BACK

 まるで足に鎖が絡みついているかのようだ。
 酷く重い足取りで俺はふらふらと歩いていた。覚束ないのは、背にせつなを背負っているからではない。人間を構成するのが肉体と魂ならば、俺の魂はほとんど死に絶えたに等しく、体を思うように動かせないからだ。
 もう、何もかもがどうでも良いと、俺は自棄的になっていた。これまで何度も同じように自棄を起こした事はあったが、今は本当に本気だった。自分の目的が果たせなかったばかりか、死なせたくない人を死なせてしまった自分に絶望したのだ。俺は既に生きる意味云々ではなく、意欲そのものを失ってしまったのだ。
 せつなを弔ったら、俺も何処かで死のう。
 せっかく俺を逃がしてくれた先生には申し訳ないと思う。けれど、これ以上生きていくのは限界だった。俺を憂鬱にさせるのは忌小路家のしがらみではなく、俺自身の心の弱さの問題だ。そして今、俺は修復不能なほどの打撃を受けた。もう二度と立ち上がる事も立ち上がる気力も湧かないだろう。
 先生は、俺に自分で選んだ道を生きろと言った。だから、俺は自らに始末をつけるのだ。何故なら、それが俺の選んだ道なのだから。
 今、忌小路家では両家が全面戦争を繰り広げている。お互い、頭目が行方をくらましてしまったのだ、相手に悟られぬよう偽装工作で必死だろう。どうせ無駄だというのに。表家が勝とうが裏家が勝とうが、頭目はもはやこの世に存在しない。たとえ飾りとは言え、忌小路家は頭目という象徴が無ければ存在する事が出来ないのだ。もはや滅びてしまったも同然だ。いや、心の底から思う。忌小路のような狂った血筋はこの世から消えてしまえ、と。
 生きる事への執着を捨てた今、俺は死ぬ前にすべき事だけを考えていた。けれど、別段特別な事などは見つからず、せつなを弔う事と自分の死に場所を決めるだけが残されていた。禊ぎなど興味は無く、手段も短刀がひとつあればそれで良い。死ぬ前にしなくてはならない事の数は、そのまま俺のこの世に対する執着の度合いを示している。それを一つ一つ断ち切って行く事が、俺にとって自害までの過程と呼べた。
 ふと空を見上げて太陽の位置を確認する。
 大分もたついていたせいか、随分と西日へ傾いていた。そろそろ日も暮れ始める。その前に終わらせてしまおう。
 確か、昔こうしてせつなを背負った事があった。二人で山で遊んでいた時、ふとした拍子にせつなが転んで足を捻挫してしまったのだ。山道は子供が片足で歩けるほど優しくは無い。だから俺が背負ってやったのだ。
 あの、自分の立場とか生まれを考えなくても良かった頃が酷く懐かしかった。無知が故の無邪気さで、ただただ毎日が漠然と楽しくて仕方がなく、一生この幸せなまま生きていくのだと頑なに信じていた。それが今、宝石のようなそれら一つ一つを自ら、あるいは人の手で打ち壊れてしまった。
 決して、自分が道を踏み違えたとは思っていない。壊れるなら、それが予め定められた運命だったのだと受け入れられなければ、忌小路家では正気でいる事は出来ない。だけど、俺は悲しかった。自分の中でせつなの存在がこれほど大きく、死がこんなにも重くのしかかってくるなんて。そして、俺はそれに耐え切れなかった。最後に俺は、いたたまれなくなった自分自身を打ち壊そうとしている。けれど狂人ばかり輩出してきた忌小路家の人間にしては随分まともな最後だ。
 俺は夢を見ていたんだ。長い夢を。
 ここが俺の現実。忌小路の鎖を逃れようとした人間が辿るべき正しい末路だ。
 幸いなのは、過度の希望を持っていなかった事だ。明るい未来計画を本気で考えでもしていたら、きっと俺は自らの命を断つ前に気が触れてしまっていただろう。
 と。
「こんな所で何をされているのです?」
 その時。
 突然そんな声を前方からかけられた。しかし、一体いつの間に現れたのだろう、という驚きはまるで無かった。顔を俯けていたから気が付かなかっただけにしか過ぎない。俺の情緒は既にそこまで崩壊してしまっているようだ。
「お前は……」
 目の前に立っていたのは、一人の若い青年だった。
 端整な顔立ちで、何気ない表情にもどこか人の目を曳く不思議な力があった。往々にして、容姿に恵まれて生まれた人間は大概そうなのだけれど。
 いや、そうじゃない。今、俺が着目しなければならないのは、彼の容姿についてではないのだ。
 俺の思考が急激にクリアになっていく。頭の中に張り巡らされた血管の隅々まで血液が行き渡り、俄かに活発になり始めた脳細胞がカーッと熱くなるのを感じた。この青年には見覚えがある。そう、最も気を許してはいけない要注意人物だと、深く記憶し警戒していたのだ。
 その人物が、どうして今目の前に立っているのか。俺が最も疑問に思わなければならないのはその点だ。彼の思惑と目的とを、出来る限りの警戒と共に相対しながら。
「まだ戦争は終わっていないはずですよ。もっとも、あなたが彼女の首を晒せば裏家の勝利となるでしょうが」
 青年はそう言って俺に微笑んで見せた。しかし、それは決して好感を抱けるような温かい笑みではなく、まるで物を見るような蔑みの冷笑だった。
 彼女の……首を?
 青年の視線を辿り、その先に俺が背に抱えたせつなの姿がある事を確かめた瞬間。俺は無性に堪え難いほどの激しい怒りを覚えた。青年の態度や口調が、まるでせつなを物扱いしているように思えて我慢がならなかったのだ。
 そして俺は思った。
 この青年は忌小路家に通じ、表家と裏家の全面戦争の直接の原因を作り出した人間だ。その目的は、北斗に対し内乱を起こすための戦力強化のために忌小路家を抱きかかえる事。裏家はまんまとその策略に引っかかるものの、表家に対して反乱軍につく事を宣言してしまったため、全面戦争という同士討ちを起こしてしまった。
 結局は青年の思い通りにはならなかったのだが、北斗に対して重大な裏切り行為を行ったのは事実だ。
 果たして俺は、これを見過ごして良いのだろうか?
 俺の中に新たな怒りが芽吹き始めた。こいつさえいなければ、という怒りが。
「お前なのか、こんな事を仕組んだのは……!」
 俺の問いかけに対し、青年はただ人を見下したようなあの冷笑を浮かべるだけだった。その笑いは俺の怒りに油を注ぎ、一層の勢いを得て燃え盛る。
「こんな事をしてまで忌小路家を従えたいのか! 北斗の転覆なんて出来る訳がないだろう!」
 すると、青年はさもおかしそうに小さく喉を鳴らしながら含み笑った。
「あなたは随分と忌小路家を過大評価していますね。あの一族にそれほど重要性があるとでも? 私にとって忌小路家とは、単なる手段の一部、何十枚と持つカードの中の一枚にしか過ぎないのです。得られなければ得られなくて結構。それに北斗の改革はとうに滞り無く進みましたよ。私がここへ赴いたのは、ただの塵掃除にしか過ぎません。両家から忽然と姿を消した、二人の頭目の掃除をね」
 更に俺の中の怒りが猛り狂うのを感じた。
 正直、今までこれほどの怒りを覚えたのは初めてで、自分でも自分を制御し切れなかった。奥歯はかちかちと音を鳴らし、半開きになった両の手のひらがわなわなと震える。
 あまりの怒りで何も考えられなかった。ただ、一つ怒りの対象として考えられるのは、この人間がそもそもの始まりだったという事だった。
「ふざけるな! そんな事で忌小路家を弄んだのか!? そのせいで、お前のせいで、せつなは……!」
「殺したのはあなたです。責任を転嫁するものではありませんよ」
 俺の激しい怒りとは対照的に、青年はあの冷笑を浮かべた涼しげな表情のままだった。俺の感情だけが一方的にぶつかっている。それは、俺の感情などまるで意に介していない事の現れだ。
「何のためにこんな事をするんだ! 忌小路家も、北斗も今まで通り平和だったはずなのに! 革命だなんて、一体どこにその必要がある!」
 少なくとも俺は、今の北斗のシステムはおおよそ理想的な要素を全て取り入れた理想的なもののように思えている。彼はどこがどのように不満で、どう改革するべきと思っているのだろうか? そもそもそれは、血と暴力を辞さなくとも変えなければいけないものなのか? そんな疑問を抱く俺には、彼の言う革命とは単に自分の支配欲が増長しただけの事ではないかと思えてならなかった。
 すると、彼はそんな俺の心中を見透かしたのか、相変わらずの冷笑を浮かべながら口を開いた。
「猿の群れを知っていますか?」
「猿?」
 何の脈絡もないその言葉に、俺は思わず上ずった声を上げてしまった。青年はただ冷笑を浮かべ、まるで講釈をたれるかのように言葉を続ける。
「猿の群れは食べ物が見つからず餓えると、群れの中で最も若い猿、つまり赤子を食べるんです。ですがその前に、ボス猿はある奇妙な行動を取ります。それは、皆に食べさせる赤子の顔を自らが粉々に噛み砕くんですよ。何故だか分かりますか?」
「罪悪感を感じさせぬため……?」
「その通りです。動物は本能的に同族の幼子を守ろうとため、たとえどれだけ餓えていても赤子は食べる事は出来ない。だからボス猿はそんな行動に出るんです。群れを死なせないためにね」
「言っている意味が分からない!」
 だからなんだというのだ。
 彼の声は頭に来るほど思わず聞き惚れやすく、気が付くとうっかりすり替えられてしまいそうだった。決してはぐらかされぬよう、俺はあえて語気を荒げて問い返す。
「今の北斗は餓えた猿の群れと同じなんですよ。しかしそれに気づいているものは極僅かだ。だから、誰かが率先して救済しなくてはいけないのです。危機意識を持つ者を束ねて」
「自分から汚れ役を買ってるとでも!? そんなのはお前の驕りだ!」
「上に立つ者に必要なのは二つ。大局を見る目と、安い良心に流されない決断力です。私には汚れ役どうこうと言うつもりはありません。いかなる非難を受ける事も覚悟の上、そう言いたければそう言えば良いでしょう。私は北斗にとって必要な事を合理的に行っているにしか過ぎませんから」
 こいつ、いかれてる。
 俺は怒りの境地の中でそんな諦めにも似た事を思った。
 忌小路の狂気に引かれて来た奴がまともであるはずがない。そもそも、まともな奴が北斗に反旗を翻そうなんて思うはずがないのだ。
 俺達は似た者同士、という訳か。ただ、俺は狂気を理由に自らを内に閉じ込めて、彼は狂気を恐れず初めから自分の信念を貫いた点を除いて。
「さあ、お喋りはここまでです」
 青年はすっと二振りの刀を抜き放った。確か北斗には、様々な武具を番いで用いる流派があったはずだ。この男はその流派の使い手なのだろう。それも、生半可な強さではないのは以前に見せたあの殺気で重々承知の上だ。
「後はあなたを始末出来ればそれで終わりです。これで忌小路家は北斗から消えてなくなる」
 膨れ上がる殺気。青年の冷笑はそのままであるはずなのに、既に彼の顔を直視出来なかった。正直、今すぐにでも逃げ出してしまいそうだった。
 俺はもうこの世に未練など持ち合わせてはいない。生きる事に執着は無く、いつ死のうがそれはむしろ望むところであって、そんなに殺したければ楽にして欲しく思った。
 だが、出来なかった。
 忌小路家を自分勝手な野心で荒らされ、せつなまで死んでしまい、それで俺が殺されるなんて、あまりにこの男の思い通りになり過ぎてる。そう、これではまるで躍らされるだけ躍らされただけのようではないか。俺は家畜でも無ければ人形でも無い。せつなも、そして忌小路家もそれは同じ事だ。この男の無法を許すに足りる理由が果たしてあるのか。
 俺は端に場所を移すと、そっとせつなの体を樹木の根に下ろした。
「借りるな、これ」
 そっと懐に手を伸ばし、そこへ入れてやったせつなの仮面を取り出すと、それで自らの顔を覆う。
 仮面越しに見るせつなの痛々しい姿は、俺に辛い現実を見せつけ暗いどん底へとすぐに突き飛ばそうとしてくる。しかし、まだその衝動に負けるには早い。
「こんな気持ちで……こんな気持ちで死んでたまるか……!」
 その言葉を強く深く噛み締める。鬱屈を募らせて沈む自分を闇から引きずり出すために。
 立ち上がった俺は改めて青年と相対すると、真っ向からその冷笑を見据える。
 見ていろ。これが、お前が一笑に付した忌小路家の力だ。
 俺はイメージを描き自分と重ねた。
 今の自分が最も求めるのは力、何もかもを吹き飛ばすほどの圧倒的な力を表すイメージ。それは、怒り狂う竜。この世で最も強くて賢く、そして危険な種族だ。
「うあああああッ!」
 描いたイメージの竜さながらの猛々しい咆哮を上げる。あまりに強過ぎるイメージを重ねたため、体中が軋み悲鳴を上げている。だが俺は自らの体の事などまるで意に介さなかった。俺は、この男を倒すためならば人として大切なものを全て捨て去ってもいいとすら思っている。今ここでこの男を殺さなければ、死んでも死にきれないのだ。
「そう、その力だ……」
 俺を見る青年の表情に、一瞬深い皺が刻み込まれた。
「決して従わぬ頑なさを持ちながら、一族が皆恐ろしいまでの力を持つ忌小路家。だから私は懐柔しようとは思わなかった。忌小路家を迎え入れるにはあまりに危険過ぎる」
 この期に及んで何を並べても無駄だ。こうなった俺に言葉を理解する力は無いのだから。
 俺の中でスイッチが入る。忌小路家に脈々と受け継がれて来た狂気の波が全身へ隈無く染み渡る。それを合図に、俺はゆっくりと短刀を抜き放った。



TO BE CONTINUED...