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 暗い。
 そう、俺はもう何度目になるのか分からないほど、その言葉を部屋の隅で小さく震えながら繰り返した。黒い礼装束を身に纏い、懐には短刀を忍ばせ、左腕には鎖を巻きつけている。戦うための井出達でありながら、俺はがたがたと子供のように震えているのだ。
 あれから一体どれほどの時間が経ったのだろう? 夜明けまであとどれぐらいあるのだろう? 時折そんな事を考えもしたが、俺はただひたすら恐くて仕方なかった。初めての実戦、それに対する気負いもある。けどそんなものより、自分が何故これほど怯えているのかまるで分からない事が、何よりも恐ろしくて仕方ないのだ。そんな状態だから眠れるはずもなく、そればかりか床につく事すらままならない始末だ。 なんとなく、自分が危ういという事は分かっていた。だから、その気になれば平素の自分を取り戻す事など訳なかった。なのに、俺はあえて危うい自分のままでいる事に浸っていた。そうやって自分を貶める事が、正気を失う事でしか楽になれないという結論を導き出した自分にとって心地良かったのだ。
 俺はもう、何をどうしたいという明確な思考の起結を見失っていた。ただなるがまま、されるがままに、周囲に流されながらとりあえず生きてみよう、そういう意志しか残っていないのだ。少しでも苦痛を感じないように。
 俺は心の底から朝の訪れを願っていた。この暗闇、一分一秒でも長く留まっていると本当に気が変になってしまいそうだ。暗闇は俺の心を飴玉をしゃぶるようにじわりじわりと蝕んでいく。意識の境界線が朧いでいく感覚は俺の体が溶けてなくなりそうな危機感を煽り立て、闇の静寂は亡者のようなおどろおどろしい叫び声をあげて耳を引き裂く。
 それら全ては恐怖に慄く俺の意識が生み出した想像の産物にしか過ぎない。しかし理性は恐怖に屈服する事をまるで厭わなかった。俺には恐怖に打ち勝てるだけの強い理性などは初めから持ち合わせていないからだ。
 何時になったら朝は来るのだろう。
 まさか、永遠に日は昇らないのではないだろうか?
 そんな馬鹿げた憶測に怯えながら、俺はひたすら体を小さく折り曲げかたかたと震え続けた。自分でも自分が押さえられなくなっている。意識と体とがあっけなく切り離されたのだ。
 と。
 ……ん?
 不意に聞こえてくる物音。周囲が静かなだけに、余計にその音は良く響いた。
 それは人の足音だった。けれど、ここは忌小路家の屋敷である。人の足音など当たり前に聞こえてくる。深夜とて、今は明朝に表家との戦争を控えている状況だ、誰かが起きていたとしても決しておかしな事ではない。
 そう、だから恐れなくていいんだ。
 自分に言い聞かせ、震える体をぎゅっと抱き締めた。
 だが、その足音はわき目も振らず真っすぐ近づいてくると、どういう訳か俺の部屋の前で止まった。なんとか押さえつけていた恐怖が、一気に膨れ上がり今にも俺の体を突き破りそうになる。一体誰が、こんな時間にどうして俺の部屋を訪ねてくるというのか。悪い想像ばかりが脳裏で踊る。
 冷静に考えれば、幾らでも妥当な理由は思いつく。わざわざ取り乱す必要など何一つ無い事は気がついていた。しかし、走り出した恐怖を抑えるなんて、この憔悴しきった体には到底無理な話だ。神経が今にも焼き切れそうなのだ。
「起きているか?」
 そして襖の向こうから、恐らく足音の主であろう声が聞こえてくる。
 その声に俺は聞き覚えがあった。知人が訪ねて来たのだ、もう恐れる事はないだろう。だが俺はどうしても安堵する事が出来なかった。恐怖が恐怖する理由を失ってしまっているせいだ。
「入るぞ」
 そして俺の返事も待たず襖が開かれた。ぬっと遠慮も無く入って来たのは、忌小路家では珍しい長身痩躯だった。
