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 額の奥が痛む。
 しかしそれは、普段の寝不足から来るものではなかった。
 俺は夕食の待つ食事部屋へ向かっていたのだが、正直今はほとんど食欲が無かった。体中がぐずり始め、特に内臓は先程から悲鳴を上げっ放しだ。そんな状態で食べ物を無理に詰め込んだ所で本来の職務を放棄するだけだ。もう少し体を休めなければ、食事は喉を通りそうにない。
 この頭痛は、主に疲労や酸欠から来るものだった。本日の稽古も普段通り、俺の基礎体力の限界を超えるものだったのだ。十分な酸素が取り込めないにも関わらず限界以上の運動を体に強要したのだから、頭の一つも痛くなって当然だ。けれど、始めたばかりの頃なんて酸欠で倒れる事もあったのだから、それに比べたら随分と体力がついたと思う。
 歩くのも辛いほど体はくたくただった。これほど継続して体を酷使したのは、おそらく生まれて初めての事だろう。しかし、どこか不思議と心地良さがあった。体は辛いの一言でしか表現出来ないのだが、逆に精神面ではずっと高いモチベーションを維持し続けている。
 日々に充実感を覚えるなんて。それも、まさか自分がずっと嫌がっていた稽古を再開した事でだ。そんな事は夢にも思わなかった。未だ将来に対するビジョンは明確ではなくて、忌小路家での生き方は以前とさほど変わってはいない。しかし、流されるだけの生き方を辞めたという意識が、俺に確固たる自立心を芽生えさせるのだ。
 ひとまず、先に風呂へ入って着替える事にしよう。その間に食欲もわいてくるはず。普段だったら食べても食べてもすぐに小腹が空いたような感覚に陥るのだ、精神的に落ち込んでいる訳でも無いのだから、正常な食欲はすぐに取り戻せる。
 夕時の忌小路家の屋敷は、沈みかけた太陽によって斑に照らされ、所々に不気味な暗がりが出来ていた。その上、あまりに広くて人の気配も伝わり辛いのだ、住み慣れているはずの俺でさえ、時々ありもしないものに対して妙に神経質になる事がある。誰彼時とは良く言ったものだ。あれの本来の意味は、日の光がうまく当たらなくて誰なのか分からないからという意味ではなく、暗がりに誰かがいるように思えるという意味だ。まるで、そこにいるかもしれないのは、常識では計りし得ないものでもあるかのような謹言を込めて。
 ったく。別に何にも無いっての。
 そう、俺は幽霊のような不確定要素を信じない訳ではないが、そんなものよりも遥かに恐ろしいものを知っているから、大して気に留めないだけなのだ。存在や定義自体が曖昧なものよりも、倫理観の無い人間の方がよほど恐ろしい。しかも、忌小路家においてそういった人間は比較的才能に恵まれている場合が多いから始末におけない。たとえば、疲れも恐れる事も知らない剣の達人が一線を越えてしまったらどう思うだろう? そんな危険な奴には決して近づかない。幽霊は対面しただけではせいぜい嫌な記憶が残るだけだが、狂った剣豪ならば腕の一本を理不尽な理由で取られてもおかしくはないのだ。
 道場のある離れから浴所まではかなりの距離があり、丁度屋敷の端から端へ移動しなくてはならない。普通に考えれば、道場のような汗をかく場所の近くに建てるのが合理的だと思うのだが。改築と改装を繰り返し無秩序に膨れ上がってきた忌小路家の屋敷には、そんな住む人間の利便性というものはまるで縁が無いらしい。
 本来、家督を継ぐ者は人前に出る際、正装とまではいかなくとも普段着のような身形で出てはならないとされている。ましてや、道場からそのまま来た稽古着など持っての他だ。だから俺が浴所に向かうには人目につかない裏口の通りを使わなくてはならないのだが、この裏道はただでさえ遠いにも関わらず更に遠回りするルートなのである。さっさと汗を流したかった俺は、裏道ではなく表廊下を伝って浴所に向かっていた。時間も時間だ、外部の人間が屋敷の中に居るとは思えないし訪ねて来るとも考えにくい。それに通るのはほんの一瞬の事だ。そうそう不運な事には直面しないだろう。
 最悪、ジジイ共に見つかってぶつぶつと言われるだけだ。
 そう安易に考えていた俺だったが、丁度正面玄関から真っ直ぐ伸びる中央廊下に差し掛かったその時。
「あ」
 もっと自然な反応があっただろうが、驚くあまり間抜けな声を出して口をぽかんと足を止めて立ち尽くすなんて、最悪なリアクションを取ってしまった。
 驚く事に、何故かこの時間帯になって明らかに忌小路家の縁者ではない人間と遭遇してしまったのである。
