BACK

 時折、夕霧には耳掃除をして貰っていた。それも決まってカオスの出動があった日である。
 仕事が終わり部屋へ戻ると、まずシャワーを浴びて服を着替え、夕霧にそれを命令するのが大抵の流れだった。夕霧が自分から言い出す事は無く、また俺自身も必要を訊ねるように指示はしていない。あくまで俺が必要を感じた時に夕霧に命令するのだ。
 それは、人には言えない俺の秘密だった。
 人間型ロボットが一般人の所得でも購入出来る現在、独身の男性がロボットに家事をさせる事はさして珍しくは無い。しかし、俺のように女性型ロボットを購入する若い男性はあまり一般的ではなく、比較的ある一部の特殊な人種である。それはほとんどの場合、ロボットを性愛の対象として愛でるからだ。俺はそんな感情を夕霧に持っている訳ではないが、やはり世間体はある程度気にはするし、耳掃除の事は絶対に人には知られたくない。耳掃除は夕霧に対する甘えの具体化でもある。
 その日も俺はソファーに夕霧を座らせ、太股を枕に耳掃除をさせていた。今日も昼間、とある事件で部下を一人連れての出動があった。事件そのものは何ら問題無く処理出来たのだが気分は酷く憂鬱だった。最初、部下を連れて飲みに行こうと思っていたのだけれど、とてもそんな気分にはなれず帰って来ていた。
 食事も取らず、耳掃除をさせながら傾けるウィスキーは水のように味気なかった。空きっ腹には劇薬のように染み渡るのだけれど、それが過ぎてしまえば何も残らない。そのせいで次から次へとグラスを傾けるのだが、やがてそれも飽きた。
「御主人様、金曜日の御夕食は如何いたしましょうか? アイダ様がお見えになるのでしたら、晩餐の用意をいたしますが」
「今週は来れるかどうか分からないが、一応用意出来る体勢だけは作っていてくれ。分かり次第、連絡はする」
「かしこまりました」
 夕霧は俺に対しどこまでも従順なロボットだ。いや、ロボットが人間に従順なのは当然な事だ。
 人間は自分に対して従順な存在に敵意を持つ事は無い。しかし、どうしてアイダは夕霧を嫌うのだろうか。夕霧は一度たりともアイダに逆らった事はないというのに。俺はロボットに対して親近感を覚えているが、アイダの言い方はそれがまるでコミュニケーション能力が欠落しているかのようだ。そういったものとは違う、犬猫に感ずるそれと同じなのだけれど。そもそもアイダがロボット自体を嫌っているのか、と思えばそういう訳でもなく、アイダの自宅には家事を行うロボットが二人もいる。アイダは夕霧のみを嫌っているのだ。
「最近、思うんだが。俺はこの仕事に向いてないんじゃないかな」
「御主人様ほどの優れた才気は、衛国総省に二人と居ないと私は考えておりますが」
「世辞はよせ。今はそういう気分じゃない」
「申し訳ございません」
 夕霧は普段の口調で謝意を示す。
 別に夕霧は悪くない。俺の機嫌を損ねないように言葉を選んだだけなのだ、人の気遣いを非難するのはむしろおかしい。だが、そうと理解してもいなくても、自らに非があると判断するのはロボットの性だ。ロボットはそれだけ、人間との距離を遠く考えているのだ。
「こういう時は、何故そう思うのか、問うものだ」
「それでは僭越ながら。何故、御主人様はそのように思われるのでしょうか?」
「充実よりも嫌な気分になる事が多いからだ。今の仕事は俺の天職じゃないよ」
「では、どういった仕事なら充実感を得られるとお考えなのですか?」
「さあな。案外、人と関わるのが嫌なのかもしれないな」
 治安維持を目的とする仕事は、大なり小なり他人の生活に関わる事は避けられない。そしてそこには、必ずと言っていいほど社会の暗黒面が口を開けて待ち構えているのだ。人間の生活なのだから人間の感情があって当然である。しかしもう一つ、現代の社会には似て異なる感情が存在する。そう、ロボットだ。
 ロボットの行動は非常に不可解だ。それは単純に人間と同じだけの物事を理解する能力が無いだけの話なのだが、時折人間と同じ行動に出る事があって、それが酷く気持ちを掻き乱すのだ。俺はロボットに対して親近感を抱く一方で、拒絶したい嫌悪感も抱いている。本当の意味で自分がロボットに対しどちらへつきたいのか、自分でも見つけかねている。嗜好なんて最も主観的で明確にし易いものだというのに。こればかりは乖離が進む一方だ。
「もし俺が死んだらお前はどうする?」
「私はそれでもあなたの傍に居させて頂きます。この身が朽ち果てるまで」
 死体と一緒に居るつもりか。
 ロボットは自らの設定を自ら変える事が出来ない。これが人間との決定的な意識差だ。人間は過去と現在を区別した上で自己判断出来るが、ロボットにはその概念が無い。俺が死んだ場合の事を命令しない限り、夕霧にとって俺の生死は関係が無いのだ。
 ふと俺は、夕霧の受け答えに興味が湧いて来た。よくある衝動だった。餌をねだる犬に餌をちらつかせ、その反応を楽しむようなものである。
「なら、もしも俺がお前を捨てると言ったらどうする?」
 夕霧は口を噤んだ。
 俺に対する非難めいた気持ちがあるのだけれど、それを言い出せずにいるのだ。
 興味本位とは言え、悪い事をしてしまった、と俺は思った。ロボットと言えど感情はあるのだから無闇に傷つけて良いものではないのだ。
「悪かった。別にお前を苛めるつもりじゃなかったんだ。ただ、どういった反応をするか見たかっただけだ。俺はお前を捨てたりはしないよ」
「私の機嫌を取るような真似はなさらないで下さい。私は御主人様の所有物なのですから」
「そうだな」
 片側の耳掃除が終わり、夕霧に促され頭の向きを変えた。夕霧の腹から腰にかけての部分しか見えなくなったが、別段息苦しさを感じる事は無かった。それは多分夕霧の体が本物の女性と見分けがつかないほど精巧に作られているからだと思う。生活換装にここまでの精巧さは必要ないのだが、愛玩目的のロボットでは極当たり前だ。元々、夕霧は高級料亭の給仕用のロボットだったから、そういう仕様でも不思議は無い。
 アイダが夕霧を嫌う理由は、夕霧が非常に生身の女性に近い存在だからなのかもしれない。ロボットでも人間と同等のコミュニケーションが取れ、料理を始めとする家事一般に従事する能力を持つ。人間との性行為すら可能なのだ。そういった存在が俺と生活を共にしては気が気でないのも仕方が無いのかもしれない。そう考えると、アイダは夕霧をライバル視しているという事になるのだが、それは少々行き過ぎだろうか。
 果たしてロボットは人間へ恋愛感情を抱くのか。
 愚かしい疑問だとは思う。そんなもの、性格調整だけでどうにでもなるものなのだ。
 しかしそれは一般論である。そう言い切れるのは、俺が全く別な結論をこの目で見たからだ。
「御主人様は体よりも心の方がお疲れのようにお見受けいたします」
「そうだな。ここの所、仕事が辛くてな」
「昨日はどのようなお仕事だったのですか?」
「ああ、いつもの通り後味の悪い仕事さ……」
 俺を一番憂鬱にさせるのは仕事じゃない。この後味の悪さだ。
 決して、正義や法に、ましてや自分の良心に反するような事は一切した覚えは無い。全てはマニュアルとセオリー通りに、そしてほんの僅かの自己判断だ。一体どこに俺が気負いする要素があるというのか。それともこの思考自体が、疲れによる気の迷いなのか。