 開け放たれた襖から月の光が差し込み、男の顔をぼんやりと部屋の中に映し出す。鷹か梟を思わす鋭い目はじろりと俺を見下ろしてきた。威圧的なこの風貌の持ち主はこの裏家において二人といない。そして、俺を頭目ではなくあくまで一人の人間として接する姿勢であり続けるのも同じ人物である。俺の先生だ。
「さすがのお前も初陣前では眠れぬか」
 先生は隅で震える俺の姿を見て、薄っすら口元に笑みを浮かべた。嘲りなのか呆れなのかは分からなかったが、そんな表情の変化を判別する余裕さえ今の俺にはなかった。
「何を恐れている? 死ぬのが恐いのか? それとも、殺める事が恐いのか?」
「闇が……暗闇が俺を飲み込もうとするんです」
 俺は震える唇をやっとの事で動かし、潰れそうな喉の奥から精一杯のか細い声を捻り出した。
 しかし。
「ッ!?」
 突然、先生は荒々しく俺の胸元を掴むと、恐ろしいまでの力で無理やり引っ張り上げた。俺の体はあっさりと持ち上がり、強制的に直立の姿勢を取らされる。そのまま先生は俺のすぐ目の前まで詰め寄った。
「逃げるな」
 じっと先生の鋭い目が俺を真っ向から見据える。その表情は、俺も初めて見る激しい怒りの色が浮かんでいた。たった一言の言葉が、これほど深く突き刺さるなんて。先生はそれほど、今の俺の姿に怒りを覚えたというのか。
 次の瞬間、不意に俺は眠りから覚めたような気分にさせられた。一体何を怯えていたのか、急に分からなくなったのである。
 俺が恐怖に慄いていたのは自分をあえてそこへ傾倒させていたからであって、それがどれだけ意味の無い事かを客観的に悟った時、自分を追い詰めることの必要性に疑問を抱いた。答えは至極単純で、考えるまでもない。俺に、自虐趣味は無いのだ。
「己を強く保て。でなければ飲み込まれて落ちるぞ」
 そう言って先生は突き飛ばすように俺を離した。俺は力無く畳の上にへたり込み、唖然とした表情で先生の顔を見上げる。
 俺は先生に怒られたのではなく、不甲斐なさを叱られた事に気がついた。自分で自分を追い詰めるから恐怖に飲み込まれるのだ。以前、先生には恐怖について講釈された事がある。恐怖とは器に貯められた水のようなもので、器が安定していれば決してこぼれる事はないが、ほんの小さな穴でも空いていれば、そこから一気に穴を押し広げて流れ出すのだ。恐怖に負けない心とは、一片の隙も無い心の事である。その点、俺の心はわざわざ改めて見るまでも無く穴だらけだ。
 ようやく普段の自分を取り戻した俺は自分の力でなんとか立ち上がり、乱れた服装を正して身形を整える。落ち着くことで思考に余裕が出来、暗闇に体を溶かされる幻覚もなくなった。なんとか朝ぐらいまで自分を保てそうである。やはり気分が鬱状態に入った時は、自分の力だけではどうにも解決出来ないものなのだ。特に俺は弱腰な人間だから、先生のような誰であろうと容赦なく喝を入れてくれる人が必要なのである。そうでもしなければ、俺はとにかくネガティブな方へとひたすら転がり続け、あっけなく忌小路の宿命とでも言うべき正気を失う事態に陥る。俺に必要なのは上辺だけ持ち上げる長老衆ではなく、本質しか重要としない先生のような人間だ。
 そういえば、こんな時間に先生は一体何の用なのだろう?
 今更ながらその事に気づいた俺は、早速先生に用件を訊ねようと顔を上げる。すると、
「表には門番がいる。中庭を通って裏口に回れ」
 俺が口を開くよりも先に、先生はいきなりそんな事を言い出した。
「何の事ですか?」
「逃げろ、と言っているのだ」
「今、逃げるなと言っておきながら?」
「禅問答をしている暇など無い」
 先生は厳しい視線を俺にぶつけてくる。何の迷いも無い、まるで抜き身の刀のような視線だ。
 まさか本気で言っているのだろうか?
