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 多分、俺の中で何かが壊れたんだと思う。だから、考えている事が地に足が着かない不安定な感じで、さっぱり的を射た言葉が口に出せる気がしなかった。
 俺は冷たくなったせつなの体を背負いながら、ずるりずるりと足音を立てて歩いていた。右腕はほとんど動かせないため、せつなの体は左腕だけでしか支えてやれず、せつなの足もずるずると地面を引き摺っていた。それでも何一つ文句を言わないせつなの様子に俺は耐え難い物寂しさを覚えていた。
 少しずつ日が落ちて辺りの景色がどこか懐かしく変わっていく様が妙に嬉しくて、俺はせつなを連れてあの場所へ向かっていた。俺がまだ修練する事に意味を見つけ出せなかった頃、よく逃げ出しては日長寝転がりながら身を隠していた場所だ。
 考えてみれば、せつなとの思い出の大半はこの場所にあった。後は専ら忌小路家の行事絡みで、仮面を被っては真剣を使った遊戯に興じた下らないものばかり。覚えるに値しないから、もうほとんど忘れてしまったのだけれど。
 素顔のせつなを見るのはあの場所以外では一度も無かったと思う。だからもしかするとあの場所は、俺とはまた別の意味がせつなにはあったのかもしれない。それならせつなを弔うには最も相応しい場所だと思う。そして、俺が自分に区切りをつけるにも相応しい。
 長い長い獣道の傾斜をひたすらじっと登って行く。精根尽き果てた俺の体はぎすぎすとおかしな音を立てながら軋んで痛むのだけれど、ただ歩けと命じれば足が勝手に前へ出るのがとても不思議だった。俺の体は俺の命令を聞いてくれる。当たり前の事なのだけれど、どうしてかそれだけで俺は不思議と笑みがこぼれそうになるのであって。
 ようやくたどり着いた小さな原っぱは、いつもとは違う幻想的な風景に彩られていた。青々と茂っていたはずの雑草は皆、燃えるような朱に染まってそよそよと揺れている。どうしてこんな色になっているのだろう、と不思議に思ったけれどそれは空を見上げればすぐに分かる事で、丁度俺の目の前ではあの大きな太陽が山の向こう側へと沈もうとしていた。
 ああ、ここはなんて気持ちの良い場所だろうか。
 俺は少しだけ駆け、いつも座っている切り株の傍らへせつなを座らせると、俺は窮屈な礼装束を緩めて切り株に腰掛け空を仰いだ。
 こうして眺める空、ゆっくりと橙色に染まっていく様はとても綺麗だった。朝はあんなに憂鬱にさせる太陽なのに、今は思わず手にとってしまい込んでしまいたいとすら思う。だから、そっと左手を伸ばして夕日を掴もうとしたけれど本当は届いていないから掴めない事に気が付いて、なんて馬鹿な事をしているんだろうと肩をすくめた。
 夕日を見ている内に俺は、なんだか急に胸が苦しくなった。
 どういう気持ちなのかは分からないけれど、ただ胸が締め付けられるようで、殴られたり気分が悪くなったりするのとは違い、思い切り叫んでみたいけれど叫んじゃいけないような、そんな気分だった。
 まだ俺には悔やみ足りない事でもあったっけ?
 ぽつりと口に出した時、ふと俺は自分がいつの間にかはらはらと涙を流している事に気が付いた。雨が降って来たのかとびっくりしたけれど、それは雨よりもずっと温かくて、じっと手の甲を濡らして行く様を夕日と交互に見比べていた。それから、沈み行く夕日の赤と右手から流れる血の赤を交互に見比べて、やっぱり一番綺麗なのは夕日の赤だと一人頷き、左手に巻きつけた鎖の切れ端が橙に染まっているのをにやにやと見つめて撫でてみる。しかし鎖は涙と違って生き物じゃないから冷たくて、そのせいでせつなもこうなってしまったんだと思い出してしまい、再び俺は涙をはらはらと流した。
 俺はもう正気じゃない。だから、こんなよく分からない事を続けるし、当たり前のように取り繕う事が出来ない。
 でも。
 俺は狂っているけれど、血は熱く赤くて、涙も熱く流れるし、美しいものを見れば美しいと思う。
 夕焼けが美しいものと誰が決めたのか知らないけれど、ただ本当に心の底からそう思う訳で。
 お別れは悲しい事なのだと教えられた訳じゃ無いけれど、せつなが死んでしまった事で涙が止まらない訳で。
 今の自分が正気だとかそうでないとか、本当はどうでもいい事なんだと思う。自分の論理が信じられなくなっても、今こうして肌と心で感じる物は確かな物だから、それをただ真っ直ぐ信じればいいんだと、そう言い聞かせるように涙を拭いながら思った。
 ふと俺は、昔誰かに聞かされた、俺の両親の話を思い出した。
 俺の名前は父親が名付けた。俺が生まれた時に、たまたま見た東の空が茜色に見えたからだそうだ。でも、それは夕日ではなく朝日であり、その頃からもう父親はそんな状態で、朝日と夕日との間違いに気づかず、良い名前ね、と手を取り喜んだ母親もまたそんな状態だった訳で。
 俺もいずれは二人のようになってしまうのだろう。
 俺の手には何も残っていない。後ろを振り向いても血腥い記憶だけが軒を連ね、前を向いても暗い闇が手招きするだけだ。人には無限の可能性があるというけれど、果たして俺には狂気を振り払う力があるのだろうか。既に片足を搦め捕られてしまったのに。
 そうだ。
 俺は不意に自分がここへ来た理由を思い出し、早速懐から短刀を取り出した。俺が自分で削って作った古木の鞘にはべっとりと赤茶けた血がついていて、水で洗っても落ちなさそうだけど擦ってしまったらせっかくの古木の光沢が死んでしまうから、もうどうしようもないんだなあと残念がるも、今から死のうとする人間にそんな心配は必要ないんだと思わず吹き出してしまった。
 すらりと短刀を抜き去り、しげしげとその刀身を見つめる。
 俺はこの刀でせつなを殺してしまったんだ。その証拠に、ちゃんと拭かなかったから薄っすらと切っ先に血糊が残っている。
 ごめんな、痛かっただろ。
 そんな形だけでも謝罪をして、またほろりと涙が一筋流れてしまったので慌てて見られないように袖で拭った。
 ゆっくりと一呼吸。それでぴたりと流れる涙が止まった。どこかにスイッチでもあるのだろうか。じゃあ、さっきまで悲しんでいたのはただのそういう素振りだったのか? だけど、そんな事を考えるのはすぐにやめた。まるで先延ばしするために言い訳しているような気がしたからだ。
 短刀を両手で持ち上げると、切っ先を上から見下ろすように喉へ構える。そしてもう一度息を吸い込んだ後、一気に押し込むように喉へ突き立てた。
 しかし。
 予想した熱く燃えるような痛みは訪れなかった。何故なら、刃を喉に当たる寸前で止めてしまったからである。
 なんて事だ。
 愕然としてしまった俺は、ぽろりと短刀を取り落としてしまった。
 俺は死ぬ覚悟が出来たと言っていながら、あろう事か自分で始末をつける事すら恐ろしく思っていたなんて。
 なんて情けないのだろう。何をやっても俺は中途半端な人間なのか。
 心底自分が疎ましく、情けなく思う。けれど、それは捉え方の一つ、価値観の問題だから別な観点から見れば大丈夫だよ、と誰かが囁いた気もしたけれど、俺の観点は俺しか持っていない訳だから、俺が情けないと思えば俺は情けない人間になる訳で。
 じゃあ、俺は自分で死ぬ事の美徳を否定すれば、少しは格好がつくんじゃないだろうか? そう、たとえば、死ぬのは逃避だから何があっても生きる覚悟を決める方が難しい、とか。でも、もうこれ以上生きるのは億劫な事だ。だって、生きていても何一つ良い事はないし、これからも面倒な事ばかりで苦しみそうだから。
 でも、苦しい事に立ち向かう事が美徳だって、割と一般的な観念じゃないか?
 そうだ、そうしよう。俺はまだ死なないでちゃんと生きてみよう。
 自分じゃ死ねないから、っていう言い訳もある。けど、それが出来ないんだから、せいぜい生きるしかないんだ。苦しんで苦しんで、もがき苦しんで、それで狂ってもまだ生きて。
 困難に立ち向かう生き方が貴いのなら、俺のそんな姿勢にも何かしらの美徳があるのかもしれない。惨めな思いばかりするなら、いっそ一思いに落ちる所まで落ちよう。その覚悟さえあれば、狂気の宿命も少しも恐れる事は無い。生きる事で何か開けるなら、逃げるばかりの自分が憎いと思うなら、まだ死ぬのはよそう。この先、今の自分の決意が失敗だったと後悔する事があったらそれでもいい。その時こそ、俺はまた自分に刃を突き立ててみればいいのだから。
 なんだか急に気持ちが落ち着いて来るのが分かった。まるで、幾つもの粒に分かれていた自分が、一斉に再び戻って来て合わさっていくような感じだ。
「やっぱりここはやめようか。俺達はもう忌小路の人間じゃないから、もっと別な所に連れてってやるよ」
 そっとせつなの体を背負い上げる。
 なんて軽い体なのだろうか。俺はこの体をあんな乱暴に抱いたり、立ち向かわれても完膚なきまで叩きのめしたり、最後は短刀で貫いたりしたのだ。それでも今際の際に微笑んでくれたせつな。ある意味、その優しさは残酷だ。自分の至らなさを自覚しているのだから、いっそ罵ってくれた方が気が楽なのだ。でも、楽な事には逃げないと決めたばかりだから、それでいいのだと思う。これからもっともっと辛い思いをするのかもしれないのだから、初めから楽な思いをしてはいけない。
 さあ、これからどこへ行こう。
 俺がまず思いついたのは僧侶や神官といった神事を扱う人の事だった。
 せつなは忌小路家を嫌っていたから、忌小路家とは全く縁も所縁も無い宗派の形式で送ってやろう。信仰心もないのに形だけあやかろうとするなんて不遜も甚だしいのだけれど。それが、せつなを傷つけてばかり来た俺の、せめてもの償いだ。
 背中にせつなを担いで歩きながら、俺はもう一度夕日の沈む空を見上げた。
 本当に綺麗な夕焼けだ。
 せつなにも見せてやりたい。そしたらきっとこう言うだろう。明るい口調で、けれど皮肉を込めて、捻くれた君にしては素直な感想だね、とか。
 出来ればもう一度、せつなの声が聞きたかった。けれどそれはもう叶わない。だから、真摯な気持ちでその現実を受け入れ、そして自分の中でゆっくりと整理していくしかないのだ。
 俺はただ、今日まで過ごした日々を何度も何度も繰り返し思い返し続けていた。
 もしも俺達が忌小路家に生まれなかったら。
 そんな淡い幻想を思い描きながら。



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