BACK

 死んだ。
 その言葉はあまりに唐突に飛び出すと、俺は驚くほど自然に意味する所を受け入れる事が出来た。
 あんなに勝ちたかったのに。
 忌小路家を潰し、せつなを侮辱した人間なのに。
 絶対に許さないと誓ったはずなのに。
 俺は、これほど簡単に自らの死を、敗北を、受け入れるというのだろうか。
 甲から肩にかけて刃が走り真っ赤な轍を刻んだ俺の右腕は、俺との意志疎通を拒否するかのようにだらりと垂れ下がり持ち上げるどころか短刀を握り続けるだけでも精一杯だった。左腕の鎖で抵抗を試みようにも、突き付けられた刀の切っ先が俺の頭を貫く方が先だろう。術式どうこうの問題じゃない。そもそも、俺と彼との実力の差はそれほどまでに大きかっただけの事なのだ。
「殺せ」
 俺は痛みで震える右手で短刀を地面へ投げ捨てた。
 せつなの仇を討つとか、そんな気持ちがあった訳ではなく、ただ俺はこの青年が許せなかったから戦いを挑んでしまった。その結末がこれだ。正直、予想していたよりもずっと上出来だと思う。せつなを勘違いで殺めてしまった、逃げ足と屁理屈だけなら誰にも負けなかった青二才の最後にしては。
 せつな、俺の現実は割とロマンチックだぜ?
 どこまで本気なのか、自分でも分からなかった。ただ、もはや自分の道の先は断たれてしまい、それを受け入れる準備が出来ている事だけははっきりとしていた。当然と言えば当然だ。俺は死のうとしていたのだから。そもそも俺は、常々どこかで死ぬ事を求めていたのだろう。忌小路家の呪縛から解き放たれ、頭にのしかかる苦悩を取り払うには、俺自身が死ぬ事しか残されていないからだ。
「殺せよ」
 もう一度、俺はその言葉放った。
 果たして俺はどんな顔をしているのだろう? 間近に迫った死を恐怖し絶望に引きつっているのか。それとも、理解する事を放棄した醜い笑みに歪んでいるのか。
 心と体が切り離されて行く感覚。そこに俺は恍惚感にも似た倒錯的な喜びを見出した。忌小路一族の最後はかくあるべきだ、という演出家気取りの心境だった。それも、自分の人生を安い喜劇に仕立て上げきった。
 すると。
「……止めにしましょう」
 突然、青年は二刀を宙で返すと、そのまま腰の後ろに携えていた鞘に納めてしまった。
「何の真似だ。情けは受けない」
「子供を殺す趣味はありません」
 青年はくるりと踵を返すと、そのままこの場から立ち去ろうとした。既に彼から放たれていたあの殺気はすっかり消え失せてしまい、驚くほど穏やかで緩い空気が辺りを包み込んでいる。
「ふざけるな!」
 思わず怒号を上げた俺は左腕をしならせると、その堂々とさらした無防備な背中に向けて鎖を放った。鎖はまるで大蛇が獲物に飛びかかるかのように、一息の溜めの後に鋭い軌道で一直線に青年の背中へ食らいつく。しかし、まるでガラスを削ったような甲高い音が鳴り響いたかと思うと、次の瞬間、俺の鎖は幾つもの破片に切り裂かれ宙から地面に向かってばらばらと落ちて行った。
 青年が背を向けたまま二刀を繰り出した事だけは理解出来たが、斬撃そのものは全く見えなかった。それでも青年は息を乱すどころか微動だにしていない。この斬撃すらも彼にとっては本気ではないのだ。
 忌小路家の鎖は、表家は裏家の、裏家は表家の鎖を断つ事は出来ない。それは、あらゆるものを断つ事が出来る力が、忌小路家の存続を危うくする事に使われぬようにする為の防護策だ。しかし、忌小路家所縁の者ではないからと言って、そう簡単に切れるような安い鎖ではない。ましてや、後ろ向きで片手間の抜刀で切り刻むなど、到底常識では考えられない。そう、この男の力は忌小路家の常識を易々と凌駕してしまうほどのものなのだ。忌小路家が蛙で、この男が蟒蛇だ。
 何故、こんなに歪んだ男がこれほどの力を与えられたのだろう? いや、彼は歪んでいるからこそ、人が神へ畏敬を払って信仰するように純粋な力を追求し続けてしまったのだ。そう、彼の力とは己に対する盲信の体現化なのだ。
 鎖を断たれたせいか、右腕からの出血も手伝って全身から力が抜けていく感覚に見舞われた。青年が俺に向けて放った子供という言葉は、俺が戦士である事を否定する言葉だった。しかし、そうも侮られながら怒りは湧き上がってこなかった。感情だけで戦おうとするのは子供であり、信念で戦うのが戦士だからであり、自分が一体どちらなのか理解してしまったからである。戦場とは戦士と戦士が命をやり取りする場所、子供である俺にはそこに立つ権利が無い。そう、だからなのだ。青年は戦士であるから、子供の命は奪わない。
「私は、決して私利私欲で忌小路家を潰そうとした訳ではありません。せつなさんも、あなたと同じで忌小路家に振り回されただけにしか過ぎない。だから死なせるつもりはなく、出来れば保護しようと思っていました。こんな残念な結果になってしまったのは、単に私がこうなるであろうと事態を予測できなかった浅慮にあります。すみません」
 青年の口から淡々と紡がれるその言葉を、俺は半ば心ここにあらずの状態で聞いていた。あの彼がこうして謝罪の意思を示している事は驚くべき事なのかもしれない。しかしそれよりも俺は、せつなを死に至らしめた事に対する怒りすら、満足に持続させられない自分の弱さに絶望していた。あれほど悔しくて憤ったはずなのに、今の俺はこの男に対して殺意を抱けなくなっていた。たとえ右手が使えなくとも、左手の鎖が千切れようと、首だけでも喉元へ食いつくぐらいの闘志を漲らせていたはずなのに。
 俺はただ圧倒的な実力差を見せ付けられただけで自ら屈服するような人間なのか。
 自分が、常に逃げ腰で辛い事からすぐに逃げ出す人間である事は知っていたが、それでも譲れない事は死んでも譲らないものだと思っていた。けれど現実は違う。俺は信念よりも自分の命を優先してしまう矮小な人間なのだ。せつなの死に対する糾弾よりも、大切なのは自分の命。自分の命を軽んじ刹那的に生きていたのは単なる自己陶酔であって、そんな事に快感を得ていた自分があまりに醜悪で、直面した現実に打ちのめされてしまったのだ。
「黙れよ。あいつの名前を勝手に呼ぶな……」
 俺はただ、擦り切れた声でそう言い返すだけで精一杯だった。
 青年がそんな俺を背中越しに見つめている気がした。その見えない視線が酷く痛かった。自分の惨めな姿を憎むべき相手に晒すのはこの上ない屈辱だからである。
「忌小路家は滅びました。だから、せめて君だけは次の時代を生きて下さい。忌小路としてではなく、一人の人間として」
 青年は最後にそう言い残すと、まるで風のようにあっという間にこの場から立ち去ってしまった。行き先は何となく想像がついた。表家の裏家との戦場、そこを掃討するために向かったのだろう。
 忌小路家という拠り木を失った俺を、青年は束縛から解放されたと言った。けれど、俺は忌小路家に束縛されていたのではなく忌小路の血脈に支配されているのだ。忌小路家が滅びてしまえば、確かに俺はこの先忌小路家の停滞した陋習に縛られることも無くなるだろう。けれど、それは同時に頼るべきものを失ってしまった事も意味する。狂気を発症する宿命を持って生まれた俺に、忌小路家の保護無くして生きる場所なんてどこにあるのだろう? 社会は決して異端を受け入れず、そして俺は一人で生きて行く事の出来ない人間なのだ。
 忌小路に生まれた人間は、たとえ忌小路が消えようとも一生忌小路の人間として生きていくしかない。そんな俺に、忌小路ではない人間として生きて行けと、そう言うのか? 生きる意思や目標を失い、たった先程まで自分の死に場所を探していた俺に。
 なんて身勝手な人間なんだろうか。俺をここまで追い詰める原因を作ったのは他ならぬ自分ではないか。
 そうだ、悩む事なんか何一つ無い。あの男の言葉に惑わされてはいけない。俺が信じるのは自分の言葉だけなのだから。
 ただ、初めの通りに相応しい場所を見つけて、そこで自分に終止符を打てばいい。それだけで、俺を蝕む全ての憂鬱から解放されるのだ。俺にとっての唯一の救いとは、俺という人間を構成するあらゆる要素を捨て去る事に他ならない。
 救いは目の前にある。
 求めれば得られ、たちまち俺を満たしてくれる。
 そう、それはその時を待ち侘びているのだ。
 手を伸ばせばすぐ届くほどの距離で。
 俺は血まみれの右手を地面へ伸ばすと、自ら捨てた短刀を手繰り寄せた。



TO BE CONTINUED...