 それは俺よりも一回りは年上の青年だった。顔立ちや雰囲気だけで、すぐに彼が忌小路家の縁者ではない事が分かった。割に整った、いかにも女性受けしそうな外見をしている。いや、そもそも彼自身が老若男女を問わぬどこか人の目を惹きつける魅力に満ち溢れている。少なくとも第一印象で悪く思われる事は無い、そう生まれついた幸運な人間だ。
「お邪魔しております」
 俺に気づいた青年は、滑稽な顔を晒したであろう俺に何の臆面も無く、やけに慇懃な挨拶をしてきた。改めて気づいたのだが、彼は腰に二振りの刀を差していた。俺は刀についてそれほど知識はないのだが、儀礼用のような飾りではない事だけは見て取れる。刀が非常に良く馴染んでいるのだ。それだけ使い込まれているのだろう。
 正直、忌小路家の人間ならともかく、外部の人間にまでそういう態度を取られるのはあまり好きではなかった。まるで、忌小路家の威光が、慇懃な態度を強要しているように思えるからである。
 気を取り直し、改めて対面した俺は、ふと何か違和感のようなものを感じた。まるでお互い初対面同士に接しているが、どうも俺はそんな気がしなかったのだ。
 この青年、やはり見覚えがある。その疑問に対し、記憶は鐘のように的確な答えを返して来た。そうだ、以前、夜中に長老衆と談合をしていたのを見た時、あの場に一緒にいた男だ。けれど、それだけでは俺の疑問は拭い切れなかった。それよりももっと前に、北斗のどこかで見た事がある気がするのである。
 誰だったっけ?
 改めて、俺は自分の世間に対する無関心さを思い知らされた。自分に直接関係無い事は覚えようとしないから、肝心な時に情報が不足してしまうのである。
「裏家の次期当主は、類稀なる才覚に恵まれているとお聞きしました。本日も今まで修練を?」
「今までサボってたツケを払ってるだけですよ。俺はそれほど大層な人間じゃありません」
「御謙遜を。僭越ながら、私は先日の定例演目も末席にて拝見させて頂いております。非常に残念な結果となってしまいましたが、試合中に見せたあの並々ならぬ技の数々、私は賞賛を惜しみません」
 彼はなかなか憎み難い、厭味を感じさせぬ爽やかな笑みを浮かべた。たとえ彼がどんな卑劣な人間であろうとも、この笑顔の前には少なからず躊躇いを感じさせてしまうだろう。それほどの人の良さに溢れた表情なのだ。
 しかし性根が捻くれている俺は、体の良いお世辞を、と悪態をつきそうになった。彼自身に対してではないが、彼が放った言葉の元となった認識を改めさせたいと思ったのである。子供が重箱の隅をつつくようなものだ。
 前回の試合、あれは彼の賞賛に値する所か本当に酷い内容だった。長老衆にそそのかされ、生まれて初めて刀を持って舞台に上がったものの、結局はいつものようにせつなに負けたのだ。いや、いつもの方がある程度の立ち回りがあった分まだましだろう。反省点こそあれど、評価するものは何も無い。むしろ、勝者であるせつなを評価するべきだ。
「俺なんか大した事無いさ。それより、表家当主の方がずっと凄い。あの鎖使いは俺も見習うべきだ」
「しかしながら、貴方はその鎖捌きを見て御出でではありませんでしたか」
 そうやっていちいち過大評価するのはやめてくれ。
 普段ならそう突き放す所だったのだが、どこか青年の言葉は引っかかった。俺の直感が告げるのだ、彼の真意はもっと別の所にあると。そう、その口調はまるで俺がわざと負けた事を見透かしているかのように聞こえてならない。
「風聞なんてそんなものだ。いつの間にかとんでもない達人にされてる。ただの凡人でしかないのにさ」
 先生も含め、周囲は良く俺に対し、戦いの才能がある、と言う。確かに人よりも優れたものを俺は持っているかもしれないが、そんなものは子供の頃に背が高かったとかと同じレベルで、いずれ差は埋まり長い目で見れば大差ないものである。だから、少なくとも俺には到底縁の無いものだ。
 と。
「ッ!?」
 突然、青年の放つ空気が変わった。
 はっと息を飲んで見た青年の顔、そこには思わずぞっとするような冷笑が浮かんでいる。咄嗟に俺は刀の柄に手をかけ身構えた。生命の危険を感じ取ったからである。
 それはこれまでに感じた事もないような、とんでもなく濃密で巨大な殺気だ。ちょっとやそっと武芸を修めただけでは手に入れられないような、人として大切なスイッチを一つ切ってしまったような、大よそ俺の語彙の中ではうまく言い表せる言葉が見つからない、ただただ規格外としか言い様の無い殺気である。
 こいつ、まさか表家からの刺客か!?
 それは十分に有り得る話だ。現に裏家の長老衆は、俺にせつなを殺させようと画策したのだ。もし、先日の御前試合の一件を重く見られたのであれば、表家の長老衆が俺を亡き者にしようとしてもおかしくはない。むしろ、今まで俺が何事も無く放置されていた事の方が不思議なのだから。
 しかし。
 気がつくと青年の顔から不気味な冷笑が消え、これまで通りの人当たりの良い微笑が浮かんでいた。あの化物染みた殺気も嘘のようにどこかへ行ってしまっている。自分の、強張った手足で身構え今にも刀を抜かんとしている姿は、むしろ滑稽にさえ思えた。
 確かにとんでもない殺気を俺は感じ取った。だが、今目の前にいる青年からはそういった血生臭いものは一切感じられていない。今、俺は殺気をぶつけられたと思って刀に手をかけている。けれどその殺気は現実に起こった事なのだろうか。何かを勘違いして過剰に反応してしまったか、もしくは白昼夢に似た幻覚でも見たのか。
 一体何を思い違えたのだろう? 俄かに俺は自分の感覚に疑いを持ってしまった。殺気立つ俺と温和な表情で佇む彼との温度差があまりにも激しいのだ。
 すると、
「これが分かるという事は、あなたはそれだけ素晴らしい力を持っているという事ですよ」
 そう青年は朗らかに微笑むと、丁寧に一礼し、くるりと踵を返してその場を後にした。
 唖然とする俺を尻目に、青年の背中はあっという間に門をくぐり外へ消えてしまった。
 まるで何事も無かったかのように、終始整然として礼儀正しい一挙一動はそのままだった。おおよそ親が子に求めるであろう、模範的な要素を全て詰め込んだ姿、その完璧さは同じ人間とは思えないほどである。非の打ち所が無い人間などいるはずがないというのが世間一般の常識だが、彼はそこから逸脱した正しく非常識の体現化だ。狂気に片足を突っ込んでいる俺にしてみれば、直視出来ないほど眩しい場所に居るのが彼、そんな彼があんなおどろおどろしい殺気を放つだろうか? 彼のような精練された人間に血生臭い武道など縁があるはずがない。俺の感じ取ったものはただの錯覚だ。
 俺は先程の出来事をそう自分の中で整理した。
 そうでもしなければ、自分がおかしな方向へ踏み違えてしまいそうで恐かったのだ。まるで狂気という刃に襲い掛かられ鼻先を掠められた、そんな気分だ。
 けれど、俺は納得が出来なかった。どうしても整理したはずの自分の理屈には納得のいかないものがあるからだ。
 そう。
 やはり、俺は夢を見てはいない。何故なら、俺が対抗して殺気を見せたというのに、彼は微動だにしなかったからだ。幾ら素人でも、目の前で刀を抜く仕草を見せられたら焦りの一つも見せておかしくはない。どうして彼は平然としていたのだろう? それは、俺がそうなるように自分で差し向けたからに他ならない。そうだ、あの恐ろしい殺気は間違いなく彼自身が意図して俺に向けたものだ。あんな虫も殺さないような顔をしているにもかかわらず。
 何者なんだ、あいつは……。
 只者ではない事はあの殺気だけで十分に見て取れる。問題は、何故裏家に当たり前のように出入りが出来るのと、それを長老衆が許諾する理由だ。ましてや、忌小路家に外部の人間が帯刀したまま入るなんて聞いた事が無い。例外というものを作らないのが忌小路家の伝統だ。それを何故か、彼は二振りの刀を帯びていた。そんな人間と癒着してまで得たいものでもあるのだろうか?
 あいつは絶対に忌小路家のためにはならない。
 それが誰のどの立場からによる言葉なのかは分からない。ただ、俺の直感がそう告げるのだ。俺は人より特別勘が鋭い訳ではないのだが、自ずと勘付いた事に関しては外れた事が無い。
 俺は青年の腰に差した二振りの刀の姿を脳裏に見ながら、最後まで訝しい気持ちのまま、彼の背中が消えた方を見つめていた。
 何にせよ、今後はあの青年と共に長老衆の動向に気を配る必要がある。たった一つの見落としが、致命的な結果を生み出してしまう。そう己が胆に銘じた。



TO BE CONTINUED...