 考えてみれば、先生は冗談を嗜むような柔らかい人間ではない。けれど、幾らなんでもこれはあまりに常識からかけ離れ過ぎてはいやしないか。頭目である俺に向かって、表家との戦争を前にしながら逃げる事を指示するなんて。しかも俺は、裏家の軍勢を束ねるだけでなく先陣を切るという重要な役目がある。そんな俺が開戦の前に行方をくらませてしまったら、裏家の士気が下がる事など目に見えている。
「そんな訳にはいきませんよ。夜明けには表家との戦争なんですから。俺は頭目です。逃げる訳にはいかないじゃないですか」
 先生でもその言葉はあまりに非常識過ぎる。幾ら俺でもその程度の良識の判別はつくし、先生の指示だからと言って、はいそうですか、と素直に了承する訳にはいかない。いや、そもそもそんな事を俺に指示する先生の方がどうかしてる。そんな非難を込めた眼差しで、俺は先生を睨み返した。
 しかし。
「ならば、それがお前の選んだ、お前の人生なのか?」
 え?
 意表を突いた先生の返答に、一瞬、俺は言葉を詰まらせた。
 裏家を率いて表家を打ち滅ぼす。それが俺の選択した人生なのか。
 はっきりと肯定する事が俺には出来なかった。何故なら、もしそうなのであれば作戦会議ではもっと積極的に意見を出し、大人達に割って入り如何にして表家の連中を殺してやろうと、むしろ嬉々とした表情を浮かべただろうからである。
「悩むのは、お前が自分の意思で決定していないからだ。だから選べ。忌小路家の飼い殺しで一生を終えるのか、全てを投げ捨てる覚悟を決めるのか」
「俺は裏家の頭目として逃げる訳にはいかない。そういう風に、初めから決められて俺は生まれたんです。この忌小路家には」
 それでも俺の答えは初めから決まっている訳で。俺はそれをすかさず言葉にして返した。俺は頭目、裏家を良く導いていかなければならない義務がある。たとえどれだけ倫理観から逸脱してしまった一族でも、頭目である俺がいなければ迷走し希望を失ってしまうのだ。俺は生涯、一族の光でなければならない。俺の存在そのものを生き甲斐とする人間すらいるのだから。
 が。
 突然、俺の視界が激しく揺れた。訳の分からないまま、のけぞり返るように畳へ尻から落ちる。遅れて、俺を襲った衝撃に比例した痛みが、じんっと頭を駆け巡った。そこでようやく俺は殴られた事に気がついた。それも平手ではなく、岩のように硬く握り締められた拳でである。
「それは誰の意思だ!? いい加減、自分を忌小路家に縛り付けるのは止めろ! 忌小路家がお前を縛り付けているんじゃない、お前が縛り付けているのだ! 鎖は自分で解き放て! それで選択しろ! 戦うのか!? 逃げるのか!?」
 唖然と見上げる俺に、先生は声を荒げ激昂した。
 先生に殴られる事は初めてではなかったが、俺は酷く驚いていた。先生に稽古以外の理由で殴られた事に対してか、先生が声を荒げる所を初めて見た事に対してか、それは分からなかった。ただ、頭の中が真っ白になるほどの、それは衝撃的な出来事だった。殴られた痛みなどどこかへ忘れてしまっていた。
 そして、俺はぎりっと奥歯を噛んだ。
 湧き上がってきた感情は漂白された脳裏を塗り直し、殴られた痛みと衝撃を取り除いてくれた。しかしその代価として、俺が日頃から忌小路家の野蛮さを揶揄する時に使う感情的な行動へ、理性の制止を無視して駆り立てた。
 気がつくと俺は、そのまま立ち上がり強く握り締めた拳で力一杯先生を殴り返していた。何の技術も無い、ただ感情の赴くがままに拳を繰り出した。それも俺には初めての事だったが、思ったより受ける衝撃は小さかった。先生を自分の感情だけで殴りつけるなんて大それた事をしでかせば、もっと感ずるものがあるだろうに。
「先生も……先生も先生だ。もういい、好きにやってろ! うんざりなんだよ、そういう押し付けは! 茶番に命までかけて付き合えるか!」
 俺は叫んだ。
 叫ぶなんて俺の柄じゃない事は分かっている。けれど自分の感情を押さえられなかった。頭に昇った血が理性の働きを完全に抑圧してしまっている。だから俺は、自分が言っている事が本音なのか嘘なのかばかりでなく、何を言っているのかさえ理解する事が出来なかった。感情に任せ、ただ叫んでいるに等しい状態である。
 そして俺は先生と目も合わさず、部屋の隅に立てかけておいた白鞘に朱漆と金箔とで派手な模様が描かれた刀を取り腰に差した。先生から貰った、刃の焼付けがなっていない見せ掛けだけの刀。飾り立てられただけの自分を象徴する、戒めのような刀だ。
 無言のまま、俺は先生の横を通って部屋を出た。先生はそのまま空っぽになった俺の部屋を向き続け、そして俺はそんな先生と背中合わせに立った。
「俺は……もう限界です。いっそ、こんな一族なんか消えてしまえばいいのに」
「そうだ、それでいい。ようやく自分の意思で自分の道を歩く気のなったな。さあ、早く行け。二度と引き返すな。お前は、これ以上忌小路家の汚毒に浸かってはならん」
 ついさっきまでの喧騒が嘘のように、俺も先生も穏やかな言葉が自然と口をついて出た。お互い、理解し合っていての行動だったのだ。そう思った時、急に胸を締め付けられるような息苦しさに見舞われた。俺にはうまく言い表せられない、不思議な感覚だった。ただ、あれほど疎ましかった先生と離れたくない、そう素直に思った。
「先生は?」
「私の事は捨て置け。既に、後戻り出来ぬ狂気の道へ足を踏み入れた人間だ」
 そうですか。
 その言葉を口に出来たかどうかは分からなかった。ただ俺は一礼し、気がつくと裏口へ向かって駆けていた。
 早く離れなければと思った。これ以上長く留まっていたら、何か理由をつけてまた自分をここに縛り付けてしまいそうに思ったのだ。けれど、先生の姿が頭から離れてくれなかった。どうして先生の事がそんなに気になるのか。俺は物心ついてから父親と接した事が無い。だからなのだろう、俺はどこかで先生を父親と重ね見ていたのだ。
 人気の無い裏口を飛び出し、一気に闇夜の中へ自らを踊り出す。空気は冷たく透き通っていて、なんとなく朝が近いのだろうと思った。
 俺はひたすら駆けた。ただ闇雲に、何かを目指すのではなく、忌小路家から少しでも早く遠くへ逃れるために。
 自分でも本当は分かっていた。忌小路家を離れた俺に何が出来のか、という事が。
 いや、案ずるだけ無駄だ。もはや後戻りは出来ないのだ。なるようにしかならない。それよりも俺がどうしたいのか考えるべきだ。忌小路家の御家騒動と、北斗の内乱を目前にして。俺に何が出来るのか、そして何がしたいのか。意思を明確にしなければ、俺はすぐに踏み止まってしまうのだ。
 俺は何がしたいのか。
 俺は何が出来るのか。
 暗い水底に腕を突っ込んでかき回すように、俺は自分の真意を探した。
 そして、それは見つかった。
 せつなを助けよう、と。
 せつなは何よりも忌小路家に縛られる事を嫌っていたのだ。だから、むざむざこんないかれた連中の諍いに巻き込み死なせてなるものか。生きるのも死ぬのも、あいつの自由にしてやりたい。少なくともこんな所で死ぬなんて本意じゃないはずだ。
 せつなは俺の同情は要らないと言った。俺が助けたとしても逆に恨まれるかもしれない。けれど、それでも俺は構わない。助けられた事を恨むなら、生きて俺に復讐を果たしてくれればいい。せつなも解放してやったって悪い事じゃない。それで逆に俺が殺される事になったとしても、俺はもう忌小路家から解放されたのだから十分なのだ。
 俺は目的を定めて駆けた。無論、表家に向かって。



TO BE CONTINUED...