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 俺の一日は、いつも重く気だるい朝から始まる。
 布団からむくりと起き上がり、しばしその体勢のまま放心する。視線はある一点を見つめるものの、何かを特別意識して見ている訳ではない。強いて言うならば目の前の何も無い空間だ。
 額の奥が重く痛む。偏頭痛は別段珍しい事ではない。あまり眠らず、その上元々朝は苦手なのだから誰にだってある病的な症状だ。それでも無視できるほど生易しいものではないから、とりあえずある程度収まるまでこうしている。
 やがて朝ご飯の催促と共に布団から出ると、服を着替え身形を整える。それからいつもの部屋で一人で食事を取り、食後の腹ごなしにお茶を二杯、じっくり時間をかけて飲む。その後は、本来は稽古に行かなくてはならないのだが、俺はそのまま道場には行かず人目を忍んで抜け出す事の方が多い。先生には悪いのだが、修練を積む事自体に意義を見出せないから、わざわざ無意味でしかも辛い事に時間を割く気にはなれないからだ。
 今朝は珍しく、三杯目のお茶を飲んでいた。気がつくと湯のみの中が空になっていて、いつものように飲んだ気がしなかったからである。
 やがて、またしてもあっと言う間に空になってしまった湯飲みを膳の上に置くと、もう一杯飲もうとしたが急須のぬるさに思い止どまり、立ち上がって自室に戻る事にした。
 廊下で何人かとすれ違い、何の気無しに形だけでも挨拶を返す。ただ、焦点が定まらない俺の思考は、口に出した言葉が朝の挨拶なのか夜の挨拶なのか区別がつかなかった。相手に挨拶をされ、反射的に頭の中に浮かんだ言葉を口にしただけなのである。
 何か今日はおかしい。
 朝は思考が鈍化し、ボーッとしてしまう事が確かに多い。けれど、今朝の俺の状態はそんな域を大きく越えている。まるで体と心とがうまく繋がっていない、そんな感じだ。
 気が付くと、俺はいつの間にか自室の前まで来ていて、うっかり通り過ぎる所だった。階段を幾つ上ったのかも俺は覚えていない。いや、そもそも階段すらあったのかさえも。ただ、食事をする部屋からいつの間にかここへ来てしまった、そんな感覚だ。
 今日は時間の経つのがやけに早い。
 俺はそんな現象に陥る理由を一つ知っていた。以前にも何度か同じ感覚に襲われた事があるからである。
 そう、時間の経過が早く感じるのは、物思いに耽る事が多くなっているからだ。
 物思いに耽るあまり、周囲の状況が見えなくなるのはそれほど珍しい事ではない。けれど、今日の俺はそれだけではなかった。自分がいつもより物思いに耽っていた事は分かっているのだが、実際何について耽ったのか覚えていないのだ。
 自分が何を考えているのか分からないなんて痴呆と同じだ。俺は既に狂い始めているのか。ついさっきの出来事なんて思い出せて当然のはずなのだから。もしくは、睡眠不足が祟って何か別の病気を併発してしまっているのか。
 いや、違う。
 そうじゃない。それは全て出鱈目だ。
 俺はしっかりと覚えている。ただ、自分がそんなものに囚われている事を認めたくなかったのだ。俺は、自分で自分を縛るような事はしない。何かに囚われ続ける生き方ではなく、風に逆らわぬ柳のような生き方が俺の信条とするものなのだから。
 だが、現実は違う。
「よし」
 と。
 急に思い立った俺は、勢いよく自室に飛び込むと、着ている普段着を脱ぎ捨てた。そして押入れの奥から真新しい稽古用の黒装束を引っ張り出すと、一瞬躊躇うもやはり思い切って袖を通した。素早く着替えを終えると、左腕に鎖を巻き、最後に古木から削り出した短刀を腰に差して、部屋を後にした。
 先程の憂鬱さがまるで嘘のようにクリアな感覚が戻る。素足で歩く床の冷たさも、薄っすら肌を刺す朝の外気も、熱いお茶で焼いてしまった舌先の違和感までもが、一斉に俺の頭の中に飛び込んで来ては暴れまわる。けれどその感覚を心地良いと思えるほど、俺の気が逸っていた。それは何に対してなのか。ただ、躁状態に陥ったかのように理由の無い興奮が腹の底に灯っている。
 俺が向かった先は、屋敷の離れにある道場だった。
 入り口の前まで来ると、俺は一度立ち止まり中の気配を窺った。しかし、道場の中からは人の気配は感じられずもぬけの空のようだ。普段、先生はもうこの時間には道場にいると思っていたのだけれど。本当に長老衆に辞めさせられてしまったのだろうか。
 誰もいない道場の中に入って行く。床を踏み締める足音は驚くほど道場内に響き渡った。素足で床板を踏み締めるひたひたという足音は、さながら怪談話の節に出てきそうである。
「……さて」
 俺はおもむろに短刀を抜き放つと、自分の目前に相手が居る事を想定して構えを取った。直立の姿勢で前方に伸ばした右手で短刀を水平に構え、左手はやや後ろに引いたままだらりと下げる。初めに取ったこの型は、俺が一番最初に習った最も基本的な型だ。戦いに望むための、壱の型と呼ばれるものである。
 目前に想定した相手の特徴を詳しく描いていく。背は俺よりも高く、痩せ型の男。得物は俺と同じ短刀と鎖。手足も長く、接近するのが如何にも困難そうな体格だ。しかし足が長い分小回りは聞きにくい。仮に俺と同程度の素早さを持っていたとしても、同じ動作で掛かる負荷は段違いである。体格が大きければその分消耗するスタミナの量も増える。だからこの場合、小柄で燃費の良い俺に有利な持久戦に持ち込むのが定石だ。
 俺はイメージを描き、自分と重ねながら同一視する。描いたイメージは、風。俺にとって何よりの自由の象徴だ。
 最も気をつけなければならないのは、この長い手足だ。人の手足は長さが千差万別であり、相手の間合いを見誤れば驚くほどあっけなくやられてしまう。特に長い手足には細心の注意が必要だ。これまでの経験で安易に決めた安全領域の定義は通用しないからである。
 だが、敢えて敵の間合いを踏み越えて、一気に自分の間合いに入り込む。攻撃力は切断の術式によりほぼ同等、後は相手の武器を自分の武器が上回れるのか。即ち、相手の長いリーチに捕らえられるよりも早く懐に飛び込めるかだ。
 集中力が高まっていくに連れて、目の前に想定した想像の相手が実際にいるかのように思えてきた。視覚からの情報と思考で作り出した情報とは脳にとってほぼ等価であり、理性の取捨選択によって人間はそれを認識する。だから、俺が本当に目の前にいるものだと思い込めば、実際にはいなくとも俺の描いた通りの相手がそこに現れるのである。想像力は忌小路家の戦闘術にとって最も大切なものだ。他の誰か、もしくは何かになりきるための術式だからである。
 男は決して自分から手を出して来ようとはしなかった。リーチに優れているのなら、相手を迎撃する方が遥かに有利だからである。そして、素早さを武器とする俺は徹底的に攻め立てる事で初めて有利な状況が作り出せる。
 まず狙うのは足だ。足の自由を奪う事で攻撃能力を著しく制限し、同時に自分にとっても立ち回りやすくなる。それからじっくりと攻め立てるのだ。
 が。
「ッ!?」
 その時、俺は思わず息を飲んでしまった。目の前に描いていた仮想の相手は長身痩躯の男だったはずなのに、いつの間にかそこには、黒装束に身を包んだせつなが構えていたからである。
 慌ててイメージを振り払い、仮想の相手のイメージを作り直す。再び目の前に視点を戻した時にはせつなの姿は無く、急造のため若干歪んだ長身痩躯がぎこちなく構えていた。そんなイメージではまともに動かす事が出来ないため、補正を試みようとイメージをもう一度描き始めた。しかし思うように姿が思い描けず、仕方なくこれ以上は無理だと諦めて男の姿を破棄してしまった。
 今、俺が囚われているもの。それはせつなのイメージだ。昨日のせつなの顔が、声が、頭から離れてくれないのである。
 あんな世迷い事に気を取られるなんてどうかしている。
 けれど、俺が自ら自分の可能性を制限している、そんな自覚は無い訳でもなかった。
 俺は本当に忌小路家の狂気に屈するには早過ぎるのだろうか?
 今の俺にあるものは武力だけ。しかも、ほんの僅かな才能だ。それだけで忌小路家の狂気を払拭し、変革を望む全ての人達を呪縛から解放する事が出来るのか。今の俺は、出来るはずはないと考えているからこんなスタンスを取っている。しかし武力が本当に無力なのか、俺は真実をまだ自分の目で確かめていない。俺はまだ自分を限界まで磨いていない。そんな半端な所からの視界で、一体どんな真実が見えるというのだろうか。そう、今の俺に見えている世界はまだ天辺からの景色じゃない。
 構えた短刀を返し、両腕を後方に引き下段に構える。膝を軽く曲げて重心を落とし、やや前傾の姿勢を取る。弐の型。攻勢に移るため、踏み込みやすい足位置を定める型だ。
 俺はイメージを描き、自分と重ね合わせた。
 描いたイメージは、昨日のせつな。そう、俺はせつなになりきって、あの時の真意を確かめようと思ったのだ。
 しかし、込み上げてくるのは無言の一言だけで、せつなの真意などまるで理解出来ない。
 やはり無理だ。俺にはせつなを理解する事など出来ないのか。
 よく考えてみれば、それは当然の事だった。俺達は馴れ合いだけの関係だから、互いの間には一定の境界線を引き、それ以上の歩み寄りは決してしなかったからである。だから、俺の描くせつなのイメージとは上辺だけのもので、構成するほとんどが俺の勝手な想像でしかないのだ。
 俺は三度、中空に短刀を燻らせると、そのままゆっくりと腰の鞘に納めた。そして姿勢を最初の直立に戻し、後ろへ引いた手を戻しながら静かに大きく呼吸をする。参の型。戦いを終え、再び日常に戻るための姿勢であるが、型にはそれほど意味は無く、むしろ我に帰るための儀式のようなものだ。戦いと日常とを明確に区別をつけるために設けられた型なのである。
 型の反復などどれだけしていなかったのだろうか。こうして姿勢を覚えていただけでも我ながら驚いている。体に染み付くほど繰り返した訳でもなければ、自発的な興味を持って修めた訳でもない。これも忌小路家の血に戦いの本能が記録されているからだろうか。そんな陳腐な例えは空想の世界だけの話だが、忌小路家では空想の話と取られてもおかしくはない出来事が幾つも現実に起こっている。だから、こんな馬鹿馬鹿しい事でも絶対に有り得ないとは言い切れないのだ。
 と、その時。
「見るに耐えんな、その型は」
 突然道場に聞こえてきた男の声に、ハッと我に帰った俺は慌てて背後を振り向いた。
 そこに立っていたのは先生だった。どうしてここに、と言いかけ、すぐに飲み込んだ。それはあまりに愚かしい問いかけであり、むしろ先生の方こそ口にすべき言葉だからである。
「そうですね……。心が乱れ切ってる、だから型も乱れてる」
「自覚出来るぐらいには衰えていないようだ」
 不思議と安堵感が込み上げて来た。まだ先生は辞めさせられてはいなかったんだと、そう安心したからだろう。少し前までの俺なら到底想像もつかない理由だ。
「先生、稽古つけてくれませんか? 出来れば、これからもずっと」
 今更何を言っている。これまで散々無視して起きながら、突然の手のひら返しが通用するとでも思うのか。
 初め、そう怒鳴られるのではないかと俺は思った。しかし、先生の表情はむしろ驚いた様子だった。初めて見る、無防備な表情である。
「お前が修練に自ら進み出るとはな。どんな心境の変化だ?」
「今より、もうちょっと強くなってみたいと思ったんです
「何故だ? お前は意味も無く強さを求める人間ではないはずだ」
「興味って言えば興味です。ただ、俺が強くなる事で忌小路家に風穴を開けられるか知りたくて」
「そうか。良い傾向だ」
「でも、俺は基本的に逃げ腰の人間です。困難に立ち向かう勇気も無いし、逃げ出さない覚悟も決められないし。それでも大丈夫でしょうか?」
「勇気も覚悟も強制されるものではない。無ければ無いままで良いのだ。強さには定義も無ければ、王道も、定石も無い」
 すると先生は、ふと手にしたものを俺に差し出した。真っ黒な布で作られた細長い形状をしたそれは、刀を入れるための袋だった。
「そろそろお前には刀の使い方を教えてやろう」
 俺は刀袋を受け取ると、早速口の戒めを解き刀を鞘ごと取り出した。真っ白な鞘には朱漆と金箔とで派手な模様が描かれている。儀式用にでもしか使わないような、あまりに派手過ぎる装飾だ。やや眉を潜めながらも柄に手をかけて刀を抜き放つ。小気味良い音を立てる刀身がきらりと輝いた。
「装飾の割に焼き付けがなってませんね、この刀」
「それが自分自身の姿と思えば良い」
「打ち直しでもしろと? 刀は打ち直しなんて出来ませんよ」
「打てば分かる。人は鋼ではないから希望はあるだろう」
 なるほど。
 俺はまだ成熟していない子供だ。だから、まだ幾らでも自分を変えて高める事が出来る。そんな時期に停滞し続けてはろくなものが形成されないだろう。それは忌小路家を見ればよく分かる。
 少しだけ、変わろう。そして、もっと本気になって何かに打ち込むのだ。それで何かが変わるかどうかは分からない。けれど、確実に俺は変化する。あわよくば、今までは絵空事でしかなかった事も現実のものに出来る可能性が手に入るかもしれない。
 そうだ。俺は、自分よりもせつなを解放してやりたいのだ。何よりも忌小路家の呪縛を疎んじるせつなを。
 裏家の俺には切れない、表家の鎖。それに縛られているせつなを、せつなの鎖を、断ち切ってやりたい。ただ、そう思うのだ。
 本当に出来るのか、分からないけれど。何もしないよりは有意義な事だ。



TO BE CONTINUED...