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 俺はひたすら走った。
 とにかく走った。
 息をする暇も惜しんで、ただひたすら前へ前へ。
 今まで、これほど懸命に走った事があっただろうか。何を夢中になっているのだろう? そんな疑問さえ浮かんでくるほど、俺はひたすら走り続けていた。
 昇り始めた太陽が中天まで半分ほどの所まで来ている。夜明けからかなりの時間が経過してしまった。焦りの募る胸が強く締め付けられる。
 表家に向かっていたはずの俺だったが、今は付近の山々を一人駆けていた。それは、表家の屋敷は辿り着いた時には既にもぬけの空で、せつなどころか人一人いなかったのである。おそらく表家は、裏家が夜明けを待たずに攻撃を仕掛けてくるかもしれないと踏んだのだろう。だから前もってどこか別の場所へ拠点を移したのだ。
 それから俺の迷走は始まった。
 せつなの行方を探して走り出したのだが、手がかりも無く闇雲に走るだけで見つかるはずも無く、何の進展も得られないまま両家が日の出の開戦を迎えてしまった。
 それでも簡単に諦められる訳もなく、とにかく俺はせつなを求めて奔走していた。戦況の分からない俺にとって、一人取り残されている今の状況では焦るなという方が無理である。どちらが優勢なのか、そもそも戦いは続いているのかどうかすら分からないのだ。情報から隔離された俺は、今や目隠しされたも同然なのである。
 こういう時こそ落ち着かなければならない。一分一秒を惜しむのも仕方が無いが、闇雲に走り回っても得られるものなど、よほど幸運でも無い限りは存在しない。俺はどちらかというと現実主義、だから冷静になって合理的に行動すべきなのだけれど、肝心のその術を俺は持ち合わせていなかった。それでこんな、偶然に頼る奔走を続けているのである。
 このままでは時間をただ浪費するだけだ。何か考えなければ。せつなの居場所を効率良く捜査出来る方法を。
 と。
「ん?」
 ふとその時、俺は足を止めて辺りの様子を窺った。何か違和感を感じたのである。俺はよく稽古をサボって山に来ていたから、山の持つ独特の空気というものが肌に染み付いている。確かに今日はどこかで戦が起こっているため、血生臭さのような空気は漂っている。けれど、それとはまた別の違和感を感じたのだ。
「この臭い……まさか!?」
 違和感の正体に気づいた俺は、視点を自分の周囲ではなくもっと遠目へと伸ばした。すると、すぐに俺の脳裏に浮かんだものを見つける事が出来た。
 それは、もくもくと上がる巨大な黒煙だった。よく目を凝らせば、根元の方が赤く滲んでいるのが分かった。
 明らかに何かが燃えている。それも、森に火を放ったような広範囲に燃えるそれではない。局所的に激しく燃え滾っているのだ。恐らく、油か何かに火をつけて一気に燃やしているのだろう。
 木を燃やすのにわざわざ油を使う事はしない。あれは間違いなく、建物かそれに類する建造物を燃やしているのだ。効率良く短時間で焼却するために。
 なんとなく胸騒ぎがした。
 全てはあくまで憶測で、一つとして確証に至る要素は無い。しかし、これが虫の知らせとでもいうのだろうか、俺の勘が告げるのだ。そこに、せつながいると。
 気がつくと俺は、火の手の上がる方へ向かって走り出していた。もう昼が近い。いい加減、人死にが激しくなってくる時間帯だ。火で炙り出すなんて異常な手段も、裏家の人間には躊躇いなどない。早くしなければ手遅れになる。誰が死のうと、忌小路家を飛び出した俺には関係の無い事だが、せつなだけは死なせる訳にはいかないのだ。
 より速く、疾く、先へ。
 俺は脳裏にイメージを描き自らと重ね合わせる。描いたイメージは、疾風。風のように緩やかな流れではない。ただ、走る事だけを目的としたイメージだ。これにより、俺の体はより軽く鋭く走る事が出来る。
 自分以外の事にまるで興味の無かった俺が、他人のためにこれほど必死になるなんて。今までの俺には到底想像もつかない姿だ。けれどそれが、俺の本来の姿なんだと思う。ただ、これまでは忌小路家という名前に潰されて、自分をうまく出そうにも出す事が出来ず、自分を支えるだけで精一杯だったのだ。周囲まで気を配る余裕なんてなかったから、自然と興味の対象として見られなくなっていたのである。
 そう、だから今の自分は本来の姿、自分で自分の決めた道を歩む事が出来るようになったのだ。そんな自分が選択した素直な気持ちが今の行動に現れている。俺は、せめて自分の周囲だけでも不幸な人間がいないようにしたい。自分が後味の悪い思いをしないようにするためではなく、自分自身の誇りのためにだ。俺は、自分の意思で忌小路家を見捨てたのだ。だからせめて、ただの茜となってから決めたこの決意だけは全うしたい。
 と。
「む……っ!」
 その時、ふと俺の肌が人の気配を感じ取った。先生が言うには、俺は人並外れた勘の良さを時折発揮するそうだ。それはどちらかと言えば動物のそれに似て、理屈で説明するのは難しいが確かに一定の結果を出すようなものだ。
 まずい、誰か来る。
 俺は空かさず仮面を被ると、腰に差した刀を確認し茂みの中へ飛び込んで息を潜める。脳裏に描くイメージは、獲物を狙う肉食獣。自分の気配を出来る限り消し、周囲の状況に注意を配った。
「あっちだ、急げ!」
 やがて聞こえて来た幾つもの足音。現れたのは、やはり表家の人間だった。
「裏家の犬共め、調子に乗りやがって!」
「目にものを見せてくれる!」
 あっと言う間に走り去って行ったのは数名の表家の人間、おそらく一編成部隊だ。随分と焦った様子である。どうやらあの火の手の上がった方に表家としては触れられたくないものがあるようだ。となると、やはりそれはせつなの居る本体と見て間違いないはずだ。
 まずい。急ごう。
 そう俺は俄かに焦りを募らせたのだが、しかし、今来たのと同じ道を急ぐ訳にはいかなかった。それでは先程の表家の連中に見つかってしまうからである。直線距離で考えればこの道を辿るのが最短距離だが、敵に見つかっては元も子もない。多少時間がかかろうとも回り道をしなければ。
 俺はそのまま茂みの奥へと向かい、藪を掻き分けるようにして走り出した。足を藪に取られて思うようにスピードが出せず、中々前へ進むことが出来なかった。こんな時、被っていた仮面が役に立った。時折予想外に跳ねてくる弦や木の枝から、無防備な顔を守る事が出来たからである。
 幾らイメージを重ねているおかげで体重を感じなくなっているとは言え、藪は巧みに足に絡み付いてきて行く手を阻もうとする。いっそ絡み付いてくる藪は片っ端から切り捨てたいと思うのだが、一歩進むのに十歩進むような手間隙をかけてはいられない。そんな抑圧感が酷くもどかしさを俺に感じさせた。
 出来るだけ速く、力強く、俺は藪の中を直走る。着ている黒装束は手の甲までも装具に守られているため、跳ねる枝葉の感覚は厚い布越しの鈍いものだった。かと言って、わざわざ枝葉のある所を無理に進む訳にも行かない。近くには表家の人間も居るのだ、余計な物音を立てて勘付かれてしまっては元も子もない。
 ―――と。
「ッ!?」
 ほとんど瞬きもせず、網膜に焼きつきそうなほど見据えていた前方の視界。そこに広がるのは複雑な幾何学模様にも似た暖色の茂みだったのだが、突如そこへ明らかに違和感のある物体が姿を現したのである。咄嗟に足を止め、一体それは何なのか、俺は身構えながら冷静に観察した。
 いつの間にか目の前に、白い仮面を被り黒い礼装束を身に纏った一人の人間が立っている。決して気がつかなかったのではない。藪の中から急に現れたから、今まで姿が見えなかっただけなのだ。
 しまった。
 仮面の奥で忌々しげに舌打ちをした。その人間が身につけていた黒礼装束は表家のデザインだったからである。つまりその人物は表家の人間ということだ。
 するとその何者かはすぐさま懐へ手を伸ばすと、予め忍ばせておいたらしい古木の鞘に収められた短刀を取り出し、すかさず抜き放って構えた。どうやら向こうも俺が裏家の装束を着ているから敵と認識したのだろう。
 こんな所で手間取ってる暇は無いというのに。
 あっちにやる気が無ければ、俺もこのままスルーするはずだったのだが。一旦敵意を見せられた以上、こちらも手を出さない訳にはいかない。一度殺気立った人間に対して半端に背を向けてしまえば、逆にこちらがやられてしまうのだから。
 時間が無い、早く終わらせよう。
 俺は腰に差した刀を抜き放ち、応戦の意思を見せるつもりで中段に構えた。先生に教えてもらった、剣術で最も基本的な型である。
 だが。
「なっ、何だよそれ……?」
 改めてその人物を見据えたその時、俺は思わず唖然としてしまった。
 その人物は短刀を順手に構えたまま、スッと腰を低く落として前傾姿勢を取った。初めから露骨に接近戦を挑む構えを見せているのである。よほど身のこなしに自信がなければ出来ない構えだ。もしくは、それほど鎖の扱いに自信が無いのだろうか。
 正直、驚きを隠せなかった。何故ならその構えは、刀を覚えるよりも前の俺と全く同じ構えだったのである。それは模倣とかそんなレベルではない。着ているものこそ表家の装束だが、白木の仮面も、手にした短剣の柄も、何もかもが鏡に映しているかのように全く同じだったのである。
 夢じゃないよな。俺がいるぞ? 俺の亡霊なのか?
 これは幻覚じゃない、と言い切る自信が無かった。少なくとも、自分が茜という人間である事が大前提となっているからこそ、自分が自分である事が出来る。しかし、自分が茜だと分かっているのにも関わらず、目の前の人間が茜ではないと言い切る事が出来なかったのだ。自分を感じながら自分を見る、異常な光景。本当に、今にも自分とその人物との境界線が崩れてしまいそうな、倒錯的な吐き気を催された。
 あれは敵だ、惑わされるな。
 自分の感覚が信じられなくなり、酷く気持ちが焦る。しかし、そんな俺に構わずその人物は短刀を構えたまま飛び出してきた。
 速い!
 まるで風のような踏み込み、恐らく風のイメージを描いているのだろう。俺が良くやるパターンだが、そこまで忠実に複写されているなんて、驚きよりも焦りの方が強く感じた。
 更なる吐き気が襲い掛かる。自分の常識がどれほどちっぽけな尺度なのか理解しているつもりだが、それを優に超える事態に陥ると、それだけで拒絶反応を示してしまったのだ。そんな精神的な弱さが、改めて自分が忌小路家の人間であるのだと実感させられる。
 くそっ!
 俺は改めてイメージを描き自分と重ねると、刀身とその人物とを同じ視界に収め距離の目測を始める。もしも俺だったなら、狙う箇所は大体分かる。喉元のやや下、鎖骨の合わせ目だ
 その人物は真っ直ぐ構えた刀の左側へ入射角を取った。右手の武器で攻撃する時のセオリーである。ほとんど我流に近い癖に、初めの頃に教えられた基本だけは押さえた奇妙な戦い方、あの頃の俺と瓜二つだ。
 一直線に滑り込んでくる短刀の切っ先。あっという間に刀身の内側に入り込み、俺の急所を狙って襲い掛かってきた。しかし、刀の内側が安全な領域である事を知らないようである。そんな欠点さえ自分と同じであると思うと、少しだけ気持ちに余裕が出て来た。
 体を咄嗟に半身にずらすと、手にした刀を寝かせてそのまま前へ踏み込む。短刀の切っ先は左手の上を交差しながら右肩へと抜けていく。刀と短刀の刀身が一瞬、俺の右肩で平行に並んだ。俺はぐっと右腕に力を込めると、踏み込んだ勢いを乗せてその人物の喉元を刀の柄頭で打った。
 思わぬ反撃を受けたせいか、その人物は打たれた衝撃を利用して大きく後ろへ飛び退いた。一度間合いを取って仕切り直すつもりなのだろう。
 そうはさせるか。
 自分のペースを維持したい俺は、空かさず左腕を一度しならせると、間合いを取ろうとするその人物に向けて鎖を放った。鎖は幾つもの放物線を描き、複雑な無数の波と共に襲い掛かっていく。地に足が着いているとはいえ、姿勢は不安定な状態だ。咄嗟の行動なんてたかが知れている。俺の鎖は避けられない。
 だが。
 鎖が触れようとした次の瞬間、その人物の体がゆらりと揺れて鎖が外れた。かわされた、と舌打ちをしかけるも、今の動作はやはり見覚えがあった。俺がよく定例演目でせつなの鎖をかわすのに使う落ち葉のイメージだ。
 そんな所までこいつは俺を真似してしるのか。
 まさか表家にこれほどの使い手がいるとは思っても見なかった。表家で最も強いのは、間違いなくせつなである。しかし、そのせつなでさえも俺はそれほど苦にしない。だから表家の実際の力とは、長老衆と同様にその程度としか考えていなかった。だが、どうやらとんだ考え違いだったようだ。表家にはまだまだ想像もつかない猛者がいる。ただせつなを頭目として立てるために実力を隠していたのだろう。そう考えるとこの戦争、俺を失った裏家にはかなり分が悪い。
 相手との力量差はそれほど離れていない。俺もまだまだ本気ではないが、それは相手にとっても同じ事だろう。全力を出し切ったとしても勝算が少しも見えて来ない。しかもこの敗北は他ならぬ俺自身の死に繋がるのだ。俺の背中には死神が張り付いている。ほんの僅かでも気を抜けば、俺の魂はあっという間に持っていかれてしまうだろう。
 そんな予断を許さぬ状況だというのに、俺は気持ちが少しずつ昂ぶって来るのを感じた。
「薄氷の上を歩く、か。昔の人も面白いたとえを思いついたもんだ」
 生死を争っているというのに、案外、真剣勝負というのも楽しいものだ。そう俺は思った。
 しかし、ゆっくり楽しんでもいられない。俺にはあまり時間が無いのだから。
 そろそろ本気で行こう。
 俺はゆっくりイメージを描き自分と重ねた。
 描いたイメージは、風。



TO BE CONTINUED...