悔しいのだろうか。それとも、こうしてしつこく食い下がらなければならない理由が他にあるのか。だが、どちらにしてもこれ以外の結論を俺が口にする事など有り得ない。そもそも、俺とせつなでは忌小路家に対する気概が違い過ぎるのだ。俺は忌小路家の恐ろしさを理解しているからこそ、その中でどれだけ楽しく生きるのかを模索している。しかしせつなは、忌小路家の範疇を飛び出した上での生き方を常に考えている。希望的観測にしか過ぎないが、保守と変革ではあまりに広く深い溝があるのだ。
 せつながゆっくりと立ち上がる。その仕草は、俺が散々痛めつけたせいか実に弱々しく頼りないように見えた。
 立ち上がった拍子に、せつなの体がぐらりとよろめいた。咄嗟に手を伸ばそうとしたら、せつなは思い切り俺を睨みつけそれを拒絶してきた。まるで、俺の情けは受けない、と言わんばかりの勢いだ。無理もないだろう。敗者に対する勝者の思いやりは、敗者のプライドが高ければ高いほど反比例した形で作用するからである。
 何も言わずに去っていくせつなを、俺は止める事が出来なかった。
 そう、俺達は決して理解し得ない。共感とは無縁の価値観を持つ者同士なのだから。どうせ今まではただの馴れ合いでの付き合いを何となく続けてきただけだ。表家と裏家は元来交わらずに繁栄するのが正しい姿である。だから、元あるべき姿に戻っただけ。ただ、それだけなのだ。
 もし、自分の理解者が欲しければ他を当たってくれ。俺には荷が重過ぎるから。



TO BE CONTINUED...