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 定時を過ぎ、俺は早々と庁舎を後にした。
 カオスは基本的な勤務体系は一般の公務員と変わらない。十八時を過ぎれば拘束は終わり、それ以降は必要に応じて呼び出されるのである。
 車を自宅に向けて走らせながら、俺はいつものように物思いに耽っていた。実際はセミオートの運転にしているためハンドルもほとんど動かす必要はないのだけれど、運転という行為をしながら考える事自体が、心なしか集中力を与えてくれるのである。
 今日の仕事は最悪だった。
 ただの銀行強盗ならどれだけ楽だった事か。それが何故、多数の重軽傷者を生み出してしまう新人選考試験になってしまったのか。辛うじて死人は出なかったものの、未だに意識が戻らぬ者や二度と現場に復帰出来ない体になった者までいる。こんな散々たる結果に終わってしまったが、この件は衛国総省お得意の情報操作によって一般人の耳に入る事はないだろう。
 だが、この対応は根本的な事が間違っている。そもそも、現場を経験していない新人を多数投入すれば、こういった事態になる事など容易に予測はついたはずなのだ。だったら初めから、そうならないようにすれば良かっただけの話なのである。もっとも、こんな事態になったのはリーダーである俺の力量不足だからだと言われてしまえばそれまでなのだが。とにかく、局長かもしくは更に上の判断だ、現場の人間は黙って従う他ない。
 歩道を行き交う人の群れには、当たり前のように人間型ロボットが紛れ込んでいる。ロボットが外を歩いている事に誰も気を留めないほど、今の時代はロボットの存在が当たり前になっているのだ。けれど奇妙な事に、ロボットの行動原理については未だに解明されていない部分が多い。それは、手術には欠かす事の出来ない麻酔に似ている。
 今回の事件に限った事だが、俺達は不要だったのかもしれない。
 実際、スターリングバンクを襲撃したのは人間の強盗グループだ。現場に居たレオンはあくまで頭取を保護していただけであり、警察が来るまで、おそらくは警察官の制服を着た人間が駆けつけるまで立て篭もるつもりだったのだろう。カオスが来なければ、いづれ所轄警察が事件を処理する。犯人が牢屋にぶち込まれ、レオンは主人の元へ誇らしげに戻る。絵に描いたようなハッピーエンドだ。
 レオンはエモーションシステムを搭載した戦闘型ロボットだが、マルチプロセッサシステムにより十分なリソースが確保されていたため感情は極めて安定している。稼働時間はそれほどでもないが、多少複雑な状況でも善悪の判断が正常に行えるぐらいには成長していたはずだろう。けれど、それ以外の判断能力が未発達であったため、衛国総省と強盗を見分ける事が出来なかった。戦闘型ロボットだから過剰に警戒されてしまったせいもあるけれど、やはり一番の原因となったのはこの判断能力と言わざるを得ない。
 事件に関わっていたのが戦闘型ロボットだったから。
 それだけの理由で、有無を言わさず破壊する行為に疑問符が続いた。破壊した当事者がこんな事を考えるのもおかしい話だが、たとえ仕事だとしても、何故ロボット犯罪を取り締まるためのカオスが人間で編成されているのか、これが人間に対する人間への信頼ならば、今日のやり方ではまるで報い得ていない。ただ破壊するだけならロボットがやれば良い。人間がやるからこそ、破壊の他にもう一つ、鎮圧という選択肢があるのだ。
 俺の自宅は郊外の寂れたマンションの一室にあった。
 入居者もほとんどなく、建物自体もかなり年季が入っている。駐車場は空き地を舗装しただけのもので屋根はなく、あちこちがひび割れて老朽化が激しい。これだけでも十分、どうして入居者がいないのか、その理由を考えるのは難しくなかった。
 この場所を選んだ理由はそう難しい事ではなかった。単純に、周囲にあまり人が居なくて静かだからである。出来る限り人がいない場所であれば、後はある程度広い部屋であればそれで良かった。つまり俺には、人間嫌いの気があるのだ。
 照明の割れた薄暗いエントランスから俺の部屋のある五階までは階段を登らなければならなかった。エレベーターは去年動かなくなったきりそのままだ。一度だけ貸主に連絡したが修理業者を手配する様子は一向に見られず、以来そのままなのである。
 ドアの前まで来るとインターホンではなくドアをノックした。インターホンはここへ越して来た時には既に壊れて使い物にならなかったのである。
「夕霧、俺だ」
「はい、只今」
 内側から返事と共にロックの外される音が聞こえる。そしてドアが内側へゆっくり開いた。
「お帰りなさいませ、御主人様」
 ドアを開けると、そこには恭しく出迎える黒髪の女性がいた。いや、正確に言えば女性型のロボットだ。全く癖のない黒髪は顎の下ほどで綺麗に切り揃えられ、着ているのは黒地に金糸でさりげない刺繍の施された合わせ着、その上に真っ白なエプロンをかけている。そのエプロンには僅かに水滴の跳ねた跡があった。おそらく家事をしていた途中なのだろう。
「御夕食になさいますか?」
「いや、先に酒を持って来てくれ。いつもの奴だ」
 脱いだ上着を夕霧へ預け、俺はふらふらとリビングへと向かう。
 リビングにはロングソファーが一対、ローテーブルを挟んで並んでいる。その内の右側に体を沈めるように腰を下ろす。
 体が疲れている訳ではなかったが、どうしようもないほど気持ちが陰鬱で仕方なく、何をするのも億劫でならなかった。手元に転がるテレビのリモコンにさえ手を伸ばす気にはなれない。多分、物事があまりにうまくいかなかったせいで拗ねているのだろう。憂鬱に陥るとはそういう事だ。
 間も無く、夕霧がキッチンからトレイを手にしリビングへやって来る。夕霧は俺のすぐ足元に正座すると、トレイからローテーブルへ並べて行き、グラスへ氷を入れてウィスキーを注ぐ。水滴で濡れたグラスを一度拭き、どうぞ、と静かにグラスを差し出して来る。そのグラスを受け取るなり、俺は一息で中身を飲み干してグラスを突っ返した。夕霧は黙ってグラスを受け取ると、もう一度ウィスキーを注ぎ差し出して来る。
 小皿にはサワークリームの乗ったクラッカーと幾つかの種類のチーズが綺麗に盛り付けてあった。新しく注がれたグラスを一口傾け、チーズを一切れ口の中へ放る。チーズの甘く苦い感触をウィスキーの後味と混ぜ合わせながら飲み込む。それで幾分かは気持ちの重りが解けていった。
「御主人様、本日はお疲れのようにお見受けしますが」
「いや、今日の仕事は後味が悪かっただけだ」
 そうですか、と夕霧は一言答え口を閉じた。夕霧は元々目を伏せがちでこちらを真っ向から見据えてくる事は無い。そんな態度が逆に、こちらの好奇心を煽り立ててくる。
「どんな仕事だったのか訊かないのか?」
「後味が悪かったと仰られましたから」
 なるほど。俺は肩をすくめた。
 夕霧は必ずこちらの機嫌を損ねぬように言葉を選んで回答する。それだけに夕霧がどう答えるのか、実際に答えるよりも先に予想がついてしまうのがほとんどである。教科書通りの会話ではすぐに言葉は途切れる。けれど、俺はそんな希薄な会話が好きだった。
 夕霧は、元々はジャンクショップで売りに出されていたのを俺が買ってきたものだ。元はどこかの高級料理店の給仕だったそうだが、ある日突然故障してしまったため売られてしまったのである。そういう出所だけに、基本的な言葉遣いや立ち居振る舞いは実に洗練されている。こんな寂れた薄暗い部屋には不似合いだろうが、身の上を考えると案外マッチしているのかもしれない。
「週末、アイダがうちに来る。料理を用意しておいてくれ。ワインは俺が買って来るからクーラーだけ出してくれればいい」
「かしこまりました」
 またも夕霧は何の追求もせずに淡々と受け答える。だから俺はいつも思う事があった。どうすれば夕霧は動揺を見せるのかと。
「アイダが来るのは嫌じゃないか?」
 その好奇心を言葉に変えて放ってみる。けれど、自分で期待したほどの力は無かったのか、夕霧は伏せていた目をしばしの間こちらへ向けただけだった。
「私は御主人様の決定に従うのみですので。好きや嫌いといった考え方は持ち合わせておりません」
「だが、アイダはお前を嫌っている。正確に言えば、お前が俺の部屋に居るのが嫌なのだろうが。それについてどう思う?」
「私にはお答えしかねます。私は御主人様の命令に従うまでですので。御主人様が私を必要とされている以上、あまり重要なことではありません」
 それも方便だ。ただ、主人である俺の意見を覆してまで自分の意見を主張する理由が見つからないだけだ。
 夕霧に搭載されているエモーションシステムは故障しているという。そのせいか、夕霧はいつもどこか自虐的で、厭世的なものを匂わしている。感情があるにも拘わらず、笑った顔など一度も見た事が無い。だが、そんな所が気に入っているといえば気に入っている。俺が一目見た数分後に夕霧を買ったのもそれが少なからず理由になっている。
「主菜は如何いたしましょうか?」
「魚料理にしてくれ。味はアイダの好みに合わせてくれて構わない。その辺を何か適当に見繕ってくれ」
「かしこまりました」
 楚々と受け答える夕霧の表情は相変わらず薄く、自らを主張する事がすっぽりと抜け落ちている。給仕という設定が残っているせいなのだろう。是か非か以外の自己主張は、そもそも概念として持っていないのかもしれない。
 ある意味、夕霧の生き方は正しいと思う。下手に自分を主張しなければ、人間に訝しがられ軋轢を生む事もないからだ。
 ならどうして、人間は感情を持ったロボットを作ったのだろうか。それとも、こうなる事を予測出来なかっただけなのだろうか。
 疲れが過ぎているせいか、二杯目のグラスを空けても一向に酔いの兆候が現れない。まるで水を飲んでいるような感覚だ。自分でそれが危ういものだと自覚はあるが、かと言って具体的にどうしようかという行動的な気分にもなれなかった。
「もう一杯、如何でしょうか」
「ああ、貰おうか」
 常々、俺はこう思う。夕霧は俺にとって過ぎた玩具だ、と。
 夕霧はもっと人間性の高い人間の元に居るべきだ。けれど、俺は夕霧を手放すつもりも無い。人間性が低いが故の矛盾